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Walk With God Ministries

04 2月

天に召された柚実子が残した  皆様への最後のメッセージ                     坂  達 也


天に召された柚実子が残した

      皆様への最後のメッセージ

 

                     坂  達 也

 

 

 私は柚実子が昇天した三日後の1月19日(日)に、近くにある日本人教会ニューヨークめぐみ教会にて、折から日本へ旅行中の牧師の代理として礼拝メッセージを取りつがせていただきました。葬儀を前にして取り込み中でしたので、お断りすることもできましたが、実はこの予定は数週間前から決まっていて、しかも私は柚実子からこの日には必ず「このメッセージをして欲しい」というテーマの指示まで受けていたのです。

 そんな注文を付けられたことは私の記憶には今まで一度もありません。まるで柚実子は、自分が昇天することを知っていたかのようでした。そこで、私は下記のメッセージは柚実子からの「遺言」として取りつがせていただいた次第です。

 

 また、このメッセージは、この地元の教会だけではなく、私たちが今日まで親しくしていただいたすべての教会の皆様に伝えて欲しいという願いを柚実子は持っていたと確信します。就きましては、柚実子のために私が伝えたメッセージを下記に要約しましたので、ご高覧くだされば幸いです。

 

           ==========

 

 

創造主の神はすべての人間が生きる 

      一生の脚本を既に書いて天に保存している 

 

 皆さんはこの宇宙に人間を含む全てのものを創造した全知全能の神が永遠の昔から存在することを信じますか。

 ご存知の通り、聖書には冒頭で「初めに、神が天と地を創造した。」と書かれていますが、その神が「全知全能の神」であることが、聖書の詩篇139:1−18をお読みになればよくお分かりになると思います。

 

 「あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り私の道をことごとく知っておられます。言葉が私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前から後ろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。たとい私が、「おおやみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされまし た。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計 は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多い のです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。

 

と書かれていて、その意味するところはこの宇宙にある全てのもの、それはあらゆる目に見えるものだけでなく、目に見えない考えとか思いに至るまでの全てを創造した創造主の神が存在するということです。

 私は大学で文学を学び、行く末は小説でも書こうかと思ったこともあったせいか、一人一人顔かたちや性格のことなる多くの人間が、それぞれ生きる環境が異 なるこの世で、人生をどのように生きるかを神がどのように創造するかに興味を覚 えたのです。

神の創造は映画を制作するようなもの

 

 小説にせよ、映画にせよ、作る前に製作のテーマと主人公、そのためのストーリーを はっきり決定してから取り掛かるのが普通です。従って、創造者の神も同じようにして創 造することは容易に想像できます。完璧な神であれば尚更、登場人物も、それぞれの筋書 きも、結末も、全部初めから決まっていて全くおかしくありません。映画の制作では、 原作の物語を先ず選び、それにそって監督は思い通りに物語の進行場面とか舞台装置の小 道具一つまでを綿密に設定し、シナリオを書かせ、選んだ登場人物に自分の納得が行くま でセリフを言わせ、演技をさせ、自分の思い通りのシーンを造りながら物語を進めます。つまり、一本の映画を作るためには、前もって 原作、筋書き、脚本、シナリオ、それに必要なあらゆる小道具迄の詳しい明細が書かれた原本を用意する必要があるのです。

 そのことが上記の詩篇139に書かれています。すなわち、神は一人 の人間が生まれる前に、予め、その人が生きる一生の毎日に起こることの明細を書物に記録したものが天の書庫に収納してあると言うのです。この「天にある書」は「デスティニーの書」といわれます。

 その他にも、天には多くの書物があることが下記のことばから も分かります。 黙示録20:12、15「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も 御座の前に立っているのを見た。そして数々の書物が開かれた。また、別の一つ の書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書 物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。・・・ いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」

 これは「天の法廷での裁判」のシーンですが、次もそうです。 黙示録3:5「勝利を得る者はこのように白い衣を着せられる。そして、わた しは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名 をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。」 父が裁判官、イエスが弁護人、御使いサタンが告発者であるのです。

天にある書物、いのちの書

 そうであれば、皆さん、そのような書物を見てみたいと思いませんか。事実天 に行って、その本が収納されている巨大な書庫を見て来た人が少なくとも三人い るのです。その一人は私たちが敬愛するポール・キース・デイビス師です。彼は 超自然の幻を経験し、天の書庫に案内されてその書物を見て来ました。 そのデイビス師が親しかった預言者として知られた故ボブ・ジョーンズ師も、 ある時、御使いに案内されて天の書庫に収納されている膨大な書物の一つ 「Books of Resume 履歴の書」を見たそうです。彼は先ず自分の履歴を見 ました。そして分かったことは、自分が実際に実行したことはその書に書かれて いることに比べ非常に少ないことでした。

 ジョーンズ師は、その中で特に最近のリバイバルに関与した一人の著名な預言 者の履歴を見せてもらった時、彼の生涯の最初の50余年に行った履歴とその後の短い晩年 の履歴を比較して、晩年の方がより多くの霊的成果を挙げていたことに気付きま した。これは一体何を物語っているのでしょうか。 それは、主に愛され用いられる人に最も必要なことは「霊的成熟」であること です。晩年になって、成熟すればする程、主とのコミュニケーションが親しくで きるようになる、そうなれば毎日、主に自分の、主によって初めから決まっているその日すべきことを聞いて知り、そ れにより従って生きるようになったからです。

 終末の時代に生きる私たちには特にそれが重要です。主は今、本当に激しく求 める人には、霊の油注ぎをかつてない程、超自然的に加速して下さろうとしてい る時代に入っています。ですから、これ迄は目立った働きをしていない無名の人 でも、激しく主との交わりを求め、霊的成熟に専心する人に主は加速的に 油を注がれ、これから大きく用いられる可能性が充分あるのです。

