WWGM

Walk With God Ministries

22 1月

預言の召し       ビル・ジョンソン                2018年1月22日


預言の召し

 

ビル・ジョンソン

 

 訳者注:最初にお断りしておきますが、今回のジョンソン師のお話は(師の礼拝時のメッセージです。)今の時代のクリスチャンに最も必要なものであると判断し、特に重要な部分を下線を付けさせていただきましたことをご了承ください。

 

すべてのクリスチャンは、 預言をし、その機能の中で生きるようにと召されています。勿論、預言者の働きに召されていることと、預言的に生活するのとは違いがあります。しかし、もしあなたが神から預言者の働きに召されていても、名刺は作らないでくださいね。バプテスマのヨハネのことをイエスは一番偉大な預言者と言いました。しかしヨハネが「あなたは預言者か」と訊かれたとき、彼は「違います。」と答えました。人びとは今度はイエスの所に行き「ヨハネがその預言者か」と訊くと、イエスはそうだと答えられました。これは面白いですね。歴史上最高の預言者が自分の肩書きを知らずに、ただ神から与えられてた任務を果たしていたのです。どのような肩書きで呼ばれるかよりも、あなたがどのように働くのか、どのように機能するのかの方がより重要です。ヨハネは「私は荒野で呼ばわる声だ」と言いました。肩書きが悪いわけではありませんが、あまり重要なことではありませんね。

 

民数記11:24「ここでモーセは出て行って、主のことばを民に告げた。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。一人の名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊が留まった。—彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった。—彼らは宿営の中で恍惚状態で預言した。」

 

私はこの箇所がとても好きです。私たちが契約によって他の人びとと繋がっているとき、彼らが受け取るものを私たちも受けることが分かるからです。ある種の相続は個人にではなく家族に与えられるのです。70人の長老は幕屋の回りにいましたが、2人の長老はなんらかの理由で、宿営に留まっていました。神の霊が70人の上に下り、彼らは預言し始めましたが、それと同時に宿営の2人も同じ霊の油注ぎを受けて預言したのです。

 

どのようにそれが起こるのかを私は知りませんが、すばらしいことだと思います。あなたがある人と関係を結んでいるならば、その人に打ち破りが起こると、それはあなたのものでもあるのです。

トム・ジョーンズ師は、数年前にブラジルで主とものすごい出会いをしました。それは何時間にも及ぶもので、聖書に書かれている出来事のようなレベルのものでした。彼の人生はその出会いによって全く変えられました。そして彼は全く知らなかったのですが、丁度同じ時に彼の奥さんはフロリダの高速道路を運転していて、その時主とのものすごい出会いが起り、運転を続けることができず、車を道の横に止めねばならないくらいでした。何が起こったのでしょうか。これは人との繋がっている恩恵であり目的です。私たちは人との繋がりから退いて人間関係を結ばないという自由は与えられていないのです。ベテルの学校の学生たちの夫や妻は、毎日学生がクラスルームで受けとる分与を同じように受けるのです。

 

28節「若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。『わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。』しかしモーセは彼に言った。『あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればいいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。』」

 

旧約聖書では、ほとんどの場合、聖霊が下った者は誰でも主のことば、預言を語りました。即ち、聖霊に満たされたというしるしは、預言を語ることだったのです。パウロが聖霊の賜物について語ったとき「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」と言ったのは、これが理由だと思います。皆さんは「預言」と聞くと、集会中に行われるものだと考えると思いますが、それは預言の働きの5%くらいです。預言とは私たちの生き方、機能の仕方、考え方、見方、コミュニケーションだと思います。それは「主が言われます」という言葉で始まったり終ったりする必要は全くないのです。それはある状況の中で、時に適った言葉を語ることであり、それが主からのものであるならば、人びとの人生に実を結び、彼らは主に栄光を帰すことでしょう。言葉は「宗教的」に発せられる必要はないのです。主の言葉が発せられたとき、それは霊的空気を変えます。世界はそのような人たちを必死に求めています。

