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17 6月

「自分の十字架を負う」とは(そのニ) フランシス・フランジペイン 2019年6月17日


「自分の十字架を負う」とは(そのニ)

 

フランシス・フランジペイン(Ministries of Francis Frangipane)

 

真の福音

 

皆さんは「フランシスさん、これは私が聞いた福音とは違いますよ。イエスが私の罪の贖いのために十字架で死んでくださったので、イエスを信じれば私は天国に行けるというのが福音でしょう?」と言われるかもしれません。でもそれでは天国に行くのを先延しにしまっているのです。イエスを信じて新生したとき、あなたは死んで天国にもう行っているのです。その時からあなたは神が与えてくださった「新しいいのち」を生き始めました。それはあなたが自分の十字架を負ったとき、即ち自分に死んだとき、それが起こるのです。あなたの中にイエスが生き始めます。勿論最終的にはあなたの身体も死んで天国に行きますが、自分の十字架を負ったとき、私たちは新しい永遠のいのちを生き始めるのです。

 

ある人は「フランシスさん、自分に死ぬなんで、それはなにか東洋の宗教のようですね。」と言うかもしれません。みなさん、キリスト教は東洋の宗教です。(笑)私たちはそれをアメリカナイズしてしまって、すべての希望を「この世での人生」にだけ託してしまっています。イエスが「わたしについて来なさい。」と言われたとき、それはただ「イスラエルの道をイエスの後について歩いて行く」ということではなく、「イエスのようにこの世界を変える者となりなさい」ということです。「パワフルで素晴らしい天国のいのちを受けて全世界に影響を与える者となれ!」と言われたのです。そうなるためには、自分に死なねばなりません。それはどのような代価を払ってでも神に従うこと、即ち十字架を負うことです。

 

自己憐憫の要塞

 

今教会には「自己憐憫の要塞」という問題があります。自己憐憫は私たちの傷をいつまでもそのままに生かしておきます。自己憐憫はあなたのすべての問題をそのまま甘やかして温存させ、あなたの力を無くし、意気消沈させ、不信仰を正当化し、愛がないことの言い訳けにします。それはあなたを地獄にずっととどめるのです。

一つの経験をお話ししましょう。

私が最初に行ったのは、ハワイのマウイ島の小さな教会で、天井から6つ電灯がぶら下がっていました。ある月曜日の夜、牧師は私たち三人の若者に5分ずつ順番に説教をさせてくれました。最初の人が話し始めたとき、巨大なハワイの蜂が入ってきて大きな羽音で電灯の周りを飛び回りはじめたので、人々は彼の話をよく聞くことができませんでした。私は3番目に話す予定でしたが、「きっと自分が話す時も蜂がうるさくてみんな私の話を聞いてくれないだろう」という心配で一杯になりました。私は「主よ、この蜂をいなくしてください。主よ、どうかお願いします。」と必死で祈り始めました。でも蜂はそのまま飛び回りました。

次の人が話を始めました。私は更に霊的になって、蜂をイエスの御名において縛り始めました。「蜂よ、お前を縛る、ここから出て行け!」(笑)知っている祈りをすべて用いましたが、何も起りませんでした。いよいよ私が話す番になりました。「主よ、蜂をどうにかしてください!」と大真面目で心で叫んだとき、蜂が真上の電灯にぶつかり、私の膝に落ちてきました。そして神が「自分で殺しなさい。」と言われたのです。(笑)

私たちの中にはカウンセリングを受けてどうにか無くしたいような罪がいくつかあります。

「テレビを見すぎている」と内心思っているあなたは「雷がアンテナに落ちてテレビが見えなくなったら、それは神からのしるしだから、テレビを見るのをやめよう」と思っているかもしれません。(笑)でもあなたの人生の多くの問題は、あなた自身で殺さねばならないのです。サムソンが死ぬとき今まで以上の敵を殺したように、あなたが自分を十字架につけるならば、あなたの中の多くの罪を殺すことができるのです。

 

「十字架」が神のちからですが、それは私たちが好むようなものではなく、嫌だと思うようなものです。もしあなたが嫌ではないならば、それは十字架ではありません。何か腹が立つことがあなたの身に起こったならば、それは十字架を負うチャンスなのです。その時、あなたは「赦し」、「もう一マイル歩くこと」によってイエスを表すことができるのであり、そこに神のちからが現れるのです。あなたが気を悪くしないものは十字架ではありません。十字架はあなたが気を悪くし、腹を立てるようにデザインされています。

 

