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Walk With God Ministries


16 07月

サタンは暗やみを支配する フランシス・フランジペイン  2019年7月16日


サタンは暗やみを支配する  

フランシス・フランジペイン

 

 多くのクリスチャンは「サタンはこの世にいるのか、それとも地獄にいるのか?」とか「サタンはクリスチャンの中にも住めるのか、それともこの世の中だけか?」というような議論を戦わせます。その答えは「サタンは暗やみにいる」です。霊的な暗やみがあるところには必ずサタンもいるのです。

 

霊的戦いへの備え

 

 多くのクリスチャンにとって(それはあまりうれしくないことかもしれませんが)「霊的戦い」は、今まで経験したことのない領域へと私たちを導きます。悪霊との対決を考えると、私たちは不安になります。私たちはイエスのもとにきた「迷える羊」であって、「戦士」として馳せ参じたつもりは全くないのですから。

 

 ですからある人たちは、実際に霊的戦いを自分の方から仕掛けることは絶対ないかもしれません。しかしすべての人は、サタンの方から私たちに対して戦いを挑んでくるという事実に直面することになります。ですから、私たちが平安な生活を送るためには、サタンの攻撃に対して無防備な領域が自分の中にあるかどうかを見極めることが絶対に必要であるのです。

 

ユダの手紙1:6に「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」とあります。

サタンが神に反逆したとき、彼は、聖書が「 穴 pit =hell」(2ペテロ2:4)あるいは暗やみの「束縛 bonds」と呼ぶ場所で、永遠のさばきの下に置かれたのです。サタンと 堕落天使たちは暗やみの中に住むように指定されたのです。

 

この暗やみとは、ただ単に光がない場所をさすだけではありません。聖書が言うところの永遠の暗やみとは、本質的に倫理的暗やみを指していて、それは究極的には本当の暗やみへと堕ちていきます。それは単に光がないだけではなく、光なる神が存在しない場所です。

サタンが追いやられた暗やみは、人間の外側にしかないわけではないと知ることは非常に重要です。しかし、イエスを知らない人々とは違い、私たちクリスチャンは暗やみの圧制からは既に救い出されています。(コロサイ1:13)

 

もし光によって生まれたならば、私たちは暗やみに閉じ込められてはいません。しかし、自分の罪を容認し、その結果生じる暗やみをそのままにして受け入れてしまうならば、私たちはサタンに攻撃の余地を与えるのです。何であれ私たちの中に神の御ことばに対して不従順な領域があるならば、そこに霊的暗やみが生じ、サタンが入り来む可能性が出てきます。

 

イエスも次にように警告しています。「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」(ルカ11:35)あなたの中には光があります。

 

「人間の息(spirit)は主のともしび、腹の底まで探りだす。」箴言20:27

 

あなたの霊はキリストの御霊によって明るくされ「主のともしび」となり、 主はその灯りであなたの心を探るのです。

 

実際、御霊に満たされた真のクリスチャンのまわりには聖い輝きがあります。しかし罪を宿すならば、「あなたの中の光」は「暗やみ」となってしまいます。サタンは「暗やみの領域に住む権利」を神から法的に与えられています。ですから、私たちは次のポイントを把握せねばなりません。「サタンは暗やみの領域ならばどこにでも出入りすることができる。それはクリスチャンの心でもそこにまだ暗やみがあるならば入ることができる。」のです。

 

脱穀の時

 

 人間の肉的な部分にサタンが入ることを許された例として、ペテロがイエスを否んだことがあります。ペテロがここで罪を犯したことは明らかです。しかし、私たちが見落とし勝ちなのは、実際に霊の世界で起こったことであり、それは目に見えない部分です。

イエスはペテロが三回主を否むことを正確に預言しました。あの夜のペテロの言動を見た者は皆「彼が主を否んだのは恐れの故であった」と単純に結論づけるかもしれません。しかしながらペテロは性格的にそのような者ではありませんでした。

 

彼はその数時間前にイエスを捕えに来た大勢の者にむかって剣を抜いたような者でした。違うのです、人間的な恐れがペテロに主を否ませたのではありません。ペテロの裏切りはサタンから誘発されたものだったのです。イエスは彼に警告しました。

 

「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:31−32

 

背後でサタンは、ペテロを麦のようにふるう許可を要求し聞き入れられていたのです。サタンはペテロの心の暗やみの領域に入る許可が与えられたのです。

サタンはどのようにペテロを陥れたのでしょうか?過ぎ越しの食事の後、イエスは弟子の一人が裏切ると言われ、弟子たちは議論を始めました。

 

「そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。」ルカ22:23

そして、それはとても厳粛な時であったにもかかわらず、「彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。(ルカ22:24)」のです。弟子たちはイエスの言葉にまずショックを受け、うろたえたのですが、次にだれが一番偉いかという議論へと移っていったのです!

そして明らかに、水の上を歩き、一番大胆で雄弁なペテロが勝ったことでしょう。弟子たちの間で目立っていたことで、ペテロは優越感を持っていたと想像することができます。それがサタンによって煽られ、誇らしげな態度になっていったのでしょう。ペテロはプライドで高慢になり、それが失墜する要因となったのです。

 

プライドはもともとサタンが失墜した原因でしたし、サタンがペテロを失墜させるために用いた暗やみでもありました。ルシファーは自分自身の経験から、「宗教的プライド」や「妬み」に対する神の裁きの厳しさをよく知っていました。彼は「高ぶりは破滅に先立つ」(箴言16:18)ことを身を以て知っていたのです。サタンは、無差別にペテロを攻撃し破滅させる権利は持っていませんでした。彼はペテロを攻撃する前に「ペテロの主」から許可を確保せねばなりませんでした。ですからサタンはペテロをふるいにかけることを願い、聞き入れられたのです。

 

神に服従する

 

 ペテロを失墜させるためにサタンが用いた罠は、ペテロ自身のプライドの罪でした。私たちも霊の戦いの前には、自分が暗やみに隠している部分こそが、やがて私たちが敗北する領域であることをはっきり悟りましょう。

私たちが直面する戦いは、自分のうちにある暗やみを自らはっきり認めて悔い改めるまでは止むことはないのです。もし私たちが霊的戦いに勝利したいならば、まず自分の心を吟味せねばなりません。私たちはへりくだって神と共に歩まねばなりません。私たちが取るべき最初の行動はヤコブ4:7にある「ですから、神に従いなさい。」であり、次に「そして悪魔に立ち向いなさい。」です。そうすれば悪魔はあなたがたから逃げさるのです!

