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Walk With God Ministries

23 5月

御国の領域で生きる ジェシカ•ジョーンズ 5月23日


御国の領域で生きる

ジェシカ•ジョーンズ


御国に生きる生き方というのは、実はとても簡単なのです。それにもかかわらず、それはクリスチャンにずっと今まで手のとどかない世界のことになってしまっています。でも長ったらしい方程式など何もないのです。それはただあなたの人生の一分一分、一つ一つの状況を神の御手、即ち霊的な御国の領域に委ねるということです。

イエスはそうされました。使徒たちもそうしました。そしてそれは私たちの人生上のあらゆることにおいても非常に素晴らしく効果があることなのです。初期のクリスチャンたちはユダヤ人でした。彼らは皆、何千年にもわたって伝えられてきた神を畏れる生き方の契約を把握していました。すべてのユダヤ人家庭の一部となっていたその理解を、私たちは失ってしまいました。それは4世紀のコンスタンチヌスの治世で起こったユダヤ人に対する迫害によって、クリスチャンとユダヤ人が分たれてしまったからです。

「朝起きてあなたの足がベッドから床につく前に、あなたの一日をわたしの権威の下に委ねなさい。」と主は私に言われました。

初めてそのようにした時、それは実際どんな意味なのかを私は主にお訊きしてみました。

「父なる神様、私はこの日を、今日のすべての活動を、問題を、状況を、決断を、すべてを、一分一分をあなたの御手の中に、あなたの権威の下に置きます。私に関するすべての事に 、どのような方法ででもあなたが介入する許可を差し上げます。それは今日一日があなたにとって益となり、御心に適うものとなるようにすべてのことが相働くためです。イエスの御名によって祈ります。アーメン」

この祈りをする理由は、私たちの一日を地上の領域から切り離して、神の領域、神の御手の中に置くためです。あなたの一日をこの世の空中の力であるルシファーの権威の下から、神の領域へと移すのです。神があなたの為にあなたの人生に介入されることを許可する祈りです。神とその他のもろもろの霊にむかって、あなたはルシファーやその手下どもとではなく、ただ神とだけ共に働いているのであり、神に完全にコントロール権があることを宣言するものです。あなたは神を信頼し、自分(それは即ちこの世の力)がコントロールするのではなく、神にすべてのコントロールを明け渡すことを宣言するものです。

私は今までに何度もこれと同じ祈りをしてきましたが、それがどれほど意味深いものであるかを今のようには理解していませんでした。「主よ、決して私を離さないでください。あなたが望まれる事とか私がするべきことがあったならば、いつでも私がしようとしている事を変更することをあなたに許可いたします。」私が17歳のときに実はまさにこのことを意味する祈りの歌を与えられたのでした(曲に合わせるともっといいのですが)。そして私は何年もそれを歌って来ましたし、今でもギターを手に持つと歌います。実際のところ、ギターがない時でもこの歌のヴィジョンが 頭の中を度々よぎります。

私はいろんなことを言ったりしたりしていますが、本当に私は人生のすべてを主にお捧げし、主の御手に中にお委ねしました。
確かに私は言うべきでないことを言い、するべきでないことを度々してしまします。 主が必要と思われたならばいつでも私の人生に介入し干渉してください、という許可を主に与えたにも拘わらず、 私は自分の人生を主の御手の中から取りもどし、自分で生きてしまってばかりいるので、そのような情けない結果になるのです。

これはどういうことでしょうか? 自分の人生を本当に主の御手の中に置く時、私は自分の人生を御国の領域に置いたことになるのです。しかし、それをまた取り戻して自分でコントロールするならば、私は自分を御国で生きる状態から取り出してしまい、またぞろルシファーの権威の下に置いてしまうことになるのです。そうです、クリスチャンでも自分の人生をルシファーの統治下に置いてしまえるのです。というのは今ルシファーがこの世の君だからです。ですから、もし私たちが御国で生きることから抜け出してこの世の肉の領域に入るならば、私たちは神の御国から出てルシファーの王国へと入るのです。

私が母に関して一番憶えていることの一つは、彼女があることを私に教えようとした時のことです。母は部屋の戸口に立ち、片方の足だけを部屋の中に入れ「 入ることも出来るけど…」と言い、次にもう片方の 足を部屋の外におろして「出て行くことも出来る..」と言うのです。母は同じことを言いながら戸口でこれを数回したので まるでダンスをしているようでした。そして母は部屋の外に出て行ってしまいました。

私たちは同じことを神に対して何度もするのです。一時片足を神の王国に入れて「入ることも出来るけど…」と言い、すぐにまたこの世に戻って「出て行くことも出来る…」と言うのです。そして残念なことに私たちは母がしたように向きを変えて外に出て行ってしまうことが多いのです。

私たちは心配事を十字架のもとに持って行き嘆願したかと思うと、またその心配事を拾って家に持ち帰るのです、、そして自分の解決法を探すのです。

私たちが十字架の下に行く時、霊的御国の生き方の中に入るのです。そしてその自分の愛玩物を拾い上げて家に帰るときは、 ルシファーの王国に再び入るのです。

次の祈りは今日聞いたばかりのものですが、とても素晴らしいので皆さんにお分ちしたいと思います。オクラホマ州のダビデの家というミニストリーのカーティス・ランドリーさんから来たものです。

父なる神よ、主イエスの御名によって私はこの 問題(経済的か、病気、子供の事かなど、はっきり言う)をあなたに差し出し、十字架の下に置きます。父よ、イエスの御名により、私はこの問題の結果とのいかなる魂的肉的な絆を断ち切ります。

