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Walk With God Ministries

23 12月

権力より愛を選ばれた主 エディー L.ハイヤット            2019年12月23日


権力より愛を選ばれた主

 

エディー L.ハイヤット(Hyatt International Ministries)

 

 

「愛」と「権力」とは水と油のようなもので、混じりあうことはありません。有名な社会学者であるウイラード•ウオーラー氏は、愛と権力には逆相関があることを発見しました。個人的な人間関係において、「愛が増し加わると権力が減少し、権力が増し加わると愛が減少する」という事実に彼は気が付いたのです。

 

彼はこの驚くべき現象を表すために「principle of least interest 最小関心の原則」という言葉を作り出しました。それは即ち、「その関係に最も関心がなく最も気にかけない人が、最も強い権力を持つ」という原則です。

 

これは結婚に問題のある夫婦がカウンセリングを受けるときに明確に現れます。カウンセラーは二人と話すと「愛が少ないのはどちらの方か」をすぐに見分けられるのです。なぜならば、「愛が少ない方の人」は「権力の座」に座って様々な要求を出すからです。本当に愛している方の人は、権力を手放し、結婚を守るために進んで犠牲を払うのです。愛と権力とは、少なくともこの世では、共存しないようなのです。

 

神が人間への愛をこの世に現される時が来たときにご自分の権力を捨てられた理由は、ここにあるのです。パウロはピリピ2:6−7で、キリストが御父と共におられたときの力を捨て、仕える者の姿になったことを書いています。

 

ピリピ:6−7「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」

 

これが神の愛を現すためにこられた救い主が、家畜小屋で生まれ、最初のベッドは飼い葉おけだった理由なのです。そしてこれがキリストが裕福な貴族の家ではなく、貧しい家に生まれた理由です。(ヨセフとマリヤは羊を買う余裕がなかったので、羊の代わりに律法で許されている「山ばと一つがい、或は家ばとのひな二羽」を捧げました。レビ記12:8、ルカ2:22−24)

 

そしてそれは又、イエスがエルサレムやローマのような権力の中心地から遠く離れた小さく名もないナザレで育ったことも説明しています。イエスがヘロデの王座やピラトの権威、或は大祭司の地位に全く興味を示さなかったこともそれは説明しています。イエスは神の愛を現すために来られたのであり、権力を求めながら愛を示すことはできなかったのです。

 

ですからイエスが弟子たちに「権力を求めるのではなく仕える者となるように」と教えられたのは当然のことでした。例えば、ヤコブとヨハネがイエスのもとに来て、御国の2つの権威の座を願ったとき、イエスは彼らの権力への願望を叱責しました。(マタイ20:20−28、マルコ10:35−41)

 

権力は、人々に目に見える外面の行動を強要しコントロールしようとします。「愛」は人々の心にやさしく働きかけて内面を変えます。しかし、間違えないでください。この愛は決してめめしい感傷的な愛ではありません。か弱い自己中心的な愛でもありません。この愛は強靭な耐久力を必要とします。この愛は「相手にとって最高なこと」を望み、それを実現させるために「自分の願うことを自ら進んで犠牲にする」のです。この愛(ギリシャ語の新約聖書では「アガペ」です)の究極的な手本はイエス•キリストに見ることができます。

 

権力にまさる愛

 

この例を考えてみてください。ある父親が反抗的な息子に困り果て、何度も叱責し懲らしめていました。ある日、また懲らしめをしようと息子の前に立った父親は、深い悲しみと嘆きに圧倒され、そのまま息子の足もとに崩れ落ち激しく泣き始めてしまいました。息子は驚愕しそのまま無言で立っていました。しかし、その時から彼は変えられたのです。愛を表すシンプルな行動が、権力や強さを示す行動よりもっと効果的であることがあるのです。

 

旧約聖書では、神はご自分の力を現されました。神はシナイ山で雷鳴を轟かせ、海を分け、軍勢を滅ぼし、太陽や月を留めることさえなさいました。しかしながら、神の民はそれでも反抗し続けました。それはまだ神の愛を見ていなかったからです。

 

ここにクリスマスと十字架の意義があります。神がご自分の権力を捨て、人類に神の愛の深さを現してくださったのです。そしてイエスは弟子たちにも同じアガペの愛の中を歩むようにと召されたのです。

 

ヨハネ13:35−35でイエスは言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し(アガペ)合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたががわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 

教会と権力

 

教会は初めの200年の間、キリストの愛を世に現し、その影響を全世界に広めて大きな成果をおさめました。教会は大ローマ帝国を軍隊や剣を用いることなく征服したのです。

 

しかしながら、コンスタンチヌスが教会に権力を混ぜ入れ始めたのです。教会は国家の権力を使って宣教活動を広げ始め、それによって「愛」は逃げ去ってしまったのです。キリストの名において恐ろしい暴虐が行われ、中世の教会は権力を得ましたが影響力は失っていきました。

 

宗教改革は、教会が権力から離れてキリストの福音へと戻る運動でした。しかし、今日の教会には「権力、力」を追い求めている者がまだ沢山います。彼らはその点において、キリストよりもコンスタンチヌスにより近い者だと言えましょう。

 

クリスマスに私たちは、神がご自分の権力を捨てて地に来てくださり、人類への愛を現してくださったことをお祝いします。この愛は十字架において頂点に達しました。なぜならばローマの十字架上にかけられている人の姿ほど弱さを表すものはないからです。

 

私たち教会に「クリスマス」が問いかけるチャレンジはこれです。私たちは権力を捨てることにおいてキリストの手本に見習っているでしょうか? 純粋な愛で歩んでいるでしょうか? それとも、コンスタンチヌスのように愛に権力を混ぜ合わせているでしょうか?

 

ピリピ2:5−8でパウロは、私たちがどのような態度や道を取るべきかをはっきりと述べています。

 

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリストイエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまでも従われたのです。」

 

正義は必ずなされる

 

愛は私たちを無抵抗で傷つけられやすくするので、人から利用され傷つけられるのを恐れて「愛によって歩きたくない」という誘惑が来るときが私たちにはあります。そのような時、「正義」は愛には欠くことのできない本質的な要素であることを忘れてはなりません。神は正義の神であり、誰もそれを避けることはできません。

 

ですから、主が再びこられる時、主の権威、力は全面的に現されるのです。次は主は家畜小屋の赤児としてではなく、宇宙の力ある主権者として来られるのです。主の愛を拒んだ者たちにとって、それはうれしいことではありません。ヨハネは人々が山や岩に向かって「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。(黙示録6:16)」という姿を見たのです。

 

テサロニケの教会が激しい迫害の中にいたとき、「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように務めなさい。(1テサロニケ5:15)」とパウロは励ましました。

しかし彼は同じテサロニケのクリスチャンに次のようにも言っているのです。

「苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いを従えて天から現れるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(2テサロニケ1:7−9)」

 

クリスマスにあたり、私たちは全能の神に仕えている者として権力を追い求める必要がないことを忘れないでください。そうではなく、互いに愛を示し、今日神の愛を受け、来るべき神の怒りを受けることのないようにしてください。

(終り)


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