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16 12月

マリヤのようになる (その2) マイク•ビクル             2019年12月16日


マリヤのようになる (その2)

 

マイクビクルIHOP Kansas)

 

 

 博士たちが帰ったすぐ後、天使が夢でヨセフにヘロデによるイエス殺害の企みを知らせ、エジプトに逃げるようにと警告しました。想像してみてください。若いマリヤは妊娠中、親戚や友人たちから恥を受け汚名をきせられました。

そして今度は、王が自分の幼子を殺すというので、外国の地へと逃げねばならなかったのです。これが神に祝福され厚意を受けていることなのでしょうか?

 

神のすばらしい約束を心から受け取り、神が示される通りの道を歩いていても、時としてこのように全く予期せぬ困難に出会うことがあるのです。

この後、マリヤの人生は更に困難になっていきます。

 

ヨセフはイエスが12歳のときにはまだ存命でしたが、その後何年かして亡くなり、マリヤは寡婦となりました。マタイ13:55−56によると、イエスには4人の弟と数人の妹がおりました。夫を失った女性が7、8人の子どもたちをどのようにして養ったのでしょうか?

夫を失くした痛みと悲しみに加えて、マリヤはたくさんの子どもを抱えた寡婦として大きなプレッシャーに耐えねばなりませんでした。

 

イエスが30歳になったとき、彼は6週間大工仕事を休んで荒野で断食と祈りをしました。そして聖霊の油注ぎを受けて家に帰りましたが、イエスが育ち愛した町の人々は彼を退けました。

イエスは最も信頼に足る若者であり、評判もすばらしくよかったのです。しかしユダヤ会堂の長老たちは、イエスの「自分はイザヤが預言したその者である」という言葉に激怒しました。怒りのあまりイエスを崖から突き落とし殺そうとしたこともあったのです。(ルカ4:29)

 

マリヤは息子が町の長老たちにひどい取り扱いを受けるのを見なければなりませんでした。その後もイエスがミニストリーをしていた間、マリヤは信仰により自分の心を神の約束に合わせ一致させる必要があったのです。ガブリエルは「イエスは偉大な者となる」とマリヤに言いました。ですからどうして町の長老たちがこれほどまでイエスに反対するのかと、マリヤは訝しく思い悩んだのではないでしょうか。

イエスがミニストリーを始めらてからも主の兄弟たちは主を信じませんでした。(ヨハネ7:5)ということは、マリヤがイスラエルの神を敬うように育てた子どもたちは、若者になってからも「イエスを信じなかった」のです。イエスのミニストリーの期間中、マリヤは自分の子どもたちの霊的状態に苦慮していたに違いありません。親しい友人や家族の中にもイエスの言動を見て「彼は気が狂ったのだ」と思っていた者たちがいました。(マルコ3:21)

 

ユダヤ教の最高指導者たちは、イエスは悪霊に憑かれていて人々を惑わす危険なカルトのリーダーだと結論づけました。(ヨハネ7:47、8:48)彼らはマリヤがイエスをみごもった時の「不品行の噂」で、主と主のミニストリーの信用を傷つけようとしました。(ヨハネ8:41)

 

端的に言えば、イエスの生涯とミニストリーはガブリエルが約束したような「偉大なもの」とは全く見えなかったのです。多くの点で、それはまるで正反対に見えました。マリヤは「神の約束を信じ神の正しい導きを信頼する」ことを、くり返し何度も決意し直す必要があったのです。

数年後に、マリヤは息子がイスラエルから拒絶され十字架で死ぬのを見ていました。ユダヤ教の指導者たちの企みで、群衆はイエスではなくバラバのいのちを求めました。三年半のイエスのミニストリーは何も実を結ばなかったように見えたのです。

イエスは何千人もの人を癒しましたが、復活後に主を信じて祈りの場に集まって来たのは120人だけでした。(使徒行伝1:15)マリヤは神の召しに従い神の導きを信頼して人生を送りましたが、人々からの誤解や予期せぬ苦しみを耐え忍ばねばなりませんでした。

そして息子の地上でのミニストリーは終了しましたが、息子は王として称えられるのではなく、国から拒絶されたのです。

神の約束はなかなかやって来ず、そればかりか成就するのは不可能にさえ思えました。しかしマリヤは初めから神を信頼していましたし、この時も恵みによって神を信頼し耐えることができたのです。

マリヤは約束の成就の全貌を見ることなく死にました。彼女はガブリエルを通して与えられた神の言葉により、聖霊によってみごもり、神の御子をこの世に誕生させました。

しかし、ガブリエルはマリヤに「息子は偉大な者となり永遠に治める」とも言ったのです。イエスが地上にいる間、多くの者からさげすまれ、兄弟や故郷の人々、そして国の政治家や宗教の指導者たちから拒絶されました。イエスは罪人に救いをもたらすために苦しみ死なれたのです。

 

イエスに対する約束の完全な成就を私たちもまだ見ることができません。しかしすべての人が、「主は愛と力と恵みとに満ちた偉大な方である」とわかる日がやってきます。マリヤは初代教会のリバイバルにその栄光をほんの少し垣間みたかもしれませんが、それが完全に成就するのは将来のことです。

