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Walk With God Ministries

15 7月

聖さは輝く フランシス・フランジペン 7月15日


聖さは輝く

フランシス・フランジペン


クリスチャンの人生に真の聖さがあるとき、それは輝き出てその人の回りは明るくなります。赤ちゃんや幼児は神の臨在にとても近い存在なので、彼らの霊は純粋であり汚されていません。ですから彼らも同じ光を放っています。 彼らの心は透き通っていて偽りがないので、彼らから目に見える光が発せられているのです。そのような聖いランプの輝きを私たちが放つためには、 彼らと同じような透明さと偽りのない心を持つことが必要です。それは神の御国で混じりけのない黄金となる道です。

一つのものだけを見る目

キリストが私たちの内に入って来られた瞬間に、私たちは聖くされ、神のために聖別された者となります。この聖さは、神殿の器物が聖くされるのと同じ種類の聖化です。即ち、器物は主に仕えるために用いられるので聖いのです。器物そのものには何の徳もありません。器物の材質が変ったわけでもありません。キリスト教もその意味において、おおむね、聖いと言えます。
しかし、私たちが求めている聖さは、主のために取り分けられて完全に聖くなるということです。 私たちを通して、天の父なる神の臨在が 回りに映し出されるような聖さを求めているのです。神の御性質そのものと、神のいのちの豊かさを私たちは求めているのです。

真に聖くなるとは、私たちのうちに聖霊のいのちそのものを生み出すことを意味するので、 私たちは聖霊がどのような方であるのかを確実に知る必要があります。神の御霊は愛であって、宗教ではありません。神はいのちであって、形式ではありません。聖霊は私たちが単に異言で話したり、証しが出来るようにしてくださるだけではありません。御霊は私たちをイエスの臨在の中へと導いてくださるのです。私たちは聖さをその臨在の中で受け取るのです。即ち、イエス・キリストと一つになり、交わりを持つときに聖さを受けとうことが出来るのです。


又、私たちの求める聖さは、律法的な一連の規則でもありません。それはキリストご自身のいのちそのものです。聖霊は私たちのうちに働いて「もっと人を愛したい」という新たな願いを生み出すのではないのです。そうではなく、御霊はキリストご自身が持つ愛そのものを分与してくださるのです。 ただ単にイエスに対する自分の信仰を強くされるのではなく、主の持っておられる信仰を受け取って、 イエスが信じるように実際に信じ始めるのです。
私たちを聖くするのは、私たちの内におられる神ご自身です。揺り動かされましょう。そして私たちが居心地のよい枝から振り落とされて、大いなる恐れと大いなる喜びをもって、深い礼拝と聖なる恐れをもって、ご自分の意志と目的をもって私たちを召してくださった神というリアルなお方に近づこうではありませんか。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか?」(第一コリント3:16)

神の御霊が私たちの内に住んでおられるのです。ですから、昔からされてきた「人とは何であるのか?」という質問を自分にしてみようではありませんか。私たちは自分が他人にどのように映るのかは知っています。しかし、もし神が本当に私たちのうちにおられるのならば、 天使や悪霊にはどのように見えるのでしょうか? 私たちは霊の世界でどのような者なのでしょうか。私たちの回りの輝きはどんなでしょうか。私たちは目に見えない世界にむかってどのような栄光を輝かせているのでしょう。「見てご覧なさい。気をつけて。神の子が歩いてきますよ!」と彼らは言っているのです。考えてみてください。始めに人間を神のイメージに造られた方、創造者の御霊があなたの中におられるのですよ、、、、まさに今。

聖さとは身体全体が明るいこと

しかしこれには限定があり、条件があります。あなたは二人の主人に兼ね仕えることはできません。あなたは光と闇とに、罪と義とに、自分と神とに兼ね仕えることはできません。あなたの内には光がありますが、闇もまたあります。私たちの世界は闇の世界です。私たちの先祖は闇の子供たちでした。私たちの肉的な思いは今も尚、闇が暗躍する舞台のままになっています。つねに選択をせまられる世界で、私たちは光を選ばねばなりません。成熟した光の子となるためには私たちは決して二心であってはならないとイエスが教えられた理由はここにあります。主は「からだのあかりは、あなたがたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。(ルカ11:34)」と言われました。

もしあなたが心と思いをもって神にのみ焦点を当てているのならば、あなたのからだには光が満ち、神の栄光が完全にあなたのうちに顕れるのです。しかし、もしあなたが二心であるならば、もしあなたが罪深い、あるいは悪い考えを持っているならば、あなたの光はだんだん暗くなり、遂にはからだ全体が真っ暗になるのです。イエスは続けて「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)」と警告されています。

もしあなたが救われたにも拘わらず、神を求めず、或いは神に従わないとしたら、あなたは闇の中にいるのです。「いつか、どうにか、自分はきっと良くなる」というような空しい希望で自分を慰めないでください。はっきりした決意で身を固めてください!もしもあなたの内の光が闇の中にあるならば、その闇はなんと恐ろしいことでしょうか!光の子よ、あなたは闇を憎まねばなりません!暗闇は地獄の実体であり、神のない世界なのです!

しかし、私たちは光に希望をおいているのであって、闇ではありません。あなたの足は義の道を歩んでいるのであり、その道はだんだんに明るく真昼のようになるのです。「もしあなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。(ルカ11:36)」という節は、 聖さが完成した時の姿をはっきり表しています。それは、ちょうどランプが明るく輝くように私たちの身体が栄光で輝いている姿です。なんという素晴らしい希望でしょうか。私たちが神の臨在によって全体が明るく輝き、私たちの内には「何の暗い部分もない」という姿です!

霊的に成熟した神の聖徒には、光と栄光に輝く衣が用意されています。それは山上の変貌の時のイエスの衣のようです。ただ永遠の世界のためだけのものではなく、この世で着る衣です。「曲がった邪悪の世代にあって」も「彼らの間で世の光として輝く」の です。(ピリピ2:14、15)

「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5:8)

この言葉は単なる比喩ではないのです! 神の栄光があなたの内に、あなたの回りにあるのです。それは霊的にリアルなことなのです。しかしあなたの中にまだある暗さはどうでしょうか。パウロは続けて言っています。
「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。、、、けれども明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされるものはみな、光だからです。」(エペソ5:11、13、14)

あなたの暗やみを明るみに出してください。それを擁護したり弁解したりせずに正直に告白してください。それを憎んでください。断ち切ってください。暗やみが暗やみの中に留まるかぎり、それはあなたを支配します。しかし光の中に出せば、それは光になります。あなたの密かな罪を大胆に神の恵みの御座に持っていき告白するならば、神はすべての悪からあなたをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)もしまた罪を犯したならば、もう一度悔い改めてください。何度でも、あなたの中の罪の性質が砕かれるまでそうするのです。

昔の探鉱者のように、 あなたのために取り分けられた混じりけのない黄金を守るために、 御国にあるあなたの土地のまわりに杭を打って確保してください。(黙示録3:18)そしてあなたが恵みの御座にじっと座り続けるならば、永遠な何かがあなたの中で輝き始めるのです。それは溶解炉の熱い石炭のようなものです。あなたが全能なる主と共に留まるとき、主の臨在の聖なる火は、あなたが持っている木や草やわらのようなものを燃え尽くしてくださいます。イエスが持っておられた力があなたの内に奥深くに宿るでしょう。あなたの金が精錬され、あなたの衣が光り、あなたの人生が聖くされるので、天使たちも驚嘆して立ちすくむでしょう。(終わり)

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