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Walk With God Ministries

31 3月

井の中の蛙、大海を知らず  坂 達也  3月31日


井の中の蛙、大海を知らず

                               坂 達也(/font>


私たち人間は、神を知らない人だけでなく、知っているはずのクリスチャンですら、ほとんどの人が、所詮「井の中の蛙」であることに気がついていないようです。そこでクリスチャンが「井の中の蛙である」可能性を二つの観点から考えてみたいと思います。一つは人間の持つ「自由意志」の観点から。二つ目は信仰の面からです。この二つは相互に深く関係しています。

 創造者なる神が人間を神に似せて造り、神の最もすばらしい特質である「自由意志」を人間に与えた理由と意図は何だったのでしょうか。それは人間が最大限に自由意志・意欲を発揮して、すべてに「自分の中にある最高の可能性を追求する」ことを期待しておられたからであると思うのです。少なくともクリスチャンは、神から自由意志なるものを与えられていることにもっと責任を持つべきではないでしょうか。
人間は自分の「自由意志」が脅かされるとき、つまり、自分が好き勝手に生きることが制約されそうになると、自分の「自由」を主張する傾向があるようです。それでいて、本当の自由とは何であるかをよくは知らないのです。自分の小さな狭い井戸の中で自分の好きなように泳いでいる限り、それが自由であると思い込んで、満足して暮らしています。大海があることを知らず、又特に知ろうともしないのです。

私はクリスチャンの話をしているのです。クリスチャンであっても、なぜそうなるのかと言えば、人間は元来「自分中心」で「自分には甘く」簡単に「自己満足」し、その上始末の悪いことに、自分の考えに頑固に固執する「プライド」だけは大きいのです。これは人間の生まれ付きの罪の性質ですが、クリスチャンになってもそのライフ・スタイルを捨てようとしないからです。
クリスチャンは、信仰を得た最初の出発点である洗礼式で、「自分に死に、よみがえって霊の世界に生まれ変わる」ことに同意したにもかかわらず、何故それを真面目に実行しようとしないのでしょうか。その「死んで生き返る」ことが「井戸を出て、大海に入ること」であることに本当には気づいていないのです。

「新生」しないて、罪の人間のままでは大海に出て真の自由を探求することは出来ません。最初の人間アダムとエバは自らの意志で神に背く罪を犯し、それ以来人間は皆罪人になりました。しかしそれは最初からの神のご計画でした。「神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を(先ず)不従順(=罪)のうちに閉じ込められた」(ロマ書11:32)のです。そして、その中から、自分の意志で主キリストを信じるめぐみを得た者だけが、神への不従順という罪から解放され、自由に神の世界(霊の世界)に入って、神と共に自分の無限の可能性を追求して楽しめるのです。

神は、聖書を通して徹頭徹尾初めから終わりまで「自分に死ね」と言っておられます。それは「自分に死ぬ」ことが霊の世界という大海に出て真の自由を獲得する最初のステップであるからです。にもかかわらずクリスチャンは「すべて主に従う」ことがまるで自分の自由意志が損なわれるとでも思うのでしょうか、心からそうしようと思わない人が大半です。

考えてもみて下さい。人間の持つ自由(意志)とは何と小さくて限られたものでしょうか。人間の思考の世界がいかに小さく偏ったものであるかは、子供を例にとれば明らかです。人間は赤ん坊でも自由意志を持っています。しかし、生まれたては、お腹がすいた時とお尻がむずがゆくなる時に泣くことしか知らないのです。それが彼らの持つ自由意志の限度です。
そこで親は子供の意志を尊重しながらも、足らないところを親の意志(良識)で補いつつ子供の面倒をみないでしょうか。天の父も同じです。全知全能で最高の愛の持ち主である神なる父は、子供である私たちをいつも愛し、私たちの自由意志が一番よい形で発揮できるように助けて下さろうとしておられるのであって、私たちの自由と自由意志を損なおうなどとは全く考えてはおられません。

それが証拠に父なる神は、最愛の一人子を罪だらけの私たちの身代わりとして死なせ、そのキリスト・イエスを信じた人に、もう一人の助け主である聖霊を「永遠の後見役」として送り、その人の内に住まわせて下さっているのです。この内住の聖霊が私たちを狭い井戸から、無限の可能性を追求できる自由意志の大海に連れ出して下さるのです。つまり、内なる聖霊が私たちの大海です。


真理はあなたを自由にし、大海に解放する

上記で申し上げて来たことが神の真理の真髄であると私は思います。こうして自分の浅はかな考えで生きることが愚の骨頂であることに気が付き、そんな自分に死んで、神に自分の人生の一切を委ねて生きることこそ、自分の自由意志を最大に発揮することになることが納得ゆくはずです。パウロはこの生き方を次のように言いました。
「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・」(ガラテヤ2:20)