イエスの御名により、私は私の思い、意志、感情、またあらゆる空しい想像がこの問題に関して駆け巡り働くことを許しません 。主よ、私はあなたに感謝します。私がこの問題に関して感情的ではなく、又いかなる恐怖も抱いていないことを。主よ、御言葉にはあなたが私に恐れの霊ではなく健全な思慮深い霊を下さったと書かれています。

私はキリストの健全な思慮深い思いを受け取ります。私は今私の中にキリストの健全な思いを受け取ります。それが私の栄光の望みです。私はすべての魂的肉的な絆を断ち切り、私の魂が良いこと、純粋で清いことにのみを心に思うことを命じます。

私はダビデのように祈ります。
「わがたましいよ。主をほめたた えよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」父よ、私はこの問題(今あなたが祈っている問題、状況をきちんと言い表す)を自分の手の中に持つことを選びません。主よ、あなたに感謝します。あなたの御言葉に「主は決して正しい者を平安と信仰の場所からゆるがされるようにはなされない。」とあることを。私はそれを自分のこととして今宣言します。私はそれを自分のこととして今信じます。私はそれを自分のこととして今受け取ります。イエスの御名において、アーメン

詩編55:22「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」
第二テモテ1:7「神はおくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」


イエスは人の子 Son of Man でした。彼は人でした。勿論彼が神の子 Son of God であったことを私は知っていますが、 人であったイエスについて私はあなたに話したいのです。

イエスは絶えず祈られました。主が何を祈っておられたか考えたことがありますか? パウロも絶えず祈りました。彼は何について祈っていたのでしょうか? 私も絶えず祈ろうとしたことがありましたが、その試みはわずか数分で終ってしまいました。

私たちは、祈りとは何かをお願いすることだと考えています。それが人々のためであっても、やはり物事や人のためにお願いをしているわけです。私自身はお願いすることをそんなに沢山思いつきません。いくつくらいの事をイエスは神にお願いしたと思いますか?主は家を持っていませんでした。


着るものやサンダルもあまり持っていたとは思えません。所有物はありませんでした。 遺書に書き記すようなものは何もなかったのです。ただヨハネに母の世話を頼んだだけでした。たった一つの衣はローマのくじに使われました。つまり、彼はこの世の領域では何一つ誇るものは持っていなかったのです。

では、一体イエスは何を祈ったのでしょうか?
パウロも無一物でした。ですからパウロは一体何のために祈ったのでしょうか?

私はイエスとパウロは二人とも同じことを祈っていたのではないかと思うのです。彼らは自分の人生の一分一分が神の御手の中でしっかり守られていることを願ったのです。二人はすべての呼吸が確実に神のコントロール下にあるようにと絶えず祈り、彼らのために介入する許可を神に与えていたのです。

そして祈りは一方通行ではありません。二人は人生すべてのことに関して神の語られる言葉を聞くために耳を傾けていたのです。

これはどういうことでしょうか?

パウロはルステラで石打ちにあいました。人々は彼を死んだものと思い町の外に引きずりだしました。彼は瀕死で横たわりながら、結果がどのようになろうともその時を神の御手に委ねたのだと私は思います。神はパウロのために介入する許可を与えられていましたし、使徒がもう一人死ぬということよりもっと良い計画を持っておられたので、パウロを生き返らせルステラにもどって福音を語らせたのでした。


ちょっと今考えてみてください。パウロの頭に石が一つか二つ当たったとしましょう。というのは人を石打ちにする時に一番効果的なのは頭だからです。石が当たって地面に倒れたあとは
人々はその人の身体全体をめがけて石をなげ、もっと苦痛を与えようとするでしょう。

パウロは頭に数カ所傷を受け、多分頭蓋骨が割れ、骨も大分砕かれていたでしょう。確実に死に至るような石打ちを受けていたのです。

私は石打ちにあった人々がどのように死を迎えるかについて調べたことがあります。20分ほどで死に至り、それは蹴られたり打叩かれて死ぬのと似ていて、 激しい痛みの伴う残酷な死に方です。

しかし、パウロの命は父なる神の御手の中にありました。父は彼を生き返らせ、町にもどって福音を語らせました。彼はぼろぼろになった泥まみれ血まみれの服を着て町に入っていきました。彼は 足を引きずることもなく完全に癒された姿でユダヤ人に彼らが歴史の中で聞いていた神について躊躇することなく語ったのでした。

一方イエスは、会堂の人々によってガリラヤの町の外にある丘の上に追いやられました。人々は主を崖から突き落とそうとしたのです。しかし、イエス(人としての)は、群衆の中を通り抜け誰にも見られずに去ってしまわれました。人々はすでにそこにはいない人を突き落とそうと群がっていたのです。

この話を以前にも聞いたことはありませんか? ラベンズブルックの強制収容所に入れられたコーリー・テンブームの話はどうでしょうか。彼女は扉のところに立っていた看守の厳しい目を通り抜けて聖書を持ち込むことが出来たのです。

神がある人のためにされたことは、他の人にもして下さるのです。神は人をかたより見る方ではありません。そして奇跡は滅多におこらないと考えるべきではありません。私たちの世界で滅多にないとか奇跡的だと考えられることは、御国の領域の生活では普通のことなのです。そして霊の領域がこの世の領域に取って変るならば、ここでもそれは起こるのです。言葉を変えれば、私たちが人生を神の御手に委ねて、神が私たちの領域を神の領域に置き換えてくださるのを許可するならば、奇跡は私たちの生活の中で当たり前の事となるのです。(終わり)

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