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26 11月

2018年秋の日本訪問を終えて(3)          坂  達 也   2018年11月25日


2018年秋の日本訪問を終えて(3)

 

         坂  達 也

 

 

霊の目が見え、霊の耳が聞こえるようになる訓練

 

 エペソ人への手紙1:18に「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって・・・」と書かれていますが、それがどういう意味かお分かりでしょうか。喩えるならば、あなたが誰か高貴な人を後ろの座席にお乗せして車を運転しているとします。その時あなたは後ろは見えなくても、そこにその方がいることを実にリアルに感じるはずです。その方がイエス様であれば尚更です。これは「あなたが主の臨在を心の目で見ているから」と言えないでしょうか。そうであれば「心の目で見る」こととは、そんなに難しいことではないはずです。

 しかし主は「・・・彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイ13:13)と嘆かれました。その後に続いて「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見ているが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。」と主は叱責され、イザヤ6:9の預言が成就したと言われました。この叱責は私たち多くのクリスチャンに対して当てはまります。

 これからしても先週の報告(2)の冒頭で私が述べたように、人間がこの世に生まれた目的を果たすためには私たちの霊の目と霊の耳を訓練することがまず最低限必要であることが分かります。そして、多くのクリスチャンは分かってはいても、いつまでたってもそれができないのです。「でも私は聖書を既に何度も読んだのになぜできないのか」と言われるかも知れません。その理由は、聖書を只読むだけでは単に頭の知識として知っているだけで「絵に描いた餅」に過ぎず、実際に訓練しなければ「霊の目、霊の耳」は出来てこないのです。

 それではどうすればよいのでしょうか。それは全ての技術習得に通じますが、訓練です。そこで私は今回の旅行でその訓練の方法の一例として私自身の経験をお分かちしました。

 

霊的な意識と感覚を磨ぐ訓練

 

1)先ず第一に「私はどうしても主の御声を聞きたい、御姿を見たい」と日夜願い、主にしつこく嘆願することから始めなければなりません。断食祈祷もよいでしょう。問題は「やる気」と「決意」です。それには持続する情熱が必要です。

 

2)次にどこに行くにも必ずノートと筆記用具を携帯する。特に、寝る前にベッドの横にノートを用意しておくことから始めてください。その理由は、人間は自分の意思とは無関係に夢を見ますが、時に神は夢とか幻で私たちに伝えたい「メッセージ」を見せてくれます。しかし問題は、多くの場合朝起きた時、肝心の夢の内容を忘れてしまうーそんな経験をしたことがありませんか。従って、ノートを用意し「主よ、その時は必ず起こしてください。」と日頃お願いしていれば、主は起こしてくださり、書き留めることができるようになります。これは「意識の訓練」と言えますが、大切なことは、書き取った主からのメッセージを何度も見直すこと、そして、必ず実行に移すことです。

 

3)主は多くの場合、不意に全く予期していないときに語られます。しかし、それが本当に「主からだ!」と気づくためには、いつも主への意識と期待を持っていなければなりません。私にとっては、これこそが「常に主と共に歩む」ための最も重要な訓練であると思っています。そして主が語られたことを、出来るだけ早くノートに書き付けます。私はこのために今回日本でポケットに入る小さなノートブックを追加で入手しそれ一杯に走り書きしました。ある時は紙が無くて咄嗟に近くにあった買い物の包み紙の上に書きました。大事なことは、それらのノートを時間ができた時に、毎日付ける日記に書き写し、時折、見返すことです。

 特に、礼拝で説教を聞いているとき、あるいは人の話を聞いている最中に、主がその話している人を通して「あなたへのメッセージ」を語って下さいます。これはその場に聖霊が溢れているような時によく起こります。

 くどいようですが、なぜノートを取る必要があるのでしょうか。それは、そうすることによって私たちが誠心誠意主のお話を一つでも聞き漏らさないという「決意・決行の態度」を主が大変喜ばれるからです。そうすると主は常に私たちと歩きながら、どんどん語ってくれるようになります。

 私はこの方法をリック・ジョイナー師から学びました。彼はそうすることによって段々に主から預言をいただけるようになった言われます。

 勿論、私が今ご紹介した方法は、むしろ補助的な意味で申し上げたのであって、要は、いつも栄光の主を心で見上げ、意識して「絶えず賛美し、祈る」ことにあることは言うまでもありません。そしてその目的が、主との絶え間ない個人的なコミュニケーションを持つことを助長する「主と共に歩む」訓練であるからです。

マタイ6章にある「主の祈り」を祈る大切さ

 

 今回、私が日本で語らせていただいたメッセージの一つに「主の祈り」の大切さがあります。そこで重要なことは、当時の使徒たちが、他のことはともかく、敢えて主に「祈り方」を教えて欲しいと願い出たことです。皆さんなら何を主に教授して欲しいとお願いするでしょうか。「あらゆる病気の癒し方」「悪霊追い出し」や「死人を蘇らす方法」あるいは「風とか湖水を静めること(自然に向かって命令すること)」でしょうか。主イエスはこれらを全て弟子の見ている前でなさいました。弟子はそれ等が全て信仰さえあれば可能であることを実習訓練を通して学び納得していたのです。その上で何をどうしても主から学びたかったのでしょうかーーそれは「主の祈り方とその態度」であったと思います。主は人里離れた場所で一人になり、天の父と向き合うその真剣で熱烈・真摯な主の姿を見ていたからです。

 

 主の祈りとは元々マタイ6:6にあるように「祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。・・そうすれば報いてくださいます。」と主が言われる祈りです。ところが多くの教会では、毎週日曜日の礼拝時に全員で声を出して祈リます。残念なことに、それは形式的、宗教的な虚ろの祈りになってしまっていないでしょうか。

