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Walk With God Ministries

13 8月

主の前に立つ者 リック・ジョイナー 2019年8月13日


主の前に立つ者

 

リック・ジョイナー

 

 

 

今、キリストのからだで、預言のミニストリーがもっと発展していく必要があります。現状のままでは問題が多いのです。

エレミヤ23:18に「いったいだれが、主の会議に連なり(who has stood in the council of the Lord)主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。」とあります。

この章は、主が語られてもいないことを主の預言として語る者が多くいることを警告しています。現在も単なる「お世辞」にすぎないものを「主からの預言」として語っている者が多いのです。聖書には、お世辞や人を持ち上げることがいいとはどこにも書いてありません。

 

エレミヤの時代、ほとんどの場合エレミヤに同意する者はなく、彼は孤立して一人で立たねばなりませんでした。他の預言者たちとは反対のことをエレミヤは預言しました。これはエレミヤに限らず、聖書に書かれている預言者に共通のことであると思います。私たちは「人々が聞きたいこと」を語っているのでしょうか、それとも「本当に主の会議に連なってそこで聞いた主の言葉」を語っているのでしょうか?

 

ヨハネ7:18「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」

 

この「栄光」ということばは「recognition人から認められる」と言ってもいい言葉です。自分の思い、考えから話す者は、通常、自分が人々から認められたいから話すのです。どうして私たちは預言を語るのでしょうか?

新約聖書には預言者よりも使徒の方がずっと多く現われている事実を私たちは知るべきです。実際、預言者は非常に稀でした。それは今日も変らないと思います。勿論「預言的な賜物」を持っている人は沢山いますが、その人が預言者というわけではありません。クリスチャンならば誰でも神の言葉を聞くべきです。クリスチャンならば誰でも預言的啓示を与えられるはずです。しかし、そうだからといってその人が預言者であるわけではないのです。今日預言のミニストリーを混乱させているものがあります。真に主の言葉が語られるために、私たちは混乱を無くしてゆく必要があります。

 

18節の後半には「しかし、自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」とあります。私たちが「真の預言者」について理解するならば、「私は預言者になりたい」と願うことなど、気が狂った人がすることです。もしあなたが真の預言者ならば、人々から称賛されることなどほとんどありません。かえってすべての人があなたに対していつも腹を立てることでしょう。あなたが死んでしまい最早脅威でなくなるまで、誰もあなたを預言者とは認めないでしょう。あなたは「にせ預言者」等と悪口を言われますが、それは「真の預言者」にはつきものなのです。これは自分が認めてもらうためや栄誉のために求める職ではありません。それでも進んで預言者になる人はいるでしょうか?

 

キリストのからだは、からだ全体として、自分の国に対する預言者となるように召されています。この国に対する預言の言葉はどこにあるのでしょうか?

この10年間でアメリカに起こっているおぞましい腐敗を知っていますか?

もうかつてのアメリカの姿ではなくなっています。イザヤ5章20節に「ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦(にが)みを甘み、甘みを苦みとしている。」とありますが、これがまさに今のアメリカです。「尊ぶべきことに恥辱を与え、恥ずべきことを尊んでいる」というのがアメリカの現状です。

 

それでは今どこに「預言的な声」が聞かれるのでしょうか? 今起こっていることに対する怒りの声はどこにあるのでしょうか?今幼稚園で性的倒錯が教えられているのを知っていますか?

国全体に倒錯が無理矢理押しつけられています。ロシアのプーチンがG20でしたスピーチはYoutubeからすぐに消されてしまいましたが、彼の言ったことは非常に正しいことでした。彼は西洋を叱責したのです。彼はまるで旧約聖書の預言者のようでした。「皆さんは混乱してしまって、どちらのトイレに入ればいいのかも分からなくなっている。」と彼は指摘しました。本当にアメリカやヨーロッパの現状は「気が違いっている」のを通り越しています。そしてそれは教会の中にまで侵入しています。それはこの国で起こっていることに断固として反対して立ち上がる真の義人、真の預言者が教会にいないからです。羊を守る羊飼いはどこにいるのでしょうか?警報を鳴らす見張り人はどこにいるのでしょうか?

 

預言者エリヤ

 

1列王記17:1「ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。『私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。』」

 

エリヤの言葉を聞いた者はこれまで一人もいませんでした。これは間違いなく非常に大胆な言動です。勿論、皆が彼は気が違いっていると思いました。しかし彼はその時、イスラエルの国でもっとも正気な人だったと思います。それは彼が自分のことを「私が仕えている神 the Lord before whom I stand(私がその前に立つ神)」と言っているからです。彼は自分の人生を人の前ではなく神の前で生きていたのです。彼はアハブに「あなたはただの人間、ただの王に過ぎません。私は主の前に立つ者、主の前で生きているものです。」と言ったのです。私はこれが本物の預言のミニストリーの土台だと思います。

 

イエスの優しさと厳しさ

 

マタイ16:23「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『さがれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(for you are not setting your mind on God’s interests but man’s.)』」

 

主から「サタン」と呼ばれたらどうでしょうか?

