WWGM

Walk With God Ministries

23 11月

歌は世につれ……   坂 柚実子  11月23日


歌は世につれ……

日本での一ヶ月の伝道旅行を終えて、無事ハワイに戻ってきました。
いろいろな教会にグルーバー先生と共にお伺いしたり、また、主人がメッセンジャーとして招かれたりいたしましたが、皆様のお祈りに支えられて、全行程を終えることができました。心より感謝いたします。

日本に行くと、そのときに流行っている歌が聞こえてきます。ずっと前は、「山口さんちのつとむ君」とかでしたし、ちょっと前は「団子三兄弟」でした。去年は「たらこの歌」でしたね。
今回、ある小学生の男の子に「今、学校で流行っている歌は何?」と尋ねたら、何と「千の風になって」という答えが返って来ました。この歌が日本で非常に愛されたことはニュースで知っていましたが、子供の間でも流行っているというのは、ちょっと驚きでした。

この歌は、キリスト教界ではアニミズムだ、ニューエイジだ、といって物議をかもし、また仏教界では、お墓参りに関して「そこに私はいません。」と歌われたので大変迷惑したそうです。死んだ人の言葉が歌詞になっているという点が今までにないものであり、それで宗教界をも揺すぶったということでしょうか。

この詩はメアリー・フライというアメリカ人が、ヒットラー政権下のドイツからアメリカに逃れてきたドイツ系ユダヤ人である友人のマーガレット・シュワルコフのために、1932年に書いたものだそうです。それは、マーガレットが、病弱のために残してきた自分の母親がドイツで死んだことを知って、「自分は母親のお墓にいって、さよならも告げることができない。」といって嘆くのを見て、そこにあった買い物袋の端に、走り書きしたものだそうです。メアリーさんは友人を慰めたくて、お墓にいけなくても大丈夫、と言いたかったのでしょう。

死後の世界といえば、グルーバー先生はある祈祷会中に霊で天国に行くという経験をしておられます。パウロが第二コリントの12章で語っていることでしょうか。私は通訳者として何度も天国の様子を 先生から聞く機会を与えられましたが、それは本当は言葉では表すことのできないすばらしいところに違いありません。

グルーバー先生は日本でお寺の住職や神社の神主さんと話をするのが大好きです。その理由を今回初めて知ったのですが、それは、彼らにも自分が経験した天国の様子をお話したいからだそうです。
次回はグルーバー先生の天国の話を書くことにします。
(終わり)

トップへ戻る

21 11月

2007年秋の日本旅行から帰って来て  坂 達也 11月21日


2007年秋の日本旅行から帰って来て

坂 達也

 今回私たち夫婦は先ず沖縄に飛び、その後、関西から東北地方まで合わせて16の教会を訪れながら、丁度一ヶ月かかって日本の各地を旅行して来ました。この間、教会の建物の外でも個人的に多くの人にお会いしました。こうした触れ合いを通して強く感じたことは、日本にもいよいよ聖霊が顕著に働かれていると言うことでした。それは教会の集会とか礼拝で主のご臨在を今まで以上に強く感じたと言うことではありません。

それはむしろ、多くの教会での親しい方たちとの交わりを通して、その中の何人かの方が、おやっと思うほど霊的に変えられ、強められていることを感じたのです。
ある姉妹は体中に転移した末期の癌でいつ倒れてもおかしくない状態でしたが、行き倒れになることを覚悟の上で、遠くで病に伏せる二人の人を励ますために別々の機会にお見舞いに出かけて行きました。その人は主から個人的にそうするようにと指令を受け、旅費をあてがわれ、主の大使として出かけて行きました。

又、大きな主の奇跡を体験した人ともお話しする機会がありましたが、その方からは、主を個人的に知っている人に特有の信仰の自信と余裕-それは主がその人の中に生きておられることが分かる「主の薫り」―を感じました。又ある方は、自分が神の「永遠の命」の中に生かされていることを堂々と証されておりました。それは下手な牧師の説教よりも説得力がありました。
そのような人たちは、それぞれが受けた試練・艱難を通して、自分の人生を「主に委ねる」ことを学んだ人たちであると思います。彼らの顔は輝いていました。主を個人的に体験している人たちには、主に従うときにだけ味わえる「信仰の味」が分かるのです。その美味しい味を一度覚えた人は、もう止められなくなります。