 

サタンは 聖徒たちを滅ぼす許可は決して与えられていません。彼が許されるのは、私たちを「麦のように」ふるいにかけることだけです。すばらしいことに、神は私たち一人ひとりの中に「麦」があることをご存知です。このタイプのサタンの攻撃、即ち神の御こころで許可された攻撃は、プライドのある魂を聖め、よりよい柔和さと透明さを私たちの人生に作りだします。

攻撃を受けたときは苦しいですが、神はそれを益としてくださいます。

私たちの外側の籾殻のような性質が死ぬことによって、新しく創造された者として麦のような性質が生まれ出るようにせねばならないのです。籾殻も必要でした。それは人生の厳しさから今まで私たちを守っていてくれたのです。しかし神が私たちを真に用いるためには、どのような形であっても、必ず私たちは脱穀の時を通るのです。

 

ペテロの籾殻のような性質は、押しが強く高慢なことでした。彼の当初の成功は、野心と自分中心な考えを持たせました。神はプライドが打ち破られていない人には、決して神の御国をお任せにはなりません。プライドは暗やみが身につける鎧そのものだからです。サタンがペテロを攻撃する許可を要求したとき、イエスが言われたのは、「彼をふるいにかけることは許す。しかし彼を破滅させることはできない。」ということでした。ペテロに対する攻撃は激しいものでしたが、制限があったのです。そしてすべては神の目的のためでした。

 

聖霊が私たちに悔い改めるべきところを示されたとき、自分の内に頭をもたげる自己防御の本能を克服せねばなりません。

心の中の暗い押し入れから出て来て「私の依頼人はそんなに悪い人じゃありません。」と弁護する小さな弁護人を、私たちは黙らせねばなりません。あなたの「弁護士」は、あなたが死ぬまであなたを弁護し続けるでしょう。そしてもしあなたが彼に耳を傾けるならば、あなたは決して自分の悪いところを見ようとせず、変える必要があるところと正面から向き合うことをしないでしょう。戦いに勝利するためには、あなたの自己保身の本能を主イエスに明け渡さねばなりません。キリストだけがあなたの真の弁護人だからです。

 

この事実をしっかり信じることなしに、私たちが霊的戦いをすることはできません。事実、ヤコブ4:6には「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」と書かれています。神は高ぶる者に反対されます。これは非常に重要な聖句です。もし神が高ぶる者を退けられるならば、そして私たちが高慢すぎて自分の過ちを認めず、へりくだらないならば、その時神は私たちを退けられるのです。

ヤコブは続けて7節で「ですから、神に従いなさい。そして悪魔に立ち向いなさい。そうすれば、悪魔はあなたから逃げ去ります。」と言っています。私たちがこの節を読むとき、往々にしてこの節だけを取り出し、霊的戦いの記念碑のように見てしまいます。しかし、これは「悔い改め、へりくだり、聖い心を持つならば、サタンは私たちから逃げさる」という文脈の中に置かれているのです。

 

私たちは「なんとなく神に従う」という曖昧な態度を越えねばなりません。

自分の戦いのまさにその領域を主に委ねなければなりません。私たちは、サタンの力に立ち向かうとき、イエスに服従する心で戦わねばなりません。

 

あなたがこれから霊的戦いに勝利するためには、この原理を知り、理解し、適応することが重要です。その原理とは次のことです。勝利はあなたが「イエスの御名を呼ぶこと」から始まりますが、それは「あなたの心にイエスの性質があらわれる」までは成就しません。この規則は霊的戦いのすべての面に適応されます。

 

「 私に対する神の唯一の答えは、私がキリストに似た者になることである」とあなたが真に悟るまで、サタンはあなたの弱い部分を攻撃する許可を得ているのです。あなたがイエスの御名を呼ぶだけではなく、イエスの性質をも現し始めると、敵は退きます。サタンがあなたを滅ぼそうとした計画が、かえってあなたを完全にするために用いられたとき、サタンはあなたへの攻撃を止めるのです。

 

ペテロの経験の結果は、ペンテコステの後、神が足のきかない男を癒すためにペテロを用いられたとき、へりくだったペテロが群衆に語ったことでした。彼は

「なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」(使徒行伝3:12)と言いました。自分の傲慢さとサタンに対するペテロの勝利は、彼がイエスの御名を呼んだときに始まり、イエスの性質が彼の心に中に生まれたときに完成したのです。ペテロの中の暗やみは光に置き換えられ、プライドはキリストに置き換えられたのです。(終り)


08 07月

砂漠で花を咲かせる キャシー・ウオルターズ 2019年7月8日


砂漠で花を咲かせる

 

キャシー・ウオルターズ (Kathy Walters Ministry)

 

 

  あなたは砂漠に行ったことがありますか?私は以前、エジプトの砂漠にバスに乗って行ったことがありますが、午後1時半頃、バスが故障してしまいました。そこはとても暑くてカラカラに乾いていて、何も生えていませんでした。見渡す限り砂、砂、砂、他には何もありませんでした。有り難いことに、しばらくすると他のバスが助けに来てくれ他ので助かりました。その経験を忘れることができません。

 

神は私を殺そうとしているのか

 

ある時、一人の方が私に預言して言いました。「神は砂漠であなたに語られます。」それを聞いたとき、私はエジプトで経験した砂漠を思い出し「神は私を殺すのだ」と思いました。神は私を砂漠のような荒野に置き去りにして、何ヶ月も何年もさまよわせるのでしょうか。

その預言を受けたとき、私は神のためのミニストリーで忙しくしていましたし、神は確かにそれを豊かに用いてくださり、人々は神にふれられ、私のミニストリーは非常に巧く行っていたのです。ですから神が「砂漠に行きなさい。」と言われた理由は私には全くわかりませんでしたし、少々迷惑でした。神は私のミニストリーの邪魔をしたいのでしょうか?

 

どうして主は砂漠に導かれるのか

 

どうして神は時として私たちを砂漠のような荒野に導かれるのでしょうか? 何かの罰でしょうか? 子供を部屋の隅に立たせるようなことでしょうか?私たちが砂漠で生き残れるかどうか試すためでしょうか? それではまず、砂漠であたりをよく眺めてみることにしましょう。

そうです、何もありません。全くもう、どうしたらいいのでしょう? ちょっと待ってください、あなたの方に歩いて来る人がいませんか?