 

マリヤのこころ

 

マリヤの人生は、神の導きに対する心の正しい応答の形そのものです。完全に理解できない時でも、彼女は神の導きを信頼し続けました。すべてを失うかもしれないような時にさえ、マリヤは「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言ったのです。(ルカ1:38)

 

このようにマリヤが神を信頼し進んで神に用いられ、神を喜びとしたことは一度だけではありませんでした。それは彼女の一生を通しての生き方そのものだったのです。彼女は困難に出会う度に何度も又自らを捧げ直したのです。彼女は神を信頼し、自分の心を神の言葉と合わせ一致させていったのです。

 

状況が厳しくなった時にもあきらめることなく、神の恵みによって耐え抜いたのです。

私たちはあまりにもしばしば、自分の祈りが直ぐに聞かれないと、「神は本当に約束を果たしてくださるのだろうか?」と疑い、信仰をなくしてしまったり、或は、「自分の祈りがあまりに弱くて効果がないのだろう」と結論づけてしまいます。

しかし、私たちの祈りは確かに「人間の弱い祈り」ですが、それはイエスの血潮の力によって充分に効果があるものであり、神の御こころと一致した祈りなので、神のもとに届いていくのです。

自分の祈りが弱くて効果的でないと感じてしまうとき、私たちはどのようにしてマリヤのような信仰を持つことができるのでしょうか? 祈りの効果は、目に見える祈りの結果や、祈った時の感情的高揚の有無で測るのではなく、神が御ことばの中で何と言っておられるかで測らねばなりません。

イエスは「誰でも願い続けるならば受け取る、誰でも探し続けるならば見つける」と宣言しておられます。(マタイ7:7−8)

私たちのすべての祈りは聞かれています。私たちが祈りを捧げたときに何も感じなくてもです。祈ったときにどういう感じがしたとかではなく、その祈りがどれほど神の御こころと御ことばとに一致しているかで判断してください。愛する皆さん、私たちのか弱い祈りは、自分を感動させはしないかもしれませんが、神の心は動かすのです。

 

使徒ヨハネは私たちが祈ったときの感じ方に関係なく、「祈りは聞かれている」と確信してもよいと強調しています。第一ヨハネ5:14で彼は「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」と言っています。

 

神は私たちの日毎の行動を、私たちが肉の思いで評価するのとは全く違う方法で評価されます。キリストにある私たちの人生の豊かな栄光は、私たち自身の目や今の時代の人々の目からは隠されているのです。しかし神の栄光やマリヤへの約束の成就は、イエスが再臨される時に共にすべてはっきりと表されます。

 

コロサイ3:3−4には「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」と書かれています。

ここで難しいのは、往々にして、私たちが自分の人生の中に神の栄光を見ることができないことです。神の栄光は、私たちの感情や五感からは隠されているので、私たちはそれを感じたり認めたりできないのです。私たちは自分の人生を、小さくてか弱く、退屈でつまらないものとして見てしまうのですが、イエスは栄光の富というレンズを通して私たちの人生を見てくださるのです。

 

主は私たちには見えないものを見られます。私たちの祈りに関してもそうです。私たちの多くの「小さな従順な行動(祈りも含む)」は神の目には栄光に富んでいるのです。自分の「か弱い祈りの価値」を理解することによって、私たちは自分の祈りを「意味があり適切で力があるもの」として見る力が与えられます。肉の目では弱いものに見えるかもしれませんが、神のみこころに沿ったすべての祈りは、神にとっては大切であり重要であることを私たちは信仰で確信しなければなりません。

神がマリヤを導き用いられた方法は、神の完全なリーダーシップを表しています。神の約束の成就はしばしば遅延し、苦難の中で一歩づつ徐々にゆっくり実現していきます。そのゆっくりしたプロセスの中で、私たちは主にしがみつき、愛と信仰とへりくだりにおいて成長させられていくのです。

 

主のパートナーとなることの大切さ

 

たとえ歴史を変えるような事のために神に用いられたとしても、その人が愛において成長するとは限りません。神はマリヤを召し彼女がもっと偉大な愛に成長するための旅路につかせたのです。

神は敵意に満ちた世の中でご自分の御こころと目的を明らかにされ、敵を用いて神の民(私たち)が愛とへりくだりを学び、神とのパートナーシップにおいて成熟していくようにされたのです。神は、どのような事があっても常にあきらめることなく「はい」と応答し信頼する者たちとパートナーになることを望んでおられます。

 

マリヤのように私たちも神の約束に同意し一致し、困難な状況にあっても神の導きを信頼する必要があります。たとえ遅延や不幸な出来事がおきたときでも神の約束は真実です。主はそれらを私たちの益になるように用いられるのです。(ローマ8:28)

私たち達が約束をしっかり握りしめて困難な中でも神を信頼して喜ぶことを選びとるならば、神は恵みを与えてくださり、喜びをもって忍耐し、愛に成長する力を与えてくださいます。私たちが主の召しに喜んで応答するならば、神はそれに答えてありあまるほどの恵みを与えてくださるのです。(終り)


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