 

今、世界では宗教の霊(religious spirit)と政治の霊(political spirit)がはびこっていて、それによって神のことばは薄められ、歪められています。ですから正確ではっきりした言葉、力ある言葉が世界の国々、町まちに届けられることを主は願っておられるのです。

 

私たちは毎日、うそ偽りを語られています。もし何かしらのメディアを聞くならば、そこに含まれる偽りを聞くことになります。(フェイク・ニュース)それは意図的な嘘というよりは、「自分の信じるところを是非伝えたい」という気持からのことが多いかもしれません。しかし、その人の視点が間違っていると、すべてをそのレンズを通して見てしまい、結果としては真実な報道は出来ないのです。

何年も前のことですが、あるサタン崇拝者が救われ、牧師が彼を経済的にサポートしました。メディアはそれを聞きつけて、牧師がこの男を用い、「サタン崇拝者を救った牧師」としての名声を保持しようとしているのだと報道したのです。

そして「この元サタン崇拝者は、牧師からの金でゴルフコースが見えるマンションに住み、ゴージャスな車を運転している」と報道しました。これは本当のようですが、全く本当ではありませんでした。牧師が彼にお金を与えたのは、彼が必要としていたカウンセリングのためでした。彼は虐待を受けて育ったので、傷が深かったからです。ゴルフコースを見下ろすマンションというのは、ただのアパートで、ゴルフコースというのは、ミニチュアゴルフでした。車もすごく古いものでした。ですからすべて「本当」でしたが、まったく真実ではなかったのです。

 

「宗教の霊」と「政治の霊」は、共に「疑いの霊」を分与します。疑いの霊は、ある状況を曲げて解釈し、人びとの心に不快感、腹立ちの霊を起こさせます。それは一見預言の霊のように見えますが、じつは偽物です。その霊を受けると、あなたは「このままには放っとけない!どうにかしなくてはならない!何か言わなければならない!」という強い気持を抱きます。しかしその情報のもとが実際は偽りの霊であることが分からないのです。「疑いの霊」は人から人へ分与されて行きます。あなたは間違った情報を聞いて、当然ながら心を揺さぶられます。それが間違った情報だと分からず、その結果、あなたは間違った反応をし、間違った行動をしてしまうのです。(訳者注:今のアメリカはまさにそうです。)

 

レディングの空港に戻ってくると、時々私をののしるクリスチャンに出会います。多分それは、彼らが私に関するインターネットを見たか、人から何かを聞いたからだと思います。彼らの私に関する「確信」は正しいかもしれません。ただ彼らが信じた「情報」が間違っていたのです。彼らの態度から、「私は主のためにこれをしているのだ!」という強い確信があることが分かります。正しい行動だと信じているのです。しかし誰かが偽りを彼らに信じ込ませたのです。

 

預言的で霊的見分けが出来る人たちは「真の預言の油注ぎ」と「疑いをもたらし、自分の意見を通す怒りの霊」とをはっきりと見分けねばなりません。人生の最大のチャレンジの一つは、あなたが愛し仕えている人が持つ怒りと同じ怒りを自分も持ってしまわないようにすることです。それはとても難しいことです。例えば、あなたが貧しい人を一生懸命助けているならば、金持ちに対して腹を立てないでいるのは困難です。もし裕福な人たちへのミニストリーに召されているならば、きちんと働かない人たちに腹を立てないでいるのは困難です。大学生へのミニストリーをしているならば、保守的政治グループに腹を立てないのは困難です。老人にミニストリーをしているならば、若者に腹を立てないのは困難です。インディアンにミニストリーをしているならば、彼らに不正を行ったものたちに腹を立てないでいるのは困難です。

 