 「自分の人生を自分で生きている」ことに何ら疑問を持たず、神を思うのは日曜日や必要が生じた時だけという、言ってみれば、困ったときの神頼み的クリスチャンが、ある日突然自分で生きることの拙さ加減と、力の無さ、あるいはその味気なさに気がついたらどうなるでしょうか。その人は自分の神に対する考え方が根本的に間違っていたことに気がつかされるでしょう。

 人々にそう気づかせる業を、今、聖霊が世界中でなさっておられます。多くのクリスチャンが、今聖霊から霊的な挑発(プロヴォーク)を受けているのです。それは

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

の信仰で生きることへの挑発でありチャレンジです。

このチャレンジをしっかりと受けとめるには、自分で生きるのではなくキリストに生きていただく味を知ることが必要です。これがイエスからいただける真の福音なのです。多くのクリスチャンは今まで、頭の中では「自分に死なねばならない」ことを学んではいても、それを実際に生きる経験を持ったことがなかったのです。ところがそのようなクリスチャンが、父親としての神の愛を始めて個人的に経験したと言いましょうか、自分と神との距離が急に縮まるのを感じ始めたのです。彼らは全面的に神に生きていただくことのすばらしさに気がつき、それを人生のゴールにすると言う希望を見出したのです。

その意味で、今回、多くの方が主ご自身に対して魅力を感じ、引き寄せられ、慕い、飢え乾くことを覚え始めていることに気がつきました。私は本当に勇気づけられ、励まされました。
これからそのようなクリスチャンが日本でも爆発的に増えることを期待します。教会とはクリスチャン個人の集まりです。その個人が聖霊によって変えられて行く顕著な兆しを見るときに、日本中で教会のトランスフォーメーション が起る日が間近いことを肌で感じた次第です。(終わり)

トップへ戻る
14 11月

燃えつくす火の中に立つ  ボブ・ソージ   11月14日


燃えつくす火の中に立つ

ボブ・ソージ


「神の燃えつくす火はあなたの人生の総てを燃やし、愛だけが残る」
祈りが生ける宇宙の神との会話であり、それがどんどんと深まり発展していく栄光の冒険であることを見出したときに、私の祈りの生活は全く変えられました。弱い者であるけれども主を心から慕っている礼拝者に対して、神は燃えるような情熱を持っておられます。その神の御前で、清い憧れの思いで心を燃やし栄光の中に立つことは、何にもかえがたく、それよりも素晴らしいことはないのです。

祈りがこのようなものであるという理解に、私が偶然行き当たった、というわけではありません。神がそうさせてくださったのです。神が突然私の前に現れてくださったのです。それは私が激しい試練を経験したときに、神がそれを使われて私の霊的DNAを書き換え、私の人生の方向を変え、私がずっと望んでいた(けれども、どうすれば発見できるのかが分からなかった)神との関係の入り口へと私を連れて行ってくださったのです。私は厳しい不幸に見舞われ、必死で神を求めていました。 餓死寸前の人間が食べ物をあさるように、私は生きるために聖書の御言葉を求めました。火のような試練が私を変えたのではありません。試練の中で神を必死で求めたことが、私を変えたのです。

今のシーズンの、神の御前での私の役目を適切に示している聖書箇所が二つあります。一つ目は、申命記10:8です。「そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福されるようにされた。今日までそうなっている。」 私の一番の召しは、神の御前に立ち主にお仕えすることであると、私は今考えています。大きな課題とか、大きな志とか、何か他に急いですることがある、ということではないのです。ただ主の御前に立ち、主を愛するのです。

二つ目の箇所は、黙示録4:5です。「七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。」 この「御座の前で燃えている」というところを見たとき、私は心の中で叫びました。「主よ、私の人生もこの言葉で表わされるようになりたいです。私もあなたの前に立ち、あなたの御座の前で燃えたいです!」と。