私ならば、おいしいチーズケーキを食べ過ぎて幸せな気分で死ぬことを選びます。(笑)でもどういう死に方をするかは自分で選ぶことはできません。神があなたのために特別な死に方を選んでくださいます。もしあなたが生来恐がりならば、十字架はあなたを大胆にします。人前で話すのが苦手ならば、話せるようになります。話好きならば、黙す祈りのミニストリーを下さるでしょう。(笑)パウロは大胆でしたが恐れることを学びました。彼はパリサイ人として多くの知識を持っていましたが、神は彼を異邦人に送り、自分の知識に頼るのではなく神に頼ることを教えました。ペテロは漁師で学問はありませんでしたが、知識としるしを求めるユダヤ人へのミニストリーを与えられました。神はあなたを自分に頼るのではなく、完全にイエスに拠り頼む者へと変えてくださるのです。

時には断食をする必要があります。断食と祈りの奥義を学ばねばなりません。睡眠時間をけずって朝早く起きて祈ることも必要です。私たちは「古い自分」を喜ばせてばかりいてはいけないのです。

 

私は夜生まれたので、いまだにその習慣があり早朝に起きるのが非常に苦手です。(笑)でもあなたの町を変えたいならば、早朝の祈りの戦いが必要であり、それがあなたが負うべき十字架です。朝5時にあなたの枕は雲のようで、毛布はベルベットのように心地よく感じます。目覚ましが鳴ると、あなたの手だけが起きて、「あと5分」のボタンを押します。そして「今朝はシャワーはなしですませよう。」とつぶやきます。(笑)でもあなたは5分後に起きねばなりません。あなたの十字架を負うのです。

 

自分の町のための祈り

 

ある時、私の町の6つの教会の牧師たちが一緒に祈る機会があり、それは本当にすばらしい時となりました。お互いに競い合っていたような思いが打ち破られて、一致して祈ることができました。そしてそのような祈り会を毎週火曜日の朝6時半からしようと皆で決めました。神の臨在がすばらしかったので、それが決まって私は本当にうれしく思いました。次の火曜日に私が行くと、他には誰も来なかったのです!その教会の牧師さえも来なくて、「玄関マットの下に鍵があります」というノートだけがありました。私は中に入りましたが、暖房や電気をつけるスイッチの場所さえ分かりませんでした。アイオア州の一月は凍るような寒さでした。私は気を害し腹が立ちました。私は一人で祈り始めましたが、最初の20分は「兄弟の告発者」のような祈りでした。(笑)次の20分は神に文句を言いました。「『わたしを信じた者をわたしは失望させない』とあなたは言われましたが、でも今、私は本当に失望していますよ。先週はすばらしい祈り会だったのに、今日は私一人です。どうしてあなたは後の5人を起こす恵みを与えてくださらなかったのですか?

一人だけ起こす、それも私を起こす恵みしかなかったのですか?」勿論、この態度は決して誇るべきものではありませんが、私は本当に腹を立てていたのです。(笑)

このように暗く冷たい教会で一人で神に文句を言ってやっと少し落ち着いたとき、主が語られました。「わたしが呼んだ時にどうして誰も答えなかったのか。わたしは破れ口に立つ者をさがしていたのだ。」突然、私は神がこの町のために私を召しておられることを悟りました。私は「主よ、私は祈りの勇士ではありません。何時間も祈ることなど出来ません。」と申しあげました。主は「わたしが求めるのは、ただわたしに応答し、そして破れ口に立つことだけだ。破れ口(gap)とは『町の現状』と『わたしの力が変えた町の姿』との間にあるスペースだ。だからあなたがそのスペースに立ってとりなしてほしい。」

その時、早朝に起きて一人だけで祈ることを嫌っていた私の弱さは、神の油注ぎによって消えて行ったのです。その時始まったことが、現在は何千という町での祈りのムーブメントとなっているのです!

教団教派を越えて自分の町のために牧師たちが一つになって祈っています。私が一人で祈った一月の寒い朝、私が主に「はい」と応答して十字架を負った時、それは始まったのです。それ以来、他の町に出かけていないかぎり、私は火曜日の朝の牧師の祈り会に出席しています。また、水曜日の朝6時半には市長の部屋での政治家と牧師たちの祈り会もしています。すべては私一人が他に誰もいない時に神の召しに応答したことから始まったのであり、その時に神の力が来たのです。

 

十字架を負う素晴らしさ

 

あなたが一人で傷ついたとき、その傷口から流れるのは「神への礼拝」でしょうか、それとも「苦々しさや恨み」でしょうか。誰でも切られ傷つく時があります。その時あなたから流れるものは「愛」でしょうか、それとも「神に対する怒り」でしょうか。あなたが置かれている状況の中で十字架を負う道を選びとるならば、自分の力で出来ることを遥かに越えたすばらしいことを神はしてくださいます。