その人は何故かあなたの心を惹き付けるのです。あなたはその人に注目し釘づけになります。他のものはもう何も目に入りません。

ホセア2:14「それゆえ、見よ。わたしは彼女をいざなって、荒野に導いて行き、ねんごろに彼女に語ろう。」

 

そうです、砂漠にいるこの人はあなたの注意を引きました。そしてあなたは少し忘れかけていたような事を思い出したのです。勿論本当に忘れてしまっていたのではないのですが、あなたの人生の奥の方に押しやられていたのです。

 

このひとは誰

 

荒野にいるこの人は、非常に麗しく、特にその目は澄んで美しく燃える火のようで、あなたを貫くように見つめました。そして何という愛でしょうか!彼は非常に優しく、恵み深いのです。思い出しましたね!彼は主イエスです! あなたの心は溶かされて崇拝の霊に満たされて、感謝と大いなる喜びが涌き上がります。

「今までどこに行っていたのですか?」と主があなたに訊かれます。

「えーっと、私はあなたの御国であなたのために忙しく働いていました、、、」

そう言った途端、「それはどうでもいいことなのだ」とあなたは気がつきます。主は「あなた」を知りたいのであって、あなたがしていたことには興味がないのです。主はあなたにだけ焦点を当てています。主は「あなた」を愛しておられるのです。

ホセア2:16で主は「その日、あなたはわたしを『私の夫(ISHI)』と呼ぶ。」と言われます。「ISHI」は預言的に「親しい関係」を意味しています。

 

私の夫(ISHI

 

主はあなたに思い起こさせたいのです。主はあなたとの親密な関係を望んでおられることを。そしてあなたはただ単に「主に仕える者」ではなく、「主に愛されている者」であることを。又次の事も主はずっとあなたに伝えようとしておられました。即ち、新しい方向性、今までその時間はないと思っていた人との関係を再び結ぶ事、今までとは異なる領域のミニストリーの可能性等々。

 

あなたは今砂漠にいるかもしれません。しかしだからと言って自分の中が砂漠である必要はないのです。イエスは「あなたの内に泉が湧き出て永遠のいのちへの水が湧き出る(ヨハネ4:14参照)」と言われました。あなたの内から泉が湧き主への讃美と愛慕が流れ出すのです。そして知らない間にその流れはあなたの周りのものをもすべて潤すのです。あなたは全てのものを違う目で見るようになり、今まで気にも留めなかった人々に愛しさの感情を持つのです。

 

花を咲かせる

 

砂漠にイエスが来られると、砂漠は消えてなくなります。砂漠に花が咲き始めるからです。砂漠に咲く花のことを聞いたことがありますか?

イザヤ35:1、2「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。」

イザヤ35:6、7「そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり

潤いのない地は水のわく所となり、、、」

これはあなたが主に応答し、あなたの中からいのちの水が流れ出るときに起こります。ISHI—親密な関係です。愛する方はここにおられ、あなたの中のいのちの泉にふれておられます。

雅歌2:16「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」

砂漠に麗しいリンゴのような甘い香りが漂ってきました。讃美の花、感謝の花が咲き匂っています。そこは素晴らしい場所になりました。

 

雅歌8:5「自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう。」

 

誰かが愛する者に寄りかかって荒野から上ってきました。誰でしょう!それはとても美しい人です、、それは「あなた」です!(終り)


01 07月

十字架の向こう側 ボブ・ジョーンズ 2019年7月1日


十字架の向こう側

 

ボブ・ジョーンズ(Bob and Bonnie Ministry )

 

(これは1995年のボブ・ジョーンズのスピーチです。彼は2016年に天に召されました)

 

最後のバッター「恵み」

 

10年前(1985年)の5月21日、それは、ペンテコステの日でしたが、主が野球の試合のヴィジョンを与えてくださいました。

試合は、悪魔のチームと神のチームとの対戦でした。9回の裏で両チームともそれまで得点がなく、神のチームが9回の裏の攻撃を始める時でした。主が最初のバッターを送られました。その名は「愛」でした。サタンが投球し、「愛」がバットを振りました。愛は常に神を喜ばせ、決して失敗しないのです。(Love never

fails)それはヒットとなり、愛は一塁に走って行きました。主は次のバッターを送られました。それは愛と共に働く「信仰」でした。サタンが投球し信仰がバットを振り、ヒットとなりました。信仰は神を喜ばせ、愛と共に働くのです。信仰も決してしくじることはありません。主は次のバッターを送られました。それは「知恵」という名でした。サタンが投球しましたが、知恵はバットを振りませんでした。サタンは次つぎに球を投げましたが、知恵はよく球を見たのでフォアボールとなりました。神の知恵はサタンが投げる悪球に引っかからないのです。

 

神は今、このように愛、信仰、知恵を私たちの人生に働かせ、私たちを成長させようとしておられるのです。3塁に愛、2塁に信仰、1塁に知恵と、満塁になったとき、主は次のバッターを送られました。「わたしはいま最強のものを送る」と主は言われました。それは今まで見たことのないピンチヒッターで、その名は「恵みGrace」でした。サタンが投球し、恵みがバットを振りました。バットが折れるようなものすごいヒットとなりました。しかし「嘘つき」が外野にいてそれを阻止しようとしました。嘘つきのハエは空中にいるのです。教会の中でサタンは悪いうわさやゴシップをはびこらせ、神の栄光を隠していました。「嘘つき」は「まかしておけ!絶対取るぞ!」と叫びましたが、球は彼のグローブを通り抜け、ホームランになりました。4人の走者は全部ホームインして神のチームの勝利となりました。「4」は聖霊のナンバーです。聖霊の働きがこれから強くなるのです。

 

ゼカリヤ4:7「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運びだそう。」

 

「愛」「信仰」「知恵」は人間の働きです。それは私たちをあるところまでは導いてくれますが、ホームインさせるのは 神の「恵み」なのです。

 

ダビデの油そそぎ

 

詩編89:20「わたしは、わたしのしもべダビデを見いだし、わたしの聖なる油を彼にそそいだ。」

 

今主は、多くのダビデのような者を見いだして油を注ぎ、恵みを解き放ってくださいます。先ずすべての土台である「愛」が心から主を求める者たちに与えられていると信じます。そして「信仰」が強くされ、サタンに惑わされることのない「知恵」が与えられてきました。

 

教会は今まで「神と一緒に(with God)」ではなく「神のために(for

God)」一生懸命働いてきました。今こそ私たちが「神と一緒に」働く時です。「神が共に行かないならば私はどこにも行かない、何もしない」と決意する時です。今まで私たちは「神の手」を求めて「下さい、下さい、下さい!」と言ってきました。でも神は「そうではなくて、わたしの心を求めなさい」と言われるのです。ダビデは神の心を持っていましたね。「わたしの心を捜し求めなさい。わたしの心の内を捜し求めなさい。」と主は言われます。

 

神の心に何があるかご存知でしょうか?