私は自分が誰であるかを発見したのです。私は聖い者であり(自分が聖いというのではなく、神の御前にいるので私は聖いのです)聖なる方の御座の前に立ち、主の麗しさと御力を仰ぎ見、御座から流れる火(ダニエル7:10参照)が私の心に流れ込み、それが神の心に燃えているのと同じ情熱の火で私を燃やし、私の心は主の愛で点火され、今度は私の愛が火山の噴火のように主に向かって流れ出すのです。(ローマ5:5参照)

私は主の御前でとこしえに燃えるのです。私はいつもそこに立っていることでしょう。主の恵みの故に、私はそこから除かれないでしょう。この世の何物も、また、地獄からの襲撃も私をこの聖なる御座の前から動かすことがありませんように。私はもはや御座の前で燃えるという究極の特権を味わったので、もう他のことでは満足できないのです。

ただ立つ

神はあるシーズンには、私たちにただじっと立っているようにと言われるのです。何か大きなプロジェクトを追っかけるという興奮の方を私たちは求めるかもしれませんが、神はときどき私たちに、総ての活動をやめてただ立ちなさいと言われるのです。主はそれ以外の選択肢を与えてくださらないときがあります。周りの状況が、他の道を選択しようとしてもどうしてもできないようにさせ、私たちは神の御心という鎖に縛られた囚人のようになってしまいます。鎖から抜け出して次のことをしようとしても、どうしてもできず、ただ御座の前で、王なる主への聖なる愛に燃えて立っているのです。

普通よく「ただ立っていないで、何かしなさい!」と私たちは言います。私たちの人生が自分でコントロールできないような状況に陥ったときの一番の誘惑は(何をしたらいいかわからないとき)何かをしてしまう、ということです。人々は「停止している車を神様は操縦できないよ。だから、とにかく何かをはじめなさい。そうしたら神様が行くべき方向を示してくださるよ。」と言うのです。

確かにそういうときもあるかもしれません。しかし、主は私を違う道に導かれました。主は先ほどの言葉を逆にして、「ただ何かをしないで、そこに立っていなさい!」と私に言われたのです。つまりこういうことです。「何をしたらいいかわからない時は、ただ何かをしてはいけません!わたしを待ち望みなさい。わたしの御前に立ち、わたしに仕えなさい。わたしが話すまでは。わたしがあなたに話しかけたそのときに、あなたはそれに応答して動いてもいいのです。しかし、わたしが話すまでは、ただそこに立っていなさい。」

最近私は、「『もう十分だ。』と言わない火。」(箴言30:16) という箇所を読んではっとしました。神の中には決して満足することのない火があるのです。そして私の中にも神によって入れられた火があり、それも決して満足しないのです。私の中の火は、絶えずもっと神を求めて手を伸ばしています。それに応えて神の中の火ももっと私を求めてくださるのです。私たちは燃えるような愛の心を神にささげつつ、終わりのない冒険をして永遠をすごし、神もまたその輝かしい麗しさを、私たちに終わることなく次々に見せてくださるのです。

この危険なことをしてください。それは神の御前に一人で立つことです!主の「燃えつくす火」があなたの人生の総てを燃やしつくし、愛だけが残ります。私たちの神は「仕える者たちを炎とされる。」(ヘブル1:7)方なのです。
あなたがそれを望むなら、主はあなたをも炎としてくださいます。(終わり)


トップページへもどる

13 11月

5768年はシンプルで新しい出発の年にしよう(2) チャック・ピヤース 11月13日


5768年はシンプルで新しい出発の年にしよう(2)