ちょっと厳しいですね。私たちはイエスに対してとても歪んで間違ったイメージを持っていると思います。多くのクリスチャンが「自分の姿をもとにして自分でイメージした神を礼拝している」のであって、本当の神を礼拝してはいません。イエスは12人の無骨な男たちを選びました。12人のドナルド・トランプを弟子に選んだようなものです。人はドランプ大統領が粗野だと言いますが、大統領として彼のように正直な人は今まで長い間現われませんでした。彼は自分の思うこと、信じることをそのまま話します。神は彼のように粗野な人たちを弟子に選ばれるのです。主が十字架につかれる前夜に弟子たちは、だれが一番偉いかと論争をしました。

 

私たちは「イエスは恵みとあわれみに満ちた方である」と思いたいし、実際彼は誰よりもそういう方です。しかし、私たちはそう思いたくないのですが、主は誰よりも厳しい方でもあるのです。パウロはローマ11:22で「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。」と言っています。

この両面を見なければ、私たちは主を見ていることにはなりません。弟子たちは3年半主と過ごしましたが、最後の夜に彼らは主に質問することを恐れました。イエスが「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」と言われたとき、ペテロはヨハネに「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」と頼みました。ペテロは主からサタンと呼ばれたことで主を恐れていたのではないでしょうか。主は厳しく鋭い方でした。C.S.ルイスは「彼は荒々しい獅子のようであった。」と言っています。飼いならされた獅子ではなかったのです。

 

私たちはどなたを礼拝するのでしょうか? 自分が「こういう方であって欲しい」と願う主の姿を礼拝するのでしょうか?

人々は彼らが望むような神のイメージを勝手に作り上げてしまっています。それでは将来的に見て必ず破綻します。主は主であって、それ以外の方ではないからです。主は初め子羊として来られましたが、次は獅子として戻ってこられます。

 

人の歓心を買う

 

パウロはガラテヤ1:10で「もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」と言っています。人の歓心を買おうとする度合いが、主への熱意を鈍らせてしまう度合いになるのです。私たちの言動の動機はどこにあるのでしょうか?

ルカ16:15で主はパリサイ人にむかって「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存知です。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。」と言われました。私たちはつい人を喜ばせる事を言ってしまうのですが、それは何と「神の前で憎まれ、きらわれる」ことであるのです。私たちは誰を喜ばせるのか、「神なのか、人なのか」をはっきり決断せねばなりません。

 

ルカ6:26「みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。」

 

ヤコブ4:4「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」

 

「世の友」とならねばならないという圧力が日々強まっています。世に合わせて、世から好かれ、世から尊敬されることを求めるとき、私たちは自分を神の敵としているのです。私たちは何を「よし」とするのでしょうか。どのようなことに目をつぶって許容してしまっているのでしょうか?

今起こっていることに対して抗議の叫びがどこにあるのでしょうか?

 

自分に心地よいことだけを聞く人びと

 

2テモテ4:3−4「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分のつごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」

 

今教会で教えられているひどい教義を知っていますか? 恵みの濫用が起こっています。

多くのクリスチャンがそれに追随しています。クリスチャンが、心地よいことだけに耳を傾けるようにと、サタンが働いているのだと思います。それ意外のものは受けつけられないのです。

チャレンジを与える厳しいメッセージや自分の考えとは異なるものは受け付けられない精神性が、何世代かに渡って蔓延するようにされてきたのです。今の学校では子供たちは「教育」されるのではなく「考えを押しつけられている」のです。今の若者ほど惑わされている世代はありません。

 

人々は私にむかって「あなたの言っていることは、今の若者(ミレニアル)にとって、どれほど腹立たしいことかお分かりでしょうか?」と言います。私は「ありがとうございます。とても励まされました。」と答えます。もし彼らが私の言葉を喜んでいるならば、私は真理を語っていないことになります。私はミレニアルに向かっても、又他のどのグループに対しても語っているのではありません。ただ主の言われることに従順に従って語っているのです。耳を傾ける人は聞くでしょう。主の言葉は空しく帰ることはないのです。私はこのミニストリー(モーニングスター)がどうなるかも考慮には入れていません。ただ主に従っているのです。ただ主の言われることを聞いて従いたいのです。(続く)


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