それは人々の魂です。神は人々の魂を求めておられるのです。イエスは私たちに救いを与えるためにこの世に来てくださいました。そして私たちの長兄として進んで十字架にかかってくださったのです。イエスのいけにえの代価で私たちは贖われたのです。

 

御父は今もこの世を愛するゆえに、今度は「あなた」をこの世に与えようとしておられます。私たちは皆、十字架の向こう側に行かねばならないのです。十字架のこちら側にいた時、あなたは手をのばして「主よ、下さい、下さい!

欲しいです!」と言いました。でも十字架のむこう側に行ったならば、聖なる御霊が復活の力をもってあなたの内に働き始めます。そしてあなたはキリストの性質を持つ、キリストに似た者となっていくのです。その時、十字架のもとに来る人たちに必要なものをあなたが与えることが出来るのです。その時、あなたは「受ける者」から「与える者」にかわることが出来るのです。

 

主はみなさんに「成長しなさい!大人になりなさい!」と言っておられます。私たちが愛、信仰、知恵を身につけるならば、神は恵みを注いでくださるのです。その時に決して試合に負けることはありません!

 

聖霊を招き入れる

 

聖霊はずっと教会の扉を叩いておられます。人々は「聖霊よ、あなたを尊ぶと言っているグループの中で、あなたが本当に働かれるのを見たならば、私たちの教会にあなたをお迎えしてもいいかもしれませんね。でもまずその人たちが変えられるのを見たいのですよ。」と言います。

私はそれが起ころうとしていると信じます。聖霊に満たされた人々の中で主にある真の愛の交わりが具現化されていくのです。そのようにペンテコステが又現われるとき、それを見た人々は聖霊に心を開くようになります。

 

聖霊があなたに語るのを聞いてください。そうすれば私たちが語るときに、神の言葉を語るようになるのです。

私たちの口から出る言葉も神の言葉と同じように、創造の力を持つようになります。詩編115:16には「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」と書かれています。そして今主は私たちが地を主にお返しするのを待っておられます。「わたしが再び地で働く許可を人々が与えるのをわたしは待っている」と主は言われます。(サタンは私たちの許可を必要としません。彼はどこにでも勝手に無断で入っていく盗人です。)すべてのとりなしの祈り、回心の祈りは、神の介入を許可し招き入れるものです。

 

聖霊は教会の扉を叩いて「入れてください。もし入れてくれれば、わたしはあなたの教会の主となります。そして一人の方、即ちイエス・キリストを顕します。」と言っておられるのです。イエスが教会に来られると、一人の方、即ち御父を顕されます。御父は70年前、非常に嘆かれました。それは進化論が人々に受け入れられ、「人類の父は猿だ」と人々が信じ始めた時でした。進化論が「あなたの父は猿だ」と言ったので多くのクリスチャンも混乱しました。御父はバビロン捕囚のときにされたように70年を区切られました。バビロンは「混乱」という意味ですね。御父は70年間、姿を現されませんでした。今、70年が経ち、御父は再び来てくださいます。私のお父さんは猿ではなく、全能なる神です!私は自分が誰かを知っていますし、御父が誰であるかも知っています。家族なのです。

ずっと前に私は神の御心の真ん中は家族であることを発見しました。御父は家族を大切にする方です。御父が来られるとき家族を大切にされます。ご自分の子供たちがお互いの悪口を言ったり、ゴシップをするのを非常に嫌われます。

 

火のバプテスマ

 

御父は新しい土台を造られます。聖なる霊は愛です。あなたが愛に成長するならば、あなたは聖さにも成長するのです。ローマ1:4に「聖い霊(spirit of holiness)」とあります。私はどうすれば聖い霊が得られるかを主に訊ねましたが、それは聖霊のバプテスマを受けるのと同じでした。即ち、信仰によって受けるのであり、そしてそれは愛が私のうちで働くときに成長するのです。主は愛という土台を築かれておられ、それは決して壊されることはありません。

 

選ばれる者となる

 

イザヤ48:10に「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」とあるように、主はこの10年間、私たちを試煉という熱い炉で練られました。

マタイ22:14に「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。For many are called, but few are chosen. とあるように、すべてのクリスチャンは招待されて、熱い炉に入れられるのです。ある者たちは3週間で、「もう十分だ、ここから出よう。これは思っていたより熱いぞ。私の大事なもの、まだ手放したくないものがどんどん燃えてしまう!」と言って途中で炉から出てしまうのです。人は自分が捧げた分に応じて受けます。ダビデは10年間苦難の炉に中に入っていました。あなたが炉に留まり続けるときあなたは「選ばれる」のです。

今御父は、苦難の炉の中から多くの白い石を取り出しておられるのを私は見ます。主はこれらの白い石で土台を築かれます。それは祭司の土台であり、純粋な神の言葉、義と愛で築かれる土台です。

 

火のパプテスマとは聖さの霊であると主が言われました。聖さの霊があなたの生活の中で働き始めると、神の火があなたを燃やし尽くし始めます。私が罪を犯したとき、私は御父から逃げませんでした。かえって私は御父にむかって走っていったのです。そして主が言われることはすべて従いました。もしあなたの足が汚れたならば、天のお父さんのところに走って行き、主の足を掴んでください。神の火があなたの罪をも焼き尽くしてくれるでしょう。(終り)


24 06月

主の臨在の中で一日を生きるには    ポール•キース•デイビス & ブラッド・マクレンドン対談  2019年6月24日


主の臨在の中で一日を生きるには

 

   ポール•キース•デイビス & ブラッド・マクレンドン対談(WhiteDove Ministries Webinar #34より抜粋)

 

 

ポール•キース•デイビス( 以降 PK ):ブラッドさん、あなたは主の臨在の中に留まるために毎日をどのように始め、どのように過ごされているのですか?