そうと決まれば、私たちの人生は常に聖霊に従って生きることに徹すればよい、という結論になります。それは取りも直さず、毎日「神の御声を聞いて従いつつ生きる」ことです。そして、この生き方が、あなたのこれからの人生における最も重要な課題となるはずです。この真理を知ることがあなたを自由にします。

「・・・わたし(イエス)は真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネ18:37)

「・・・もしあなたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたを自由にします。」(ヨハネ8:31−32)

「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。・・・・神から出た者は、神のことばに聞き従います。・・・」(ヨハネ8:43、47)


大海の信仰

クリスチャンは自分の持っている信仰が、やはり井戸の中の蛙で、大海の信仰ではないことに気づくべきです。
先日ハワイの集会に来られたカル・ピヤース師が言っていましたが、人間の脳は通常全体の一割しか使われていないそうです。なぜそうなのかご存知でしょうか。ピヤース師は、神は人間の脳の9割を無駄にするようには造ってはお られない、その未使用の部分は神の御心と思いが入るスペースで、神の思いがその人の思いとして用いられるためにある、そして、今使われている一割は人間自身の思考であり、神に差し出すべき十一献金のようなものであると言われたのです。

 これからの時代は、「キリストの思いが私たちの思いに」(1コリント2:16)ならねばならないのです。そのようなクリスチャンが中心となって、主の多くの終末のご計画が実行されて行くでしょう。そのためには私たちの今持っている信仰は抜本的に変えられなければならず、まさにロマ書12:1−2が実現される必要があるのです。

私たちがもし弱い信仰しか持っていなければ、人間の常識を外れるようなこと、すなわち超自然の奇跡が日常茶飯事で起こることは考えられません。超自然の世界とは霊の世界で普通に起こることなのですから、私たちが霊に生まれ変わった以上、当然その霊の世界での現象が自由に自分のものに出来るはずです。主は今それを私たちに期待しておられます。

しかし現実には、それがなかなか実現していません。その最大の原因は、結局のところ「自分に死ねない」ことにあるように思えます。自分に死ねないから「キリストの思いが私たちの思いに」ならないのです。それは、根本的に「自由意志」に対する私たちの考え方に原因があると私は思います。

皆さんはクリスチャンが「霊的に成熟する」ことをどのようにお考えでしょうか。
「私たちが早く霊的に成熟する目的は、丁度子供が大人に成長して自立するように、早く自分で少しでも多く神の御心が行えるようになることである」とお考えになっていないでしょうか。

もしそうであるとすれば、それは「律法的な生き方」であると思いませんか。この生き方は「自分で出来るだけ御心にそって生きる努力をしてみますが、うまく行かない時は助けて下さい。」という考え方に立脚しています。ほとんどのクリスチャンは、大なり小なりこの考えで「何も悪くない」と思って頑張って生きているのではないでしょうか。その結果自分がぴんぴん生きています。それが人間に自由意志が与えられた理由であると思っておられませんか。

私たちが霊的に成熟することとは、パウロがピリピ3:7−9、その他のところで言うように「イエスキリストを個人的に知ることと主の信仰で生きることのすばらしさに比べたら、肉の自分の一切のこと(自分の名声も考えも、それで生きることも)全く何の価値もない。」という境地に先ず到達することであると思います。そのような「自分で生きる」などとは思いもよらないというへりくだりの境地に達した時、イエスが「わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに・・・・」(ヨハネ8:28)と言われる父への愛と従順にとりつかれた情熱で生きる姿になれるのであると思います。まさに「あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるため」(1コリント2:5) にあるのです。このような生き方だけが主の期待しておられる「霊的成熟」であると信じますが、いかがでしょうか。さもなければ、神は私たち人間の中に聖霊ご自身が住まわれ、自分にトータルに死になさいなどとは決しておっしゃらないはずです。

主と共に大海に出る信仰を目標に掲げ、主にそれを毎日願い、自分の自由意志で「自分で生きる権利」を放棄することを宣言し、毎日私たちが主を見上げ、主の御声を聞いて従う、主の御心で生きる努力をし続ける時に、たとえそれが今は不完全であっても、主はあわれみをもって私たちに力を与え、信仰を引き上げて下さると確信します。やがてはそのような私たちを、神は超自然の奇跡を起こされるべき器に育て上げ、大いに用いられることを信じて疑いません。そのようなクリスチャンを今主は求めておられます。(終わり)


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