チャック・ピヤース

                                             
八と言う数字は常に「新しい始まり」にリンクされています。このヘブライ語は命にリンクされており、熱いのです!私たちが入ろうとしている年には、私たちは熱くあることを選ばねばなりません。それは情熱に満たされ、私たちの未来を心にいだくのです。そのために火のように熱烈に神を求めることを選びなさい。
1.今年は顕れる年です。あなたが見張り続け、現実となることを待ち望んでいたことが実現するでしょう。
2.あなたが今まで持っていた自分の限界を超自然的に超えることが出来て、あなたの新しい時代が始まります。
3.天と地が共に働いて、あなたの環境に新しい神の臨在が造り出されます。
4.今年のかぎとなる言葉は「主権」(支配)です。あなたが今まで配置されて立っていたところを支配しなさい。しっかり治めさない、さもないとあなたの土地に「野獣」がのさばり始めるでしょう。
5.今年は、神の民が敵に対して大きな権威を行使する年です。あなたに敵対する国々(者たち)をあなたの土地から追い出すことが出来ます。あなたが神から受け継いだ土地に無断で入り込んでいる者を総て追い出すか、さもなければその者たちはあなたの領地に居座る権利を得て、次のシーズンまで彼らの侵害がそのままに残るでしょう。私たちの住む土地は私たちの考え(思い)次第です。ですから、今年は私たちの「思い、考え方」を変革して(トランスフォーム)私たちが今生きている戦いのシーズンに、新しい勝利のメンタリティーを持つべき年です。
6.あなたの「動物的衝動」を抑えなさい。あなたが救出される場所を見つけ、いかなる野獣もあなたの行く道に出て来させてはいけません。総ての貧乏根性的な考え方に対して果敢に戦いそれをやっつけねばなりません。「ライオンが私の行く道にいるから私は隠れよう。」というような思いを捨てなければならないのです。しっかりと立って、いかなる敵の侵略にも対決し、打ち勝ちながらあなたの道を進んで行くのです。イザヤ書35章が、今年の私たちにとって、かぎとなる御言葉です。
7.出エジプト記23章も今年のかぎとなります。神は私たちの定まった将来に向かって前進するために私たちと契約を結びます。この契約は家族、地域、国々に適用されます。もし私たちが神との契約を忘れていたり、拒否して来た部分があれば、その部分は私たちの将来には含まれません。 私たちは元もとの神との契約というルーツににもどり、それをもう一度見直すことによって、神との関係をもどさねばなりません。
8.主に自分を固く結びつけよ。あなたのために備えられた未来から、サタンがあなたを引き離すことのないようにせよ。「孤児の霊」から逃れよ!もう一度純粋さをとりもどせ!秘密の場所があなたを呼んでいる。ヨハネ伝とヨハネの手紙が今年のトランジション(推移)のキイとなる。

ユダヤ暦5768年のことは、過ぎ越しの祭りの頃から考え始めていました。ある朝早く、主を求めて私は自分のオフィスに行きました。2001年の9月からどのような道をたどって7年目に来たかを、いろいろ思いめぐらしていました。そして「8」という数に関係した聖書箇所をあちこち読んでいたのですが、そのときに妻のパムから彼女が見た夢のことで電話がかかってきました。

パムの一番好きな聖書箇所はエペソ5:8-16です。
「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。 ・・光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。・・そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。『眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。』
そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」


「贖う」というのは「買い戻す」とか「牢獄から解放する」 という意味です。今まで私たちは「買い戻す」シーズンにいました。今年は戦いの報奨を受ける年です!

彼女が見た夢は次のようなものです。
「今朝、私は小鳥の鳴き声でゆっくりと目を覚ましたのですが、あたかも夢と現実の間にある幕の中を歩いているように感じました。ベッドにそのまま横たわっていると、見た夢を思い出しました。

夢の中で私は、旅行者たちの一団の中にいました。彼らは私の知らない人たちでしたが、私にとって重要な人たちだということはわかりました。旅行をしなければならないと私たちは告げられましたが、荷物やチケットもなく、旅の予定表も持っていませんでした。私たちは空港の通路のような所に立って出発のときを待っていました。突然強い風がその通路を吹き抜けてきて(風のトンネルのように)私たちは通路の端にむかって吹き寄せられました。通路の端に近づいたころ一つの門のようなものが開きましたが、それはサイエンス・フィクションに出てくるような門ではなく、星の門でした。その門は暖かい光を放っていましたが、そこを入っていくと私たちは自分の身体から離脱し、違う場所に連れていかれました。不思議なことに、そこはさっきまでいた場所と全く同じに見えたのですが、同じ場所ではありませんでした。私たちは、大部分がガラスでできているビルディングの中にいました。