 

ブラッド・マクレドン:朝起きて私が先ずすることは、主に「あなたは今日、何を(私と一緒に)なさりたいですか?ー私は今日何をすればよいのでしょうか?」とお聞きすることです。それが最初の質問です。それに対する主の答えは、過去数年間ずっと「今日わたしは(あなたと共に)ある人に愛を注ぎたいのです。」でした。私の心は好奇心で一杯になり「それは誰ですか?その人と私は出会うのですか? それは何処でですか?」とお聞きます。そこから主と私との会話、コミュニケ—ションが始まります。

 

それは私が先ず主にお聞きすることから始まるのです。もし、あなたの奥さんがあなたに話をしてくれないと、あなたは疎外されているように感じますね。でも奥さんと話をして仲良くしていると、とてもうれしくて元気が出てきます。私にとって朝一番に主と会話をすると、そこから一日中絶え間なく続くコミュニケーションが始まります。朝起きてすぐに主の御顔を仰ぎ見ないならば、私の頭はすぐに他のことを考え始めてしまい、主との会話をしないままになってしまいます。すると 私は一日の歩みを主と共にできないことになってしまいます。

 

私はキャサリン・クーマンの人生を調べるのが好きなのですが、彼女は「あなたはどのくらいの時間、神に祈るのですか?」と聞かれたとき、「私はいつも祈っています。I pray all the time.」と答えたそうです。そして「そんな時間をどうやって作るのですか?」という問いに対して、彼女は「ショッピングに行くときも、どこに行っても、何をしていても私は異言などで祈っています。」と答えました。ちょっとクレージーに聞こえますが、私たちはこのようなシンプルさを忘れてしまっているのではないでしょうか。このようなシンプルな鍵があなたを主との親しい交わりという栄光の中に入れてくれるのです。

 

PK:祈り方の間違ったモデルがあるのも問題ではないでしょうか。「祈りとは大声で叫ぶものである。」とかです。確かにそういう場合も時にはあるとは思います。でも夫婦の会話でも「朝ごはんを作ってください。」とかは普通に静かに話しますよね。妻が夫に話すように、私たちも主にむかっていつも普通に会話をすればいいのです。私たちはいつも叫び求めるような乞食ではないのですから。

 

ブラッド:私たちが毎日持つべき主との霊的な生活は、そのようなものです。弟子たちがイエスに何か質問するときに始まる会話は、 私たちの祈りの一つの型です。イエスと弟子たちは共に寝て、朝共に起き、話をしながら歩き始めました。祈りは主と共に生きるライフスタイルなのです。

 

PK:これに関する本で一番よいのは、ブラザー・ローレンスの「敬虔な生涯 The Practice of The Presence of God」だと思います。それは意図的に主の臨在を常に意識するということで、無言のときも 多いのです。彼は主の臨在に接続されている、即ち常に主がそこにおられることを知り、それを意識して主とつながっているということです。お皿を洗っているときも、床を掃く時も、何をしているときもその意識を持つのです。そのような習慣の力は自分の内に訓練によって養っていくことができます。

 

ブラッド:もし主が語られるならば、それを聞く用意が彼には常に出来ていたということですね。主はいつか語られることを知っている、でも語られても語られなくても、それはどちらでもかまわい、という境地ですね。

 

PK:私たちは「祈りとは即ち、嘆願だ」と間違って考えているところがあります。一日中主に嘆願し続けることはできませんが、一日中コミュニケートしていることは可能です。主はここにおられることを知り常に主を意識していることです。私は御ことばが大好きです。御ことばによって私は天とコミュニケートします。私たちは24/7、主の臨在を意識するようになれると思います。キャサリン・クーマンはそれをしたのですね。

ブラッド:その通りですね。

私は最近ある人からメールをもらったのですが、それは「今は皆が祈り込まねばならない(プレスインする)時だ。」と言う内容でした。しかし「祈り込む」というと、残念なことですが、ともすればそれは密室の祈りに集中し神に嘆願し続けることだと受け取られてしまい、それによって疲れ果ててしまう人が多いのです。私たちはそのようなマインドセットを変えて行かねばなりません。私たちは主のもとに行き、嘆願に嘆願を重ねて、その結果が得られずに疲れ果てて戻る、というような主との関係にあるのではないのです。そのような祈り方をするとき主の御声が聞こえないのは、私たちが聖霊によってではなく、自分自身の意志によって動かされ祈っているからです。主の祈りに「御こころが天で行われるように地でも行われますように」とあるように、私たちは主の御こころを知らねばなりません。

私はこのことをモレビアンフォールのワーシップ・センタ−に始めて行ったときに学びました。私はそこで大声で激しく祈っていました。(私たちは自分が祈っている声を聞くのを楽しむことがありますね。)その時主が「あなたは何をしているのですか?」と言われたのです。それはまるで主は私がずっと祈っていたことなど、全然聞いておられなかったような感じでした。主は「あなたは、わたしが祈ることを祈りたいですか?」と聞かれました。「そんな機会が与えられているのですか? そんなことが出来るのですか?」と私は心底からびっくりしました。私は「はい、したいです。」とお答えしました。するとそれから3時間、主は一言も話されませんでした。(笑)ですから私もそこに黙って座っていたのですが、主はそれを通して 「自分の意志で祈ること」から私を解放してくださったのです。3時間後に主が語られた時に、私はそれをはっきり聞くことができ、その通りに祈りました。そしてその祈りが聞き届けられたことが私にはわかりました。

いつもそのように祈らねばならないと言っているのではありません。けれども私たちが天におられる主の御こころを知り、それをこの地で祈ることができるほどに、主との親密な関係に入ることができることを、主は私たちが知ることを願われているのだと思います。

 

