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13 1月

プレイズとワーシップの相違点   ボブ•ソージ    2020年1月13日


プレイズとワーシップの相違点

 

ボブソージBob Sorge Ministry)

 

 

プレイズとワーシップの幾つかの相違点を明確に把握することは、私たちの助けになると思います。多くの場合、この二つは違う領域で機能します。しかし、時にはこれらを区別することがほとんど不可能なこともありますし、同じ礼拝の中でこの二つが別々の人々によって同時に行われることもあります。

 

私たちが手を上げて主の御前で踊るとき、プレイズをしているのでしょうか、それともワーシップをしているのでしょうか? それはどちらでもあり得るのです。というのはプレイズとワーシップの外面的な姿は、多くの場合、全く同じだからです。

 

プレイズとワーシップを切り離すのは、魂と霊を切りはなすほどに難しいことです。魂と霊は人間の持つ二つの異なる面ということは確かですが、その違いをはっきり区別するのは簡単ではありません。自分の内に一つの感情が生じたとき、それが「霊由来のもの」、あるいは「魂由来のもの」と決めつけることが私たちにできるでしょうか? 魂と霊を見分けるほど鋭いものはただ一つだけであり、それは神のことばです。(ヘブル4:12)私たちは自分自身の内にあるものの違いさえも判断できないのです! 同じようにプレイズとワーシップは二つの違うものですが、切り分けられないことがよくあるのです。

 

祈り、感謝、プレイズ、ワーシップという4つ表現は、非常に深く関わっています。これらの4つは互いに互いの領域と重なって存在しているからです。

プレイズとワーシップの違いは、ほとんど「仮に違いがあると想定するならば」と言ってもいいほどです。しかし、この仮説ともいえる相違点を調べることによって、私たちはワーシップのエッセンスをもっとよく理解することができると思います。

 

1.まず第一に、神は私たちのプレイズを必要とされません。私たちに「神をプレイズする必要」があるのです。神は私たちに「プレイズせよ」と命じておられますが、それは「神がそれを喜ばれるから」とかではなく、それが私たちのうちに良い変化をもたらすからです。私たちが神と正しい関係となり、神の御前にへりくだるためのプロセスの中でプレイズは必要なステップなのです。

 

神はあまたの被造物からありあまる賛美を受けておられるので、私やあなたが賛美することを拒んだとしても問題はありません。しかし御父はワーシップをする者、ワーシッパーを心から求めておられます!(ヨハネ4:23)ここで、神が求めておられるのは「礼拝 ワーシップ」ではなく、「礼拝者 ワーシッパー」であることに注意してください。神は私たちのワーシップを必要とされるのではなく、ワーシッパーとしてのライフスタイルと思考態度を身につけた者たちを熱心に求めておられるのです。

 

2.2番目に、プレイズをする時は、主と自分との距離があまり近くない場合もありますが、ワーシップのときは主との親しい交わりがあります。プレイズをするとき、その人の心が神の近くにある必要はありません。私は飲んでどんちゃん騒ぎをしながら神を賛美し始めた男たちの話を聞いたことがあります。

 

ワーシップはそれとは違い、私たちを神のこころに引き寄せます。神との関係はワーシップには必須です。なぜならば、ワーシップは一方通行ではなく両者の間を行き来きして、受け取ったり与えたりするものだからです。プレイズは一方通行で上に上っていくことができますが、ワーシップには親密な交わりと communion が伴うのです。

 

3.次に、プレイズをすると、それは常に目に見えたり聞こえたりします。しかし、ワーシップは傍目には分からないことがあります。ワーシップがプレイズと同じようにはっきり傍目に分かることもありますが、いつもそうではありません。

 

ワーシップをしている人が主の御前に謙虚に自分をすべて注ぎ出すとき、まるで死んでいるかのように見えることもあり(黙示録4:10、11に出てくる長老の姿を参考)ですからワーシップをしているかどうかを外見で見分けるのは難しい場合もあります。賛美は目で見えるので、賛美をしているかどうかを判断することはできるかもしれません。しかし本当にワーシップをしているかどうかを判断できるのは、ただ一人のお方、神だけです。

 

4.4番目に、プレイズはその目的においてほとんど水平方向のものですが、ワーシップは縦の関係に動くものです。私たちがプレイズするとき、水平に多くのことが起こります。互いに主のことを語ったり、互いに主への賛美を宣言したりします。しかしワーシップはもっと個人的なものであり、三位一体の神にもっと集中してかかわっていくものです。ワーシップには少しは横の要素もありますが、それが主となるものではありません。

 

プレイズは多くの場合、ワーシップに入る準備になります。完全にワーシップに入る前にプレイズをまずするようにと、神が教えてくださることがよくあります。それは、自分の内なるすべてをもって主を賛美することを会得するならば、そこからすばらしいワーシッパーへになって行くのがたやすくなるからです。

 

