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Walk With God Ministries

14 8月

二つの椅子     坂 達也        2018年8月14日


二 つ の 椅 子

                   坂  達 也

 

 

 私は最近両目が急に見ずらくなりました。実は4−5年前に医師から白内障の手術を受ける時が来たと言われていましたが、恐らく信仰で少し癒されてよくなっていたものが急に元の悪い状態以下に悪くなったと思われ、その手術を行いました。そしてその後、立て続けに痛風(左足親指付け根が痛み出す)から帯状疱疹(背中左側から左腕手首まで)に発展しました。どちらも主な原因がストレスにあり、いずれ過激な仕事をしていた若い頃やったものの再発です。そして未だ疱疹が治り切らない前に、突然急性一過性脳虚血と思われる発作が起き(これは脳梗塞の初期に起こる症状)急患で二日間入院してMRI検査等の結果でそれが分かりました。今は自宅で静養中ですが、更に精密検査を受けております。ということで現在は身体全体が弱っておりますが、少しずつ良くなっており、やっとコンピューターの前で作文ができるように回復しましたので、これを書かせていただいております。

 就きましては、最近たまたま私たちのミニストリーが始まった頃に季刊誌として書いていた「マウンテンパークだより」2001年秋号に私が書いた文章に目が止まりましたので、それを下記の通りご紹介させていただきます。

 

 

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 私もクリスチャンになってからいつの間にか30年近く経ちました。しかし何年経ってもいつもハッとすることが一つあります。それは今の自分は信仰で生きているのかどうかという反省です。少々大げさに言えば、クリスチャンは常に一つの意思決定を迫られていると言えます。それは一瞬一瞬、自分の身分証明を要求されているようなものではないでしょうか。

 フランシス・シェフアー師の表現を借りれば、クリスチャンは常に二つの椅子のどちらかに座って生きていると言います。一つは信仰の椅子、もう一つは不信仰の椅子、すなわち古い肉のままの自分で生きている椅子、そのどちらかに座って生きています。そして一日何回椅子を変えようと、いつもどちらかの椅子に座っていて、中間とか両方の椅子のどちらかの椅子に同時に座っていることはあり得ないというのです。

 クリスチャンになった後も、私は長い間不信仰の椅子にどっかり座ったままで、一生懸命信仰で生きようとして来ました。別の言い方をすれば、古い自分をよくしようと努力していました。古い自分(自己中心の魂の部分)を懸命に殺そうともしていました。しかしパウロはこれは全く無駄なことであると言います。私は長い間のこの無駄な努力を重ねた結果、最近やっとその間違いが実感として分かって来たのです。

 クリスチャンの内には、死んだ筈ですが実はピンピン生きている「古い自分」と、生まれ変わった「全く新しい自分」という二人の人間が共存しています。信仰で生きるには、古い自分は無視して(臭いものには蓋をして)新しい主と共にボーンアゲインした自分で生きる(主と共に、というより主ご自身が生きてくださる)ーつまり椅子を変えるしかないということです。

 

 シェファー師は「不信仰の椅子に座ったままでクリスチャン生活を送ろうとすると、たとえどんなに大きな声で賛美をし、どんなに熱心に宣教活動しても、それはほとんど全て(主の御心ではなく)自分で考えた肉と魂の行いでしかない。そこでは自分が宇宙の中心に置かれていることに変わりはなく、その人のクリスチャンライフの全てが遊戯であり、その人がどんなに戦うふりをしても、その人は所詮「おもちゃの兵隊」でしかない、なぜなら霊の戦いは肉では闘えないので全く役に立たない兵隊であるからだ、と言っています。付け加えるならば、そういう人は、自分の論理から出た「頭のクリスチャン」でしかないと厳しく決めつけています。そして、「信仰から出ていないことはみな罪です。」(ロマ書14:23後半)を強調しています。「信仰がなくては神に喜ばれることはできない。」(ヘブル11:6)どころか、「信仰から出ていないことはみな罪」であるならクリスチャンにとってこれは大変なことではないでしょうか。

 

 最近久し振りにシェファー師の「True Spirituality] を読見返して見て、もう一度上記の信仰のあり方の秘訣を学んだことは大変有益でした。

 今朝も起きて直ぐ、自分は今信仰の椅子に座ることをはっきり決意したところ、いつものように早朝の「主を見上げて待つ」祈りに入るやいなや、主のすばらしい御臨在の中に飛び込んで行くことができ、喜びが溢れ始めました。又、日中車を運転していたときでしたが、はっと思い出して信仰の椅子に坐り直す意識を持った途端に、喜びと主への賛美が心の内に迸り出ました。ハレルヤ。