PK:教会が失った霊的遺産の一つに、黙想の祈り(contemplative prayer)があると思います。コンテンプレイテイブするとか、メディテイトする(黙想する)というと、人はすぐに「それはニューエイジだ」と決めつけますが、ダビデはニューエイジの出現よりずっと前にメディテイトしていました。私は「メディテイト 黙想」に関する聖句を14箇所見つけました。「神のすばらしさをメディテイトせよ」とか「神のことばをメディテイトせよ」とか「神のご性質をメディテイトせよ」とかですね。問題は私たちが静まってじっとしている訓練ができていないということです。静かに3時間しているというのはとても困難ですね。私は以前よくコンテンプレイトの祈りをしていました。これからも又、したいと思っています。

ピリピ4:6、7に「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願いを神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とあるように、私たちはすべての心の思い、願いを神に祈ったあと、平安を頂きます。

その平安の中で「主を待ち望む wait upon the Lord」のです。待つことはやさしくありませんね。これは私が経験した霊的訓練の中でもっとも難しいものでした。ディサプリン(しつけ、訓練)ですね。様々なことが頭に浮かんできてしまうのですが、真にこころが静かになると、生きた御ことばによって「知性、意志、感情、想像」というたましいの部分と霊とが切り離されていきます。

終末の教会が持つべき重要な奥義の一つは、コンテンプレイテイブの祈りだと思います。それによって、ヴィジテイション(天からの訪れ)やヴィジョンを受け、神と一致することができるのです。ブラッドさんのモレビアンフォールでの体験は、まさにそのことだと思います。あなたはこころを静め、神と一致したのです。

 

「コンテンプレイテイブな祈りをどのようにすればいいのか」という質問を受けることがあります。それは一人ひとり違うのです。私の場合は、いつもの椅子に座り、出来るだけ何も考えないようにします。どうしても頭の中にいろいろな思いが浮かんでしまうときは、「ジーザス、ジーザス、ジーザス」とずっと繰り返します。そう言っていると他の事を考えなくてすみ、私の思いもイエスに焦点が合っていきます。これが私のやり方ですが、そうする必要はありません。どういうやり方であってもコンテンプレイトの祈りをすることによって、私たちは霊的力を受けます。これからこの祈りを人びとに教えて行かねばならないと思います。

 

ブラッド:同感です。私たちは神と一致せねばなりません。不思議なことですが、この祈りに入ると、あなたはすでに主に向いているのです。あなたは意識的に主と向きあうことを選びとったわけです。コンテンプレイトの祈りが終ったあと、あなたは「何も起らなかった」と思うかもしれませんが、実際にはあなたはその中でトランスフォームされたのです。その「実」は後になってからあなたの言動の中で表されてきます。祈りの中であなたは主から何も聞かないかもしれませんが、あなたの霊の中に主が何かをインプットしてくださるのです。

 

イエスとの親密な関係を持つことが、今の時代のクリスチャン生活にとって実に「かなめ」となります。これから起ってくる出来事の中で、自分が主とどのような関係にあるのかを、一人ひとりがキチンと認識せねばなりません。即ち、自分と主との個人的な関係をしっかりと持たねばならないのです。

 

PK:これからはどうしてもある「分離」が起ると思います。聖書にも明らかですが、真理があれば偽りもあります。エデンの園には二本の木がありました。カインとアベルは共に主に捧げものをしたかったのですが、一人は自分の業により捧げ、もう一人は啓示により捧げました。イエスは同じ畑に麦と毒麦があると言われました。 毒麦は麦と同じように見えても、その中に命はないのです。今日ここで話したことの中には、「宗教」とか「伝統」にとっては不愉快なことがあると思います。私たちがキリストの霊とそれ以外の霊とを区別する物差しになるものについて話したからです。

第二コリント11章には「別のイエス 」「異なった霊 」「異なった福音 」と言うことばがありますが、「異なった霊」はまことの霊に対して必ず激しく戦いを挑んできます。それは、黙示録で「ニコライ派の教え」と言われているものであり、聖職者が一般信者をコントロールする霊です。一般信徒がヴィジテイションやヴィジョン、啓示を受けて霊的力を持つことを許さない霊です。必ずこの戦いがありますから、私たちはその備えをせねばなりません。キリストの花嫁はその戦いに備えていると思います。

 

ブラッド:戦いが激しいほど、天からのヴィジテイションも頻繁になると思います。戦いが始まり毒麦が勢いを持つ時、御国がすぐそこまで来ていることを私たちは知るのです。その時天の御使いたちがやってきて、大いなる収穫が始まります。それはなんと栄光に満ちた時となることでしょうか。人間の目には恐ろしく暗い日々のように見えるかもしれませんが、私たちが上にあるものに目を留め続け、神の視点から物事を見るならば、歴史上最高にすばらしい時となるのです。(終)

 

 

訳者注

 この記事は大分前に訳したものです。私たち夫婦はこのポール・キース・デイビス師とは数年前に会って、丁度その時は私たちが日本に出発する直前でしたので、日本に行くミッションと守りのお祈りをしていただきました。

 

   ご存知のように、クリスチャンになる最大の恩恵・特典は、聖霊なる神が私たちの内に住んで下さるように主がして下さることです。全知全能の神がいつも私たちと一緒に住んでいて下さるのですから、毎日主と会話しながら、全てを聞いて毎日を生きることができるし、しないのがおかしいのです。主は私たちと毎日会話することを何よりも望んでおられます。

 主と常に会話しながら生きるーこれほど間違いのない人生はありません。

 

 尚、もし上記の文中にある「コンテンプレイテイブの祈り」にご興味がおありでしたら、拙書「主を見つめて待つ」をお読みください。坂 達也


17 06月

「自分の十字架を負う」とは(そのニ) フランシス・フランジペイン 2019年6月17日


「自分の十字架を負う」とは(そのニ)

 

フランシス・フランジペイン(Ministries of Francis Frangipane)

 

真の福音

 

皆さんは「フランシスさん、これは私が聞いた福音とは違いますよ。イエスが私の罪の贖いのために十字架で死んでくださったので、イエスを信じれば私は天国に行けるというのが福音でしょう?」と言われるかもしれません。でもそれでは天国に行くのを先延しにしまっているのです。イエスを信じて新生したとき、あなたは死んで天国にもう行っているのです。その時からあなたは神が与えてくださった「新しいいのち」を生き始めました。それはあなたが自分の十字架を負ったとき、即ち自分に死んだとき、それが起こるのです。あなたの中にイエスが生き始めます。勿論最終的にはあなたの身体も死んで天国に行きますが、自分の十字架を負ったとき、私たちは新しい永遠のいのちを生き始めるのです。