私たちはみんな、飛ばなければ目的地につけないことがわかっていました。飛び方を知っている人は誰もいませんでしたが、とにかく飛び上がってロビーを少し飛んでみました。ロビーにいた人は私たちを見て驚き、自分たちも飛びたいといって私たちのほうに手を伸ばしました。私たちは目的地まで飛んでいくのには、もっと弾みが必要なことがわかったのでそっと着地して、向きをかえ、助走しながらロビーのコーヒーショップの所にあったトランポリンまでいき、その上でジャンプしました。すぐに私たちはビルディングの外の田舎の景色の中を飛んでいました。そして自分たちに与えられてい るミッションがわかったのです。それは、近くの村で虜になっている一人の人を助け出し、私たちと一緒に連れ戻すということでした。

救助活動自体ははっきりまだ思いだせませんが、私たちがもどろうとした時のことは覚えています。村人の一人が一緒に行きたいと言いましたが、それは無理であると知って、彼は私たちみんなに小さな宝石箱をくれました。私が貰ったのは、真珠がちりばめられた金の小箱でした。中には真珠や金、クリスタルのこわれた宝石のかけらが入っていました。それぞれの箱の上には言葉が記されていましたが、私の箱には「シンプリシティー (単純)」と書いてありました。私たちはギフトのお礼を彼に言ってから、空を飛んでもどりました。そのときに私は小鳥の声で目が覚めたのです。

ユダヤ暦5768年はモーメンタム(勢い、はずみ)の年

5768年は、あなたの人生で新しいシーズンが始まるばかりではなく、キリストの身体なる教会がモーメンタムを得る年となるでしょう。勢いのついた物体を止めるのは困難です。それを止めるためには、その動きと反対の力をある時間加えなければなりません。その物体に勢いがあればあるほど、止めるのは困難です。ですから、すごく勢いのある物体を止めるのには、より大きな力か、もっと長い時間、又はその両方を与えなければなりません。力がある一定期間与えられると、その物体の速度が変えられます。そしてその物体の勢いも変えられます。力が物体の動いているのとは反対方向に加えられると、物体の速度は落ちます。もし力が物体が動いているのと同じ方向に加えられると、物体の速度は速くなります。いづれにせよ、加えられる力によって物体の速度は変化します。

今年は二つの勢力がモーメンタムを競い合う年です。神は私たちのために働いてくださいます! 私たちが阻止してこなかった敵の勢力は、地上で力を増しつつ前進している御国の速度を落とそうとしてきます。私たちは「強い者」の業を縛り、略奪されたものを取り返さねばなりません。神の民が、エジプトを出てから前進し続けたように、今私たちも、この世代のために備えられた約束の地が現実のものとなるように、進みはじめなければなりません。恐れや不信仰、疑いの声が前進させまいとするのを許してはなりません。私たちの宝を略奪した大きな敵の要塞を打ち破る40日間の期間が、3回に渡ってあるでしょう。

5768年はImpulse(衝撃)の年

力を時間で掛けると、物体の速度の変化になります。これは衝撃と呼ばれます。衝撃とは、ある身体、個人、または王国がもう一つのものに対抗して働くことです。衝撃とは、伝達された力です。その結果、一つの動きがお起ります。ひとたび何かが動き始めると、それを止めるのは困難です。今年はキリストの身体は大いなる勢いを持って前進していきます。それに反対する力もあるかもしれません。私たちは何が私たちを駆り立っているのか、自分の動機を知らねばなりません。私たちの人生において聖霊の働きが顕著でなければなりません。5768年(2008年)は、私たちが自分の願望を達成しようと躍起になる年です。また、超自然的な力が人間に可能になる年です。ですから、私たちは聖霊の力のもとにとどまらねばなりません。さもないと、暗やみの勢力の地上の計画に、私たちを賛同させようとする、諸々の霊に影響されてしまいます。

