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Walk With God Ministries

16 3月

時に備える リック・ジョイナー 2010年3月16日


時に備える

リック・ジョイナー 


私たちのミニストリーにおける肩書きは、自分のミニストリーを理解してもらうのに確かに役立つときがあります。しかし最近では霊的肩書きの濫用や不適切な使用が霊的価値をひどくひき下げてしまう結果となっています。ミニストリーをしている人々のうちには、自分は使徒であるとか、ビショップ、又は 預言者であるという人たちが大勢いるのです。そういう人に あまりにも頻繁に会うので、「私は牧師です」とシンプルに言う人に会うと、その謙虚さの故にだけでも その人に尊敬と信頼の念を抱くのです。

しかしながら今私たちはそれらのミニストリーが教会に回復されてきている時代に生きているのであり、そのことを期待しないというのでは主のご計画を見失うことになってしまいます。私たちはそれらの人々を認め受け入れることをしていかねばなりません。私たちが預言者を預言者だとして受け入れるならば、私たちも預言者の受ける報酬を受けるのです。しかし預言者をただ教師として受け入れるならば、私たちは教えだけしか受けとることができません。 これはすべてのミニストリーにおいて同じことが言えます。もし使徒を教師としてだけ受け入れるならば、私たちはその人から教えだけしか受け取れません。しかしながら、もし 教師を使徒として受け入れてしまうならば、私たちは恐らく 間違った悪いリーダーシップを受けることに なってしまうでしょう。ですから、ミニストリーの責任者には「自分たちの中で働く者をよく知る」責任があるのです。

パウロは自分が使徒であることを声を大にして弁明しました。確かにミニストリーの肩書きはそれを使うべき時や必要性がある時もありますが、パウロの弁明は自分のためではなく人々のためのものでした。彼の弁明は自分を売り込もうとか大言壮語するというのではなく、 パウロの子供たちを教える父親としての心から出たものでした。それは恵みと威厳、崇高な知恵に満ちていました。そしてそれらの徳は王なるイエスに遣わされた真のメッセンジャーとしての品質保証であることを私たちは知ることになりました。

それと同じように、主からの啓示や夢、ヴィジョンにはそのような恵みと威厳が備わっています。今の時代、主は 命令されるのではなく 招かれることによって 私たちを導かれています。主はご自分が願われることを実行する権威をもっておられますが、黙示録3:20にあるように、主はご自分の教会の外に立って戸を叩かれ、それを聞いて戸を開く者があるかどうかを待っておられるのです。その理由は、今は主と共に共同相続人となる者たちを主が探しておられる時だからです。共同相続人とはただ強制されて従う者ではなく、真理を愛するが故に主に従う者たちです。ですから、私たちがある真実な預言的啓示を受けたとしても、 それを直ぐに行動に移さねばならないというプレッシャーを決して感じるべきではなく、むしろそれは主からの招き(召し)であると感じるべきです。何かに対する警告を主から受け直ぐに行動を起こさねばならない時もありますが、それも必ず主の恵みと威厳も伴ってくるはずです。それはヤコブ書3章にあるように、プレッシャーとしてではなく私たちがそれに応答することを招いているものなのです。

何かを急いでするようにとせき立てられているように感じるとき、それは主からのものではなく、その時私が取ってしまう行動は大抵大きな間違いとなるということを私は学びました。主は始めから結末を見ておられるので、私たちにあわてて何かせよとせき立てる必要を感じられることは決してないのです。聖書には「主を待ち望め、忍耐せよ」という勧めは沢山ありますが、あわてて何かをせよと言っている箇所は一つも知りません。私は多くの経験をし、多くの間違いをしてきたので、本当に主が語られ導かれるときはどのようにであるかという事を学ぶことができました。


  さて、真のミニストリーには 重要な必須条件が一つありますが、これは私たちがミニストリーのやり方として普通考えているものとはかなり異なると思います。それは、聖霊は「助け手 The Helper」であり「実行者 The Doer」ではないということです。「私たちのミニストリー には自分たちが混じってはいない、すべて主です」と人々が言うとすれば、それが 真のミニストリーであるならば、彼らは誤解しているのです。そのミニストリーの人たちが「混じっている」ことは悪いことではないばかりか、必要なことです。 主がすべてのミニストリーに私たちを全く混じ入れさせないで100%主がなさると思われたのであるならば、主はこの世を去りはしなかったでしょうし、誰にも何もさせなかったでしょう。

ルカ10章において主は弟子たちを二人ずつ遣わし、福音を語り、病人を癒し、悪霊を追い出させました。弟子たちは非常に素晴らしい成果をあげたので、彼らが戻ってきたとき主は 「わたしはサタンがいなづまのように天から落ちるのを見た」と言われました。しかし弟子たちがイエスに祈り方を教えてほしいと頼んだのは次の11章になってからの事でした。彼らはこれらすべての業が出来たにも拘わらず、まだ祈り方さえ知らなかったのです。

主が弟子を信頼しものすごい権威をお与えになったとき、彼らが 完全ではなく成熟もしていなかったことは明白です。しかし、彼らに癒された人や解放された人、 御国が来るという福音を聞いた人たちの中にそのことで不平を言った者はなかったと思います。イエスが十字架に架かられる直前でさえ、 誰が一番偉いかと言う事で弟子たちは言い争っていたのです。そして その数週間後には教会が形成され始めるという最も大切な時代のリーダーに彼らがなろうとしていたのです。それから何年も経ってからさえ、弟子のうちにはまだ大きな失敗を犯している者もいました。 ペテロはアンテオケにおいて一番若い使徒から「彼に非難すべきことがあったので」と叱責されねばなりませんでした。

ミニストリーやリーダーリーダーシップに対して(それがいかに成熟しているものであっても)完全を求めるのは愚かなことです。私たちは「土の器」に希望をおくのではなく、器の中にある「宝—聖霊」にこそ希望をおくべきなのです。もし私たちが正しく聖霊を信頼するならば、 人々に頼りすぎたり失望させられたりはしないでしょう。ミニストリーやリーダーたちが真に主のしもべであるならば、 自分が信頼されることを求めないで、人々が主にこそ信頼することを望むでしょう。 イエス御自身が崩れることのない土台なのです。も

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