 

ある人は「フランシスさん、自分に死ぬなんで、それはなにか東洋の宗教のようですね。」と言うかもしれません。みなさん、キリスト教は東洋の宗教です。(笑)私たちはそれをアメリカナイズしてしまって、すべての希望を「この世での人生」にだけ託してしまっています。イエスが「わたしについて来なさい。」と言われたとき、それはただ「イスラエルの道をイエスの後について歩いて行く」ということではなく、「イエスのようにこの世界を変える者となりなさい」ということです。「パワフルで素晴らしい天国のいのちを受けて全世界に影響を与える者となれ!」と言われたのです。そうなるためには、自分に死なねばなりません。それはどのような代価を払ってでも神に従うこと、即ち十字架を負うことです。

 

自己憐憫の要塞

 

今教会には「自己憐憫の要塞」という問題があります。自己憐憫は私たちの傷をいつまでもそのままに生かしておきます。自己憐憫はあなたのすべての問題をそのまま甘やかして温存させ、あなたの力を無くし、意気消沈させ、不信仰を正当化し、愛がないことの言い訳けにします。それはあなたを地獄にずっととどめるのです。

一つの経験をお話ししましょう。

私が最初に行ったのは、ハワイのマウイ島の小さな教会で、天井から6つ電灯がぶら下がっていました。ある月曜日の夜、牧師は私たち三人の若者に5分ずつ順番に説教をさせてくれました。最初の人が話し始めたとき、巨大なハワイの蜂が入ってきて大きな羽音で電灯の周りを飛び回りはじめたので、人々は彼の話をよく聞くことができませんでした。私は3番目に話す予定でしたが、「きっと自分が話す時も蜂がうるさくてみんな私の話を聞いてくれないだろう」という心配で一杯になりました。私は「主よ、この蜂をいなくしてください。主よ、どうかお願いします。」と必死で祈り始めました。でも蜂はそのまま飛び回りました。

次の人が話を始めました。私は更に霊的になって、蜂をイエスの御名において縛り始めました。「蜂よ、お前を縛る、ここから出て行け!」(笑)知っている祈りをすべて用いましたが、何も起りませんでした。いよいよ私が話す番になりました。「主よ、蜂をどうにかしてください!」と大真面目で心で叫んだとき、蜂が真上の電灯にぶつかり、私の膝に落ちてきました。そして神が「自分で殺しなさい。」と言われたのです。(笑)

私たちの中にはカウンセリングを受けてどうにか無くしたいような罪がいくつかあります。

「テレビを見すぎている」と内心思っているあなたは「雷がアンテナに落ちてテレビが見えなくなったら、それは神からのしるしだから、テレビを見るのをやめよう」と思っているかもしれません。(笑)でもあなたの人生の多くの問題は、あなた自身で殺さねばならないのです。サムソンが死ぬとき今まで以上の敵を殺したように、あなたが自分を十字架につけるならば、あなたの中の多くの罪を殺すことができるのです。

 

「十字架」が神のちからですが、それは私たちが好むようなものではなく、嫌だと思うようなものです。もしあなたが嫌ではないならば、それは十字架ではありません。何か腹が立つことがあなたの身に起こったならば、それは十字架を負うチャンスなのです。その時、あなたは「赦し」、「もう一マイル歩くこと」によってイエスを表すことができるのであり、そこに神のちからが現れるのです。あなたが気を悪くしないものは十字架ではありません。十字架はあなたが気を悪くし、腹を立てるようにデザインされています。

 

私ならば、おいしいチーズケーキを食べ過ぎて幸せな気分で死ぬことを選びます。(笑)でもどういう死に方をするかは自分で選ぶことはできません。神があなたのために特別な死に方を選んでくださいます。もしあなたが生来恐がりならば、十字架はあなたを大胆にします。人前で話すのが苦手ならば、話せるようになります。話好きならば、黙す祈りのミニストリーを下さるでしょう。(笑)パウロは大胆でしたが恐れることを学びました。彼はパリサイ人として多くの知識を持っていましたが、神は彼を異邦人に送り、自分の知識に頼るのではなく神に頼ることを教えました。ペテロは漁師で学問はありませんでしたが、知識としるしを求めるユダヤ人へのミニストリーを与えられました。神はあなたを自分に頼るのではなく、完全にイエスに拠り頼む者へと変えてくださるのです。

時には断食をする必要があります。断食と祈りの奥義を学ばねばなりません。睡眠時間をけずって朝早く起きて祈ることも必要です。私たちは「古い自分」を喜ばせてばかりいてはいけないのです。

 

私は夜生まれたので、いまだにその習慣があり早朝に起きるのが非常に苦手です。(笑)でもあなたの町を変えたいならば、早朝の祈りの戦いが必要であり、それがあなたが負うべき十字架です。朝5時にあなたの枕は雲のようで、毛布はベルベットのように心地よく感じます。目覚ましが鳴ると、あなたの手だけが起きて、「あと5分」のボタンを押します。そして「今朝はシャワーはなしですませよう。」とつぶやきます。(笑)でもあなたは5分後に起きねばなりません。あなたの十字架を負うのです。

 

自分の町のための祈り

 

ある時、私の町の6つの教会の牧師たちが一緒に祈る機会があり、それは本当にすばらしい時となりました。お互いに競い合っていたような思いが打ち破られて、一致して祈ることができました。そしてそのような祈り会を毎週火曜日の朝6時半からしようと皆で決めました。神の臨在がすばらしかったので、それが決まって私は本当にうれしく思いました。次の火曜日に私が行くと、他には誰も来なかったのです!その教会の牧師さえも来なくて、「玄関マットの下に鍵があります」というノートだけがありました。私は中に入りましたが、暖房や電気をつけるスイッチの場所さえ分かりませんでした。アイオア州の一月は凍るような寒さでした。私は気を害し腹が立ちました。私は一人で祈り始めましたが、最初の20分は「兄弟の告発者」のような祈りでした。(笑)次の20分は神に文句を言いました。「『わたしを信じた者をわたしは失望させない』とあなたは言われましたが、でも今、私は本当に失望していますよ。先週はすばらしい祈り会だったのに、今日は私一人です。どうしてあなたは後の5人を起こす恵みを与えてくださらなかったのですか?