私たちの働きの実は、私たちがどれだけ人びとを愛し、折りに適った神のことばを与えることができるかによって決まります。

自分の考えを押しつけたり、自分の益になるからではなく、彼らの益のために100%神から受けたことばを語るのです。そして彼らが持つ怒りを自分は持たないことです。歴史上、私達がどれほどこの国のカルチャーに良い影響を及ぼすことができるかは、私たちが「怒り、立腹」という感情をどれほどコントロールできるかにかかっています。これが真理です。(注:自分に死ぬ必要がある)

 

イザヤ60章は私の人生を変えた大好きな箇所であり、現在の教会のための預言だと思いますが、その一つ前の59章21節は、60章に書かれていることが起こるための舞台を作っています。

 

「『これは、彼らと結ぶわたしの契約である。』と主は仰せられる。『あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしにことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。』と主は仰せられる。」

 

「神の御霊が人びとにくだること」と「神のことばが彼らの口にあること」の密接な関係がここでも言われていることに留意してください。神の御霊が私たちに留まっている証拠は、私たちの口から神のことばが発せられることなのです。イエスは「わたしは父の言われることだけを言う。」と言われ、私たちが話すべきことの基準を示されました。地上を歩かれ人の中で、一番すばらしい独自の考えを持っていた人は、多分イエスだったことでしょう。けれども主は自分自身のことばは何も語られなかったのです。

 

ヨハネの福音書7:18には「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。」とあります。自分から語るとは、御父が語られていることに耳を傾けようとせず、自らのことばを語り、それによって密やかに名を上げようとする行為です。

 

使徒行伝3を見てみましょう。2章の聖霊の大いなる注ぎの後のことです。24、25節に「また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣べました。あなたがたは預言者たちの子孫です。また神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける。』と言って、あなたがたの先祖と結ばれたあの契約の子孫です。」とあります。イザヤ59章はイスラエルに与えられた言葉でしたが、預言的には「贖われた者たち、即ち教会」に対して言われたことばです。そして使徒3:25は明らかに教会へのことばであり「あなたがたは預言者たちの息子、娘です」と明言しているのです。

 

これは「あなたや、あなたの子孫、あなたのすえのすえの口にわたしのことばを置く」という契約の成就です。神が私たちに御霊をくださり、いずれの世代においても地上に神のことばを宣言し解き放つことが出来るようにされたのです。私たちが受け継いでいる相続財産が何なのかを知ることは重要です。まず神が「私たちがどのような身分の者であるか」と言っておられるかを知らねばなりません。自分の「神にあるアイデンティティー」を知るときに、自分の受けている相続財産を用いることができるのです。それは傲慢でもなく、自己中心でもなく、自分に自信があるということでさえありません。神があなたを「預言者の息子、娘である」と言っておられるのです。それによってあなたは「神の御霊を受け」「神のことばを語る」正当な権利があります。この二つは同じことなのです。

 

イエスは肉となったことばであり、神の臨在は神のことばと同じです。神の臨在をあなたが感じる時はいつでもそこに神の声があるのです。そして神の声があるときはそこに臨在があるのです。

 

イザヤ51:12、13「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りをおそれている。」

 

神は私たちが恐れるとき、やさしく慰めてくださる方ですが、この箇所では「わたしが慰めると言っているのだから、あなたには恐れる権利はない!」と厳しく言われています。あまり聞きたくないことばかもしれませんが、時として神はこう言われるのです。

 

もし私が内向的になり「どうしよう、こんなことになって私の人生はどうなるのだろう。」とつぶやき始めるならば、私は恐れで一杯になってしまいます。恐れは時として自己中心の表れです。それは天を引き延ばされた方を見失っていることだからです。その方が「わたしが慰める」と言っておられるのです。私たちが恐れるのは神を見失った証拠です。この箇所で神は私たちの「人に対する恐れ」を取り扱っておられます。「人に対する恐れがなくなるように祈ってください」と頼まれるとき、私はもちろん祈りますが、人への恐れに対処するためには「神を恐れること」を知ることが必要です。両方を一度に恐れることはできません。