ある時私は、ある大きな教会の牧師からメッセージの依頼の電話を受けました。一回の謝礼は6千ドル(60万円)ということでした。私は「あなたの町では教会の牧師たちの祈り会をしていますか?」と聞きますと、「残念ながらまだしていない」ということでした。神は私に「牧師たちの祈り会のない町には行かないように」とはっきり幻で示されていたので、私はその旨伝えてお断りをしました。断ってから少し残念な気もしました。というのは、当時の私の牧師としての給料は1年で6千ドルで、子供が5人いて赤貧の生活をしていました。それが一日で6千ドルというのですから、本当にすごいことだったのです。「バックスライドして気を変えた時のために、電話番号をもらっておけばよかった。」という思いも横切ったのです。(笑)

しかし3、4ヶ月経ってから同じ牧師から電話があり、「驚かれると思いますが、この町の牧師たちに電話をして祈り会を始める事が出来たんです!今はいろんな教派の12人の牧師が集まって祈っているのですよ!

とても祝福されています! 是非、話に来てくれませんか?」と頼まれました。私は喜んで承諾しました。最初に断ったとき、それは十字架を負うことでした。自分を否んで貧しいままでいること、弱いままでいること、小さい者のままでいること、自分で物事を動かそうとしないで神に従い委ねることは、即ち十字架です。しかしその時、神にしかできないことが起来ます。十字架には神の力が附随しているからです。

イエスが十字架にかかったとき、そばに残ったのは、一人の弟子と4人の女性だけでした。多くの癒し、奇蹟を行ない、群衆に取り巻かれていたイエスは、今惨めな姿となっていました。十字架は敗北のように見えます。しかし、それは神の力への道だったのです。十字架こそ神の力です。

 

旧約聖書の人物たちも「十字架」とは呼ばれてはいませんが、それぞれに十字架を負いました。アブラハムは26年間神の約束を信じて待ち続けねばなりませんでした。ヨセフは兄弟たちに売られ、エジプトの牢獄で忘れ去られて過ごさねばなりませんでした。騙して長子の権利を奪ったヤコブは、今度は長年ラバンから騙され続けるという苦しみに遭いました。十字架はヤコブの歪んだ性格を擁護したり正当化するのではなく、憎むようにさせたのです。神がヤコブを既に十字架にかけて殺したので、エソウはヤコブを殺す必要はなく、二人は抱き合うことができました。十字架は私たちの中の古いものを殺すのです。

イエスはこのような旧約時代の人々が負ったものをはっきり「十字架」という言葉で表しました。そしてご自分の弟子たちに「自分の十字架を日々負ってわたしに従いなさい。」と言われたのです。自分には関係のないことと思わないで、あなたに示される十字架を日々負うのです。

ペテロはイエスが十字架を負うのを止めようとしました。(マタイ16:22)イエスが苦しみに遭うならば、自分たちも苦しみに遭うことを知っていたからです。しかし、そのペテロも最後には次にように言っています。

 

第一ペテロ4:12「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試煉を、何か思いがけないことが起こったように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」

 

イエスはご自分には何の罪もないのに、人々の罪過ためにいけにえとしてご自分をささげられました。

そして「父よ、彼らをお赦しください。」と言われ、私たちに向かって「わたしに従いなさい。」と招かれました。私たちも誰かに傷つけられたとき、それに腹を立てるのではなく、相手の罪過のためにいけにえとなることができるのです。そして「砕かれて痛められるとき」私たちから香りが立ち上ります。私たちはこのように言うことができます。「主よ、私は赦します。」「主よ、もう一方の頬をむけ・・・・もう一マイル歩きます。」「主よ、あなたに似る者とさせてください。」

 

勿論、私たちはイエスのように「人の罪のために死ぬこと」は出来ません。私たちがイエスの代わりに十字架を負うのではありません。そうではなく、イエスのいのちが私たちを通して生きてくださり、贖いの代価となってくださるのです。自分の十字架につけることによって、私たちはイエスに生きていただくことができます。そのとき天国が開き、地獄のシンボルであった十字架が天国のシンボルに変わります。死が勝利に飲まれるのです!

パウロは「イエスの苦しみにあずかる the fellowship of His suffering(ピリピ3:10)」と言いました。神の目的に向かってイエスと共に苦しむ時にこそ、イエスとの真の交わりがあるのです。(終り)


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