激しく攻める者たちが天の御国を奪い取っています。過去7年間に地上である変化が起こり、それが一つの動きを作り、それは止めることができないのです。新らしい力で前進している神の御国に、暗やみの王国は道を譲らねばなりません。神の超自然的な力が神の民に与えられたので、地上で大きな動き、変化が起こっています。

私たちは、この世を今変えたいと願っておられる王の推進力の影響を受けているのです。今こそ、モーメンタム、勢いをつけるときです! それぞれが地上で与えられた権威の中で働くことを学ぶならば、私たちは神の力を身に帯びて、それを使っていくことができます。この年は神の民にとってトランスフォーメーションの年です。私たちがトランスフォームされると、次に町や地域、国が変わっていくでしょう。刈り入れ人たちは、色づいた畑に喜んで入っていくでしょう。肉的な衝動に従ってはいけません!

時が来ると、神があなたを訪れます。あなたの人生に神のヴィジテイション(訪れ)があるのを期待して待ちなさい。私たちは前進している民です。神は私たちの只中に御国をもっておられます。神の御国は前進しています。私たちは交わりから戦いへと移行しています。私たちの人生の中に神の約束が実現していくのを見るので、私たちの賛美はお祝いへと変わります。この年は超越する年であり、捕らわれていたものを取り戻す年です。しかし、私の妻の「simplify シンプルにする」という言葉を忘れないでください。新しいものが確立されるまでは、行ったり来たりが簡単にできなければなりません。

まとめると、今年は「針の穴を通る」年です! 回りのものをすべて取り払って、せまい所を通りぬけて、新しいところに行ってください! (終わり)


トップへもどる


30 10月

5768年はシンプルで新しい出発の年 チャック・ピヤース 10月30日


5768年はシンプルで新しい出発の年にしよう(1)

チャック・ピヤース

私は長年にわたって年毎にユダヤのカレンダーを取り寄せ、その年の年号の数字の意味を考えます。そして、その年の主のご計画を思いつつ、新しく迎える年をどのように過ごすべきかを祈って来ました。私たちが主に仕え、主の王国のご計画を求めるとき、主は新しい年を迎える毎に、私たち一人一人に新しいチャレンジと新しい喜びを用意していて下さると信じます。ヘブライ数字には数字にそれぞれ意味がありますから、その意味を知ることによって、私と家族それに私と親しい人たちのために主がその年に用意していて下さることの内で、年の初めに何を宣言布告すればよいかを知る助けとなります。

 神の御心を知るためにヘブライ語を理解しなければならないとは思いませんが、ヘブライ語では、数字に言葉としての意味以上に、絵としての意味、又音声をも持つのです。と言うことは、新しい主の年2008年に入ったと単に言葉で言う以上に、ヘブライ数字の年号を見るとフルに描写された絵画的理解、見解が得られます。ヘブライの年5768年は、グレゴリアン・カレンダーで2008年に当たりますが、それは「Samekh Chet!の年」であり、それは「一つのサイクルの完了の年―新しい始まりを自分のものと宣言せよ!」という意味です。

時と言うのは興味あるコンセプトです。神は私たちと違って、時の流れの中で生きてはおられません。私たちの父は、私たちの人生の初めから終わりまでのどの瞬間にでも、あたかもそれがいつも現在の時であるかのように立ち入ることが出来ます。私たちが今までに人から見捨てられたり、傷つき、裏切られ、恐れたとき、あるいは、楽しかったり、満たされたとき、又、他のどんな感情とか状態の中にあった時にも、私たちはその時の中に聖霊の力で入っていくことが出来るのです。神を信じる人は、過去に犯した罪を赦されるだけでなく、神と一緒にその時点までさかのぼり、その過去の時点に現在形としてご臨在される神が助けて下さるのを見ることが出来ると共に、敵が悪用しようとした過去を贖ってくださり、回復して下さるのを見ることができるのです。