 

 ところで「信仰で生きる」とはどういうことでしょうか。簡単に言えば、「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・」(ガラテヤ2:20)を信仰で生きることです。少し難しくいえば、「自分のなるべき姿、約束されている身分と責任を今現実のものとして生きるということではないでしょうか。

 

 古い自分ではなく、新しく主と共に蘇った私たちは、神の神殿であり、神の御霊が中におられ、イエスキリストの全権大使としての権威と力を備えた神の世継ぎの一人であるという大変な身分なのですね。しかも神が自分の中に住んでおられるだけでなく、自分もキリストの中に住む、つまり父の右座にキリストと共に位置するという既に今、神の家族の一員であるという、これが私たちクリスチャンの身分証明書であることを、そしてその特権と責任を帯びた人間であることを忘れてはならないと思います。

 ということで皆さまも、この辺りでぜひ一度ご自分の信仰の生き方をチェックされることをお勧め致します。 【以上で2001年文章を終わります】

 

 

私に今起こっていることの意味

 

 上記に書いた文章に照らし合わせて、私の身体に今起こっていることが何を意味するかは明らかです。そしてこの現実が神からの厳粛かつ重要なメッセージを意味することに気付き、心から反省するに至りました。

 実は上記の文章を書いた2年後の2003年春に、私は最初の拙本「主を見つめて待つー霊に目覚め・神の声を聞く方法」の初版を出版しました。この本をお読みいただいた方なら、この「主を見つめて待つ」が上記の文章「二つの椅子」の内容に基づいたテーマを中心として書かれていることにお気付きになられると思います。そうであるとすれば、明らかに私は、自分自身の書いた「クリスチャンの目標」に沿った「信仰の椅子に座った生き方」が15年後の今、出来ていないが故に、疲れ果てた瀕死の病人になったことにお気付きになるはずです。すなわち、正直に申し上げて、私自身が提唱しながら、その生き方がいかに難しいか、私自身が見事な失敗の見本でもあることが一目瞭然です。それを主から今回気付かされ、身を低くし自分の至らなさを悔い改めております。お赦しください。

 

 しかしその主が、私を今回主にあって蘇らせくださる約束を私ははっきりと信仰で受け取りました。

 

 就いては、最近私たち夫婦が送ったお見舞い状に対しご返事をいただいたヘンリー・グルーバー先生からの貴重な励ましをいただいたことを付記させていただきます。その励ましとは下記の4つのみ言葉でした。(但しヘンリー師には私が今このような状態になったことを知らせてはいませんので、ご自身に起こった今回の奇跡的な癒しに対するご自身の見解を書かれたものです。)

 

1ペテロ5:8−11 「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」

 

Ⅲヨハ1:2ー3  「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。」

 

ヘブル11:25 ー27 「罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」

 

ロマ 8:18 ー39「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。・・・そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。・・私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。・・・神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

 

 ヘンリーグルーバー師は、今までに少なくとも3度の死の苦しみに会いましたが、今回主が彼を3度目の奇跡的「蘇り」の経験を下さったと最近のビデオで証しています。

 私たちは1995年に神のご計画によってグルーバーご夫妻と出会い、日本の愛知県におられる安田先生ご夫妻の招きによって泉の森の開所式に参りました。それ以来ヘンリーグルーバー師は毎年2回か3回、この23年間欠かさず日本を訪れて下さった大変な主の器です。私たちは最初の10年間師にお供し、後は森明先生にバトンタッチして現在に至っております。(加えて、沖縄にも別途毎年欠かさず訪問されています。)

 

 グルーバー師の言われていることは、私たちクリスチャンで「主に選ばれた者」とは、主と同じ十字架の苦しみを受けて培われる「霊的訓練」を何度転んでも起き上がり忍耐を持って「死ぬまで」あるいは「主の再臨まで」喜んで走り続ける者の姿ーそれを言えば、上記のみ言葉はみな、キリストの「使徒」たちが綴った「自分の十字架を担いで主の後を追う」実際の姿を血の涙で綴ったものです。

 

 実は「真の救いー永遠の命」とは、それ程尊く価値のあるものであることを、私たち自身が、後から主に従ってついて来る後輩の「求道者」に見せて励まし伝えねばならないと思うのです。それが福音でなくて何でしょうか。

 

 私にとっては、それが2コリント3:18に書かれている「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を帰られて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」 の御言葉の意味するところであると信じます。(終わり)


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