しかしながら、私たちが賛美するとき抑制されていて解放されていないならば、ワーシップにおいても縛られていることになるでしょう。ですから心からのプレイズはワーシップへの入り口と考えていいでしょう。多くの場合ワーシップよりもプレイズのほうが始めやすいでしょう。ですから、もしワーシップへ入るのに困難な時は、プレイズから始めればワーシップがもっと楽に流れ出すでしょう。私たちはプレイズに入るようにと歌い始め、そしてワーシップに入るためにプレイズをするーしかし歌うことが必ずプレイズに入っていくという保証はなく、又プレイズをすることが必ずワーシップへ入っていくという保証もありません。

 

5.この点に関しては例外がありますが、一般的に言うと、ワーシップは通常ゆっくりした歌によって行われ、プレイズは早めの歌によって行われます。

 ゆっくりしたテンポがいつもワーシップを表して、早いテンポはプレイズだということではありません。そうではなく、ゆっくり目の歌のムードがよりワーシップにつながりやすく、早めの歌がプレイズの性質にもっとよりそいやすいということです。

 勿論、時として例外はありますが、このように考えることは、私たちがプレイズとワーシップの違いを理解するのに役立つと思います。実際のところ、ある歌がプレイズのためかワーシップのためかを見極める最良の方法は、テンポが早いか遅いかではなく、歌詞の内容を見ることです。

 

しかしながら、私たちは次のことを忘れてはなりません。音楽はワーシップの一つの道具にすぎないのです。ある人は「私はワーシップをこのように強調することには全く興味がありません。私は歌うことが好きではないからです。」と言うかもしれません。歌を歌うのが楽しいとかいうことは全くワーシップとは関係ありません。音痴の人も沢山いますが、彼らもすばらしいワーシッパーになり得るのです。

ルカ7章で、イエスの足に油を注いだ女はワーシッパーの最たるものです。回りには何も楽器の演奏はなく彼女も歌を歌いませんでしたが、彼女は最も注目され賞賛されるべきワーシッパーでした。ワーシップは音楽的な活動ではなく心の働き a function of the heart であるからです。

 

6.プレイズとワーシップの相違点の最後ですが、プレイズをするとき、私たちは時に非常に積極的に煽る必要があります。そうすることによって私たちの肉と魂をかき立てて主を賛美することが必要な時も多いからです。

しかしワーシップはそれとは違うレベルで機能するようです。ワーシップは、プレイズと同じようには人間的な努力によって効果があるわけではなく、ワーシップは神の臨在の中に静かに無心にひたるという様なものだと言われます。私たちの霊は喜んでワーシップをしたいのですが、私たちの肉は弱く気が進まなくてしぶるのです。プレイズは肉を通して表現されるので、肉をふるいたたせる必要があります。しかしワーシップは霊の機能なので、必要なのは肉をふるいたたせることではなく、霊のドアの鍵をあけ、霊を解放することにあるのです。

 

以上のような説明で、ワーシップがプレイズよりも優っているとか崇高だと言っているわけではありません。両者ともに同じように重要であり、すべてのクリスチャンの人生やすべての教会にとって重要な役割を果たします。

 

もし私たちが「プレイズよりもワーシップの方がより好ましい、重要だ」と考えるならば、礼拝の中で常にプレイズからワーシップへと早く進んでいかねば、とあせる気持ちが働くでしょう。しかし、しばらくはプレイズに留まっていたり、最高のプレイズを頂点として終わるというのが一番適切な場合もあります。

又、ある人たちは歌詞は誰に向けて書かれているかにあまりにも注意を払いすぎます。即ち「この歌は自分に向けられているのか?それとも私の回りの人にか? それとも神にか?」という風にです。神に向かって語りかける歌が、神について語っている歌より優れているとかふさわしいということはありません。

 

神にとって重要なのは、その歌が一人称で書かれているか、二人称か、三人称かということではなく、私たちが神との麗しい交わりに入ることです。私たちはあまりにも自分の内側ばかりみて「今私はプレイズしているのだろうか?それともワーシップしているのだろうか?」と心配するようなことに陥らないようにしましょう。あなたの焦点を方法や技法にとらわれないで、主への愛を表して主を喜ばせることに集中しようではありませんか。

 

ある人たちは、プレイズは神殿の「外庭」であり、ワーシップは「内庭」だという間違った考えを持っています。プレイズとワーシップの間にはっきりした境を設けるのは不自然で人為的なことです。

 

例えば、プレイズの時に起る身体の動きはワーシップの中でも行われます。私が両手をあげているとき、プレイズをしているのでしょうか?それともワーシップをしているのでしょうか? どちらの可能性もありますし、もしかして両方しているかもしれません。ダンスはプレイズの形だと考えるのが普通ですが、ある時私は主の御前に力をつくしてワーシップの表現として踊ったときのことを覚えています。

叫ぶ、手を叩く、歌う、、確かにこれらはプレイズの外面的な姿ですが、これらもワーシップでも用いることができます。しかし、全く外面的には何の表現がなくてもワーシップをしている場合もあります。

 

 プレイズとワーシップはどちらが高尚なのでしょうか? その答えは、「その時に聖霊が導かれている方が一番すばらしく高尚である。」です。

 

ヨハネ4:23−24

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時がきます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝するものは、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(終り)


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