時の中に足を踏み入れる

永遠と言う時の全部が一枚の大きな紙で表されていると想像して下さい。そこが、時間と空間に全く制限されずに、神がおられるところです。次ぎにその紙の上に一本の線を描いて下さい。その線が、初めと終わりがある「時」を表しているとします。この線は、神がこの世を創造をされて「時」というものを作られた時点から始まっています。そして、神が「これで終わり。それまで!」と言われる時がこの線の終わりのポイントです。人間はその線上で生きています。神はご自身の計画と目的に従って、その線上のどこにでも、いつでも出たり入ったり出来ます。神は常にどの時点をも一度に全部見ることが出来、何かが起るのを待たねばならないと言うことはありません。神にとっては総てが現在として見えているのです。この説明の仕方が時と言う複雑な考えを最も簡単に説明し、ご理解いただけると思います。

 しかしながら、私たちは「時」の中で神に応答することを学ばなければなりません。私たちは、自分の生きている時代のキリストの大使として主を代表するように召されております。私たちがする決定と行動は、三世代先まで影響を与えます。ですから、主が私たちに何を望んでおられるかを知り、それに従って私たちが応答するとき、主の栄光が地球を満たし、この地上の環境と霊的大気が主によって変えられるのです。神の「時」とのこの自由な関係のゆえに、神は私たちが祈りの言葉を口にする前にすでに答えて下さることが可能であり、実際、度々そうなさるように思えます。

神は、天から地上に御心をもたらすために必要なリンク(つなぎ)として私たちを選ばれました。神は、私たちが神と親しく交わり、御声を注意深く聞いて、預言的レべレーション(啓示)を得て、それを地上に布告宣言することを望んでおられます。これが奇跡を生み出し多くの神の祝福を放ちます。私たちが神の御声を聞いたなら、それをとりなすことが出来ます。そして、預言も出来ます。預言とは神の心の内とその思いを宣告することです。私たちがいただいた預言的レベレーションを宣告する時、その宣言は大気と環境にむかい「地球上の時間」ではなく「天の時間」の中に放たれるのです。

戦いのシーズン

イッサカル族は新しい時へ移るタイミングを知っていました。彼らは時とシーズンをよく心得た部族でした。ですから、私は今の時代に、この部族をこの地上で代表しようとして来ました。そうすることによって、神の子どもたちが、今生きている時がどんな時であり、何をすれば神のご計画をこの地上で進展させることができるのかを知り、そのための準備を整えることができるようになるためです。私たちはヘブライ暦の5762年に新しい戦いのシーズンに入りました。

新しく迎える年についてお話しする前に、過去の数年について振り返ってみる必要があると私は感じました。そうすることによって、私たちがどのようにして今日に至ったかを知っていただきたいからです。ヘブライ数字の意味を知ることが、私たちが新しくすべきことを布告するための神のレベレーションを察知することになるからです。私たちが一つのことを一度布告すれば、後は神がどのようにそれを実現されるか見守ることが出来ます。レベレーションが王国を建て上げるのです!レベレーションがハデスの門に打ち勝ちます!レベレーションが私たちの手に御国のかぎをもたらすのです。

私は、この戦いのシーズンを前もって見通すことができましたから、「これからの教会の戦い」について書いて来ました。それによって、神の人々が前もって戦いへの必要な心構えが整えられるためでした。ですから、ほとんどの人にとって、今のシーズンは、まさに予告されたことが現実になっていると思います。それでは、下記に今まで私たちが通って来たシーズンのヘブライ的見方を要約してみます。 

5762年/2001-2002年 七年間の戦いの始まり。この年はニューヨークのワールド・トレードセンターがテロリストによって破壊された9月11日の悲劇の事件で始まりました。地球上での神の約束の計画の戦いが始まったのです。それは次の世代にマントルを手渡すための戦いでした。

5763年/2002―2003 安息日の年―信仰の増す時、雄牛に乗る年。経済構造が変わり始め、次の五年間でそれが全
 Page 159 of 194  « First  ... « 157  158  159  160  161 » ...  Last »