 むしろ主の祈りとは本来、私たち神の子と御父との深い絆の関係、すなわち真のコイノニアの祈りであり、完全な霊の祈りであると思います。

 

 そこで主が教えてくださった祈りを見てみましょう。ここで一つ重要なことは、これは主が祈れと言われた祈りですから、この祈りを正しく信仰で祈れば間違いなく聞かれるはずであることです。ですから主は今回最初に私が訪ねた教会に行く前に「主の祈り」を「こんなうまい話はない。」と前置きして語りなさいと、おっしゃいました。しかしその意味するところが、実はとても深いことが段々と示され、旅の終わりには予想もしなかった究極の真理を教えられました。

 

 6:9「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますようよ。」ーーこれは親密な父と子の間にだけある深い愛の告白、それは私たちが持つ御父への心からの敬慕と栄光を讃える祈りであると思います。ビル・ジョンソン師は、父とそのような関係に入るには、父との間に「継ぎ目のないつながり seamless connection」を築くことであると言い、その例としてヨハネ15章で主が例えられた「ぶどうの木と枝の関係」を挙げています。私たちと主がいつもつながっていれば、何もしないでもそれだけで多くの実を結ぶ、同時に主は「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と言われたことは本当に心すべきです。

 

 6:10「御国がきますように。御心が天で行われるように地でも行われますように。」ーー私たちがこの祈りを祈れば、天に行かなくとも、その前にこの世が天のようになり、すべて御心が行われるようになるのですから、こんな素晴らしい話はありません。しかし、私は思わされました。ーこの祈りを私たちに教えられた主イエスは、ゲッセマネで弟子たちが見ている前で「わが父よ。できますならば、この盃をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈られたことを。(マタイ26:39)そうであるなら、私たちもこの祈りを祈る時、この地で私たちの願いが実現するために祈るのではなく、すべてのことが主の御心でなされることを願う祈りとして祈るべきではないでしょうか。キリスト者である私たちは、主と共に十字架について死に、主と共によみがえって、今は一心同体で生きているのですから。

 

 6:11「私たちの日毎の糧をきょうもお与えください。」ーー6:8で「父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」と書かれていますから、私たちに日毎必要な肉の糧はすべて必ず与えられます。しかし10節の祈りと同じく、私たちが望むものではなく、すべて神が与えて下さるもので満足すると決意して祈ることが重要なポイントですし、その祈りが神に栄光を与えるだけでなく、私たちにとっても究極的に最高の結果を得ることになることであることを思わされました。

 

 6:12「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」ーー主イエスはすべての人間の罪(負いめ)を赦すために死なれました。そうであれば私たちが、主に忠実に従う弟子であり、また永遠に主の花嫁として一心同体となるのであれば尚更のこと、単に私たちに負いめのある人だけを赦すのではなく、一見負めのないすべての他人の罪をも、主が赦されたと同じように赦すべきではないのでしょうか。そのことがマタイ6:14、15に書いてあります。

 そうであるなら一番赦せないのが夫婦となった相手であり、加えて一番親しいはずの肉の兄弟姉妹とか、家族の間での不和話が絶えないのがこの世の現実であるというのはどうしてでしようか。神がこの世を造り、最初の人間に罪を犯させた上で、そんな罪だらけのこの世に人を生まれさせて苦労させることに目的があるのではないでしょうか。

 人間を男と、そして男の一部から女を造り、その一対の男女から子供が生まれ、それが家族となって子孫を残すようにされたことには、本当に深い意味があると思いませんか。この「夫婦関係」はこの世だけのもので天に戻れば解消されます。これからしても私が先週書いた報告(2)の冒頭で述べたように、「天で霊と魂で生まれた人間に、創造主の神は霊的成熟を目的として一時的にこの世に生まれさせ、苦労をさせて霊的訓練するのがこの世で生きる目的である」と申し上げたことが事実であると思いませんか。

 

6:13「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」ーー

「私たちを試みに会わせないで」という意味は、私たちが耐えられないような試練には会わせないように」という意味です。そのことは1コリント10:13に書かれていますが、私たちに霊的訓練をさせることの目的がヤコブ書1:2−4、12に次のように書かれています。

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つかけたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。・・・試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」

 

 上記のみ言葉は前にも書きましたが、エノクを思い起こさせます。エノクは主にあっていつも喜んでいました。それで彼は死を経験することなく、天に挙げられたのです。それによってエノクは「主とともに歩んだ」人と書かれています。

 ご参考までに、「私たちが主に喜ばれるクリスチャンになるとは、どのような人間になるのか」について使徒パウロが次のように言っています。「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ロマ書14:7、8)

 そのようなクリスチャンになれば、勿論主は必ずいかなる悪魔の攻撃からも守って下さることは言うまでもありません。しかし主は私たち自身が主の御名で悪魔勢に勝利することを望んでおられます。なぜなら主イエスが既に勝っておられるからです。

 

 これで今回の日本旅行の報告を一応終らせていただきます。今回は各地で心から主に飢え渇いておられる方々がお集まりいただき、どの集会にも真ん中に立って喜んでおられる主のご臨在を強く感じましたことは、私たち夫婦にとってこの上ない励ましとなりました。その集会でいただいた油注ぎと、多くのWWGMの皆様のお祈りが相まって、来日前に患った私の軽い脳梗塞の症候が旅の終わりには全くと言ってよいほど無くなり、元気回復しました。最後にそのことをお伝えすると共に、主にあって心から厚く御礼申し上げます。

 リバイバルの兆しは日に日に増して来ています。主がそのための備えとして発せられた「大宣教命令」に今、呼応する選ばれた精鋭が続々と起こされつつあることを今回日本でも目の当たりに見させていただき、心からお喜び申し上げます。(終わり)


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