上記の記述から分かることは、創造者の神がいかに人間を愛しておられ、その 人間のためにこの三次元宇宙と地球環境を先ず造られた。そこに人間を生まれさ せ、出来るだけ多くの人間を「自分の子どもにする」ための厳しい霊的訓練を与 えているという事実です。この書物の存在によって、万能の神がいかに偉大な 「愛の創造者」であるかが明らかです。

 なぜなら、最初の人間アダムとエバ以来この世に生まれるすべての人間一人一 人に、神は「こう生きてもらいたい」という熱い愛の思いを込めて、まるでラブ レターのようにそれぞれ個人への「創造の日記」を書かれ、その膨大な「創造の 記録」が天に永久保存されているのです。 そのような書物を誰が書いたか それがイエス・キリストであることは、ヨ ハネ1:1に「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった・・」 から容易に想像できます。 すなわち、イエス・キリストは父なる神のご計画に沿って、すべてを具体的に 創造するに当たり、まるで映画の制作に当たって、制作者と出演者両方に必要な 脚本、台本等が用意される様に、神の創造のために必要な一切のものが書き記さ れたのです。それはあくまで神がその人物にしてもらいたいと期待する「理想的 筋書き」です。

  しかし、一方で神は私たちに自由意志を与えているので、その人が自分で勝手に生きた記録も、もう一つの「履歴の書」として天に保管されています。この二つの履歴の書は人間がこの世を去る時の審判の証拠となるのです。ですから最も重要なことは、神が個々の人間のために書いた理想的筋書きとしての履歴の書に私たち人間が「全き 従順」であることです。すなわち神が人間に要求していることは、神のために何かしてもらいたいのではなく、勝手に何もしないで欲しい、むしろ初めから神の役者として、神のシナリオに忠実に従い演じて欲しいということです。理由は、それが最もその人のためになるからです。

 その点神の子で人間となったイエス・キリストは、最も忠実な役 者であったことが下記の聖句からよく分かります。役者イエスは「子は、父 ( 監督 ) がしておられることを見て(全てを理解して)行う以 外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさる(監督が示す)ことは何で も、子も同様に行うのです。」(ヨハネ5:19) と言い、子である役者は監督が望んでいる演技を霊の目で見て、あるいは監督が実際に やってみせてくれる通りのことを忠実に演ずる責任があることを私たちに示してくれたの です。 また、「わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおり に、これらのことを話している・・・」(ヨハネ8:28) と言い、セリフも全て監督か ら教えられた脚本通りに忠実に話すことを実行しました。イエスは監督のお気に入りの最 高のスター俳優です。 映画監督はよい作品を創るために、その映画に関する限り全くのワンマンの支配者で あり、この点は創造者の神と似ています。さて前置きが長くなりましたが、ここから本題に入ります。

マラキ書と什一献金について

 マラキ書3:8ー10「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。それは、十分の一と奉納物によってである。あなた方はのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。ーー万軍の主はお仰せられるーーわたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

 ここで注意していただきたいのは、神が「わたしを試してみよ」と書かれているのは聖書の中で、ここだけであることです。多くの人はこのマラキ書の御言葉を頭の知識として知ってはいますが、その意味を本当に理解している人は少ないように思います。なぜなら、よく考えてみれば、私たち人間は元々神が望む台本通りに生きることが問われているからです。勿論完全にその神の台本に従い通した人はイエス・キリストだけです。しかし私たちクリスチャンの目標はすべての行いにおいてイエスに似た者になることである以上、もしそうでないなら(実のところ誰もイエスのように完璧にはできないのは確かですが)ーそのできない人には上記の御言葉「あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか」の保証はないと思います。ところが愛のあふれる神は、私たちがたった一つのことだけでも忠実に実行すれば「あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ」とおっしゃるのです。それが「什一献金」であり、「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」の真の意味であると私は信じます。

 神は私たち人間がこの世で「金がものをいう」ことをよく知っておられ、それで私たちクリスチャンが「出し惜しみ」するかどうかという一番弱いところを試しておられると私は思います。時間があれば、例えばリック・ジョイナー師とか、ジャック・デヤー(Jack Deere ) 師の貴重な体験談をお分ちするのですが、それはまた次回にさせていただきます。私たち夫婦もこの「什一献金」の重要さを十分に体験して来ましたので、その重要性をどれほど強調しても、しすぎることはないと信じる者の一人です。

 尚、一つ誤解のないように申し上げたいことは神があふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ」ことと、クリスチャンが「厳しい試練を通る、苦労する」こととは全く別のことであることです。なぜなら、ヘブル5:8-9に キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、・・」と書かれているからです。父なる神は、自分の「最愛のひとり子」で「神である」イエスですら、この世に送り、人間として苦労させた挙句に、十字架刑というこの世で最も残忍な極刑に処し、それに耐え忍ばせる苦しみを味合わせたのです。また、ヤコブ書1:2−4、12に「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。・・・・試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」と書かれていることも「永遠のいのち」を受けるために必要であることです。

 ところで、マタイ23:23で「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中でははるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他の方も(什一献金)おろそかにしてはいけません。」

 と言っているのはイエスご自身の言葉であることです。イエスは、新約の時代でも「什一献金」をおろそかにしてはならないと警告しています。しかし什一献金は旧約の律法ゆえに、新約の私たちは守る必要がないと堂々と公言して憚らない聖書学者もいることにお気をつけ下さい。

 結論から申し上げれば、聖書は什一献金をすることによって、クリスチャンは少なくとも経済的に神があなたの必要を常に充分に満たしてくれるばかりでなく「神はあふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ」と約束されていることです。ハレルヤ!(終わり)


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