一人だけ起こす、それも私を起こす恵みしかなかったのですか?」勿論、この態度は決して誇るべきものではありませんが、私は本当に腹を立てていたのです。(笑)

このように暗く冷たい教会で一人で神に文句を言ってやっと少し落ち着いたとき、主が語られました。「わたしが呼んだ時にどうして誰も答えなかったのか。わたしは破れ口に立つ者をさがしていたのだ。」突然、私は神がこの町のために私を召しておられることを悟りました。私は「主よ、私は祈りの勇士ではありません。何時間も祈ることなど出来ません。」と申しあげました。主は「わたしが求めるのは、ただわたしに応答し、そして破れ口に立つことだけだ。破れ口(gap)とは『町の現状』と『わたしの力が変えた町の姿』との間にあるスペースだ。だからあなたがそのスペースに立ってとりなしてほしい。」

その時、早朝に起きて一人だけで祈ることを嫌っていた私の弱さは、神の油注ぎによって消えて行ったのです。その時始まったことが、現在は何千という町での祈りのムーブメントとなっているのです!

教団教派を越えて自分の町のために牧師たちが一つになって祈っています。私が一人で祈った一月の寒い朝、私が主に「はい」と応答して十字架を負った時、それは始まったのです。それ以来、他の町に出かけていないかぎり、私は火曜日の朝の牧師の祈り会に出席しています。また、水曜日の朝6時半には市長の部屋での政治家と牧師たちの祈り会もしています。すべては私一人が他に誰もいない時に神の召しに応答したことから始まったのであり、その時に神の力が来たのです。

 

十字架を負う素晴らしさ

 

あなたが一人で傷ついたとき、その傷口から流れるのは「神への礼拝」でしょうか、それとも「苦々しさや恨み」でしょうか。誰でも切られ傷つく時があります。その時あなたから流れるものは「愛」でしょうか、それとも「神に対する怒り」でしょうか。あなたが置かれている状況の中で十字架を負う道を選びとるならば、自分の力で出来ることを遥かに越えたすばらしいことを神はしてくださいます。

ある時私は、ある大きな教会の牧師からメッセージの依頼の電話を受けました。一回の謝礼は6千ドル(60万円)ということでした。私は「あなたの町では教会の牧師たちの祈り会をしていますか?」と聞きますと、「残念ながらまだしていない」ということでした。神は私に「牧師たちの祈り会のない町には行かないように」とはっきり幻で示されていたので、私はその旨伝えてお断りをしました。断ってから少し残念な気もしました。というのは、当時の私の牧師としての給料は1年で6千ドルで、子供が5人いて赤貧の生活をしていました。それが一日で6千ドルというのですから、本当にすごいことだったのです。「バックスライドして気を変えた時のために、電話番号をもらっておけばよかった。」という思いも横切ったのです。(笑)

しかし3、4ヶ月経ってから同じ牧師から電話があり、「驚かれると思いますが、この町の牧師たちに電話をして祈り会を始める事が出来たんです!今はいろんな教派の12人の牧師が集まって祈っているのですよ!

とても祝福されています! 是非、話に来てくれませんか?」と頼まれました。私は喜んで承諾しました。最初に断ったとき、それは十字架を負うことでした。自分を否んで貧しいままでいること、弱いままでいること、小さい者のままでいること、自分で物事を動かそうとしないで神に従い委ねることは、即ち十字架です。しかしその時、神にしかできないことが起来ます。十字架には神の力が附随しているからです。

イエスが十字架にかかったとき、そばに残ったのは、一人の弟子と4人の女性だけでした。多くの癒し、奇蹟を行ない、群衆に取り巻かれていたイエスは、今惨めな姿となっていました。十字架は敗北のように見えます。しかし、それは神の力への道だったのです。十字架こそ神の力です。

 

旧約聖書の人物たちも「十字架」とは呼ばれてはいませんが、それぞれに十字架を負いました。アブラハムは26年間神の約束を信じて待ち続けねばなりませんでした。ヨセフは兄弟たちに売られ、エジプトの牢獄で忘れ去られて過ごさねばなりませんでした。騙して長子の権利を奪ったヤコブは、今度は長年ラバンから騙され続けるという苦しみに遭いました。十字架はヤコブの歪んだ性格を擁護したり正当化するのではなく、憎むようにさせたのです。神がヤコブを既に十字架にかけて殺したので、エソウはヤコブを殺す必要はなく、二人は抱き合うことができました。十字架は私たちの中の古いものを殺すのです。

イエスはこのような旧約時代の人々が負ったものをはっきり「十字架」という言葉で表しました。そしてご自分の弟子たちに「自分の十字架を日々負ってわたしに従いなさい。」と言われたのです。自分には関係のないことと思わないで、あなたに示される十字架を日々負うのです。

ペテロはイエスが十字架を負うのを止めようとしました。(マタイ16:22)イエスが苦しみに遭うならば、自分たちも苦しみに遭うことを知っていたからです。しかし、そのペテロも最後には次にように言っています。

 

第一ペテロ4:12「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試煉を、何か思いがけないことが起こったように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」

 

イエスはご自分には何の罪もないのに、人々の罪過ためにいけにえとしてご自分をささげられました。

そして「父よ、彼らをお赦しください。」と言われ、私たちに向かって「わたしに従いなさい。」と招かれました。私たちも誰かに傷つけられたとき、それに腹を立てるのではなく、相手の罪過のためにいけにえとなることができるのです。そして「砕かれて痛められるとき」私たちから香りが立ち上ります。私たちはこのように言うことができます。「主よ、私は赦します。」「主よ、もう一方の頬をむけ・・・・もう一マイル歩きます。」「主よ、あなたに似る者とさせてください。」

 

勿論、私たちはイエスのように「人の罪のために死ぬこと」は出来ません。私たちがイエスの代わりに十字架を負うのではありません。そうではなく、イエスのいのちが私たちを通して生きてくださり、贖いの代価となってくださるのです。自分の十字架につけることによって、私たちはイエスに生きていただくことができます。そのとき天国が開き、地獄のシンボルであった十字架が天国のシンボルに変わります。死が勝利に飲まれるのです!

パウロは「イエスの苦しみにあずかる the fellowship of His suffering(ピリピ3:10)」と言いました。神の目的に向かってイエスと共に苦しむ時にこそ、イエスとの真の交わりがあるのです。(終り)


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