 

人を恐れるとき、あなたは「神への恐れ」を「人への恐れ」と取り替えてしまっています。人への恐れを持ってしまったとき、私たちはその罪を告白し、悔い改めねばなりません。それによって人への恐れから解放され自由になるのです。人を恐れることから神を恐れることへの転換は、直ぐにできることです。

 

15節「わたしは、あなたの神、主であって。海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。わたしは、わたしのことばをあなたのくちに置き、わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、『あなたはわたしの民だ。』とシオンに言う。」

 

神はご自分が祝福した者たちを守る方です。祝福した者が敵に食い尽くされるのを見放す方ではありません。祝福し、守ってくださる方です。主は「わたしがあなたの口にわたしのことばを置いた、わたしの手の陰であなたをかばう」と言われます。そしてそれを通して「天を引き延べ、地の基を定める」と言われます。これは「天にあるごとく地にもなさせたまえ」という祈りの旧約聖書版です。神は「天を地にもたらすプロセス」とそのための手段を語っておられるのです。一つの世界(天)にある現実をもう一つの世界(地)にもたらす方法であり道具です。それは即ち「わたしがあなたの口にわたしのことばを置いた」とあるように私たちが神のことばを宣言することに他なりません。

 

モーセは「すべての民が預言者ならよいのに」と祈りました。イエスは、預言者や霊の父祖たちは私たちが見ているものを見たいと切に望んだと言われました。モーセはあなたや私が生きている今という時代、神のすべての民が預言的な油を持つ時代を夢見ていたのです。私たちの預言は第一に自己中心であってはならず、次に人を暴いたり痛めたりするものであってはなりません。それは人のデスティニーを呼び出すためのものです。主を知らない人であっても、私たちの口を通して神がその人の中にある尊い金塊を呼び起こし、その人の人生が変えられてきたことを、私たちはこの数年間に幾度となく見てきました。彼らはそれまで聞かされていた偽りではなく、神の真実のことばを受け取って、方向転換ができたのです。今ここにいる皆さんすべてに対して、神は力強い、ポジティブな正しいことを宣言されています。私たちがそれを聞き、しっかり受け止めたとき、私たちは変ることができるのです。主は私たちが主の御声を聞くようにと召してくださっています。今は「神の声を聞くこと」ほど嘲られていることはありません。しかし私たちは神の御声を聞きながら、それに従って生活するという預言的な生き方ができるのです。それははっきりした大きな御声とか、壁に字があらわれたというものではないかもしれません。しかし、神の臨在、御霊の臨在の中で生きるライフスタイルを始めるとき、あなたは主の思いを思い、主のことばを語り始めるのです。それは頑張って一生懸命に神の御声を聞くというのではありません。実際、私は頑張ると何も聞くことができません。神を聞くことは努力からではなく、降伏することからくるのです。あなたが自分の決意と努力で(即ち肉で)求めるのに疲れたときに、神は語ってくださいます。

 

 

エペソ4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」

ここにある「恵み grace」とは神の特別の厚意です。あなたが誰かを励まそうとして口から出したことばを神が承認されるとき、神はその人に恵み、特別の厚意をそそそがれるというのです。

仕事関係の人、或いは近所の人に、何か励ましのことばを語ったり、神がその人の人生にしておられることを告げたり、その人のすぐれた才能を認めたりするとします。そのようにあなたが人の徳を養うことばを口からを出すならば、神はそこに恵みを置き、厚意を置いてくださるのです。

神は「わたしの息子、娘が、わたしからの励ましをこの人に伝えたのだから、わたしは勿論それをバックアップせねばなりません。」といわれるのです。

 

預言的ライフスタイルとは、常に神の臨在と共に歩み、神の思いを自分の思いにしていくことです。そして人びとの徳を高めることばを口から出す時、神がそのことばのバックアップをしてくださるのです。(終り)


Post a Comment