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Walk With God Ministries

06 11月

「この岩の上に」とは   ランス・ウオルナウ         2017年11月6日


 

「この岩の上に」とは

 

                ランス・ウオルナウ

 

 

マタイ16:18「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」

 

この箇所はイエスのミニストリーにおいて重要なシフトが起こったところです。それまでイエスは弟子たちにご自分がメシアだと知らせませんでした。イスラエルはメシアの訪れを待ち望んでいましたが、戦いに強い王として現れるのを期待していました。しかしイエスはそれとは違う形で現れました。弟子たちが「人々はあなたのことをバプテスマのヨハネとか、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人等と人々は言っている」と言ったとき、イエスは「あなたがたはわたしをだれだといいますか」と問われました。弟子たちの間では、まだイエスが何者かという一致した意見はありませんでした。イエスはご自分が何者かを告げないで、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか?」という質問をされたのです。弟子たちにとっては、少し間の悪い瞬間だったことでしょう。

その時、ペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです。」と答えたのです。それは前から自分の頭で考え出した結論ではなく 、その時突然与えられた天からの啓示でした。

 

イエスが求めておられたのは、「御父が言われていることを聞いて、それを口で言い表すことができる者」でした。天が宣言していることをキャッチして、それを地で宣言する者です。何故ならば教会とは、イエスが何者であるかという啓示が幾つも積み重ねられて建て上げられていくものだからです。その土台となる最初の啓示が「イエスはキリストである」というものでした。

 

その時イエスは「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と喜ばれました。そして「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」と言われました。

 

これはパワフルな、かつ神秘的な箇所です。

カトリック教会は、ペテロが岩であり、教会はペテロを土台(教皇)として建てられると解釈しました。後にプロテスタントが起こり、ペテロという名の意味は「岩」ではなく「石」であり、岩は「イエスはキリスト」という啓示であり、弟子たち一人ひとりが「生ける石」となって岩の土台の上に教会を建てるのだと言いました。これがカトリックとプロテスタントの相違点となっています。

 

イエスは続けて「ハデスの門もそれに打ち勝てません。わたしはあなたに天の御国のかぎをあげます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」と言われました。

 

これは「天においてすでに宣言されていること、即ち天で既に承認されたものを、地上で受け取って宣言すれば、それは地上で実現する」ということです。ペテロは「イエスはキリストである」という天の宣言を受け取り、それを地上で宣言したのです。それと同じようにあなたも天ですでに宣言されたことを受け取り、それを地上で宣言することができるのです。あなたが出来ることは天で神が既に承認したことだけであるのです。天で承認されていないことをしようとしても、御国のドアを鍵で開けることはできません。

 

教会がどのように建て上げられ前進してゆくかがここで説明されています。

「イエスはキリストである」という天の啓示をペテロが受け取り、それが土台の岩となりましたが、教会に関する天からの啓示はそれで終ったのではありませんでした。次の啓示は「異邦人も教会に入れられる」というものでした。ユダヤ人にとって異邦人の救いなど思いもよらないことでしたが、彼らは啓示を受け取った故に天と一致することができたのです。このように教会は啓示から啓示へと建て上げられていくのです。

 

では、啓示は誰が受け取るのでしょうか。聖霊の仕事は教会をアップ・ツー・デイト(最新のもの)にし、天が今語っていることを知らせることです。では天が承認したにもかかわらず、地上でなされていないことがあるでしょうか?

神が天で宣言され教会が次のレベルに進むようにと承認しておられるのに、教会がそれを聞いていないということがあるでしょうか?

 

私たちは「ちゃんと最先端を行っている、神が今しておられることはしっかり把握している。」と言いますが、ほとんどのクリスチャンは神の声を聞いてはいないのです。神が今、地上でしたいことを、天ですでに承認され、地上でそれに同意する者を捜しておられるかもしれません。

それはあなたかもしれません。「信仰は聞くことによる」のですから、聞かねばならないのです。

 

一つの例をお話いたします。2002年に私は「社会に影響を与える7つの山(領域)」について語り始めました。神から7つの山があることを示されたのですが、私に分かっていたのは、「政府」の山だけでした。というのは臨死体験をしたある議員がそれを主から直接教えてもらったのを聞いたからです。するとYWAM 創始者のローレン・カニンガム師が「私が教えて上げます。」と言って、あとの6つ(ビジネス、メディア、芸術と娯楽、教育、家族、宗教)を教えてくれました。彼は1970年代にすでにその啓示を神から受け取っていたのです。

 

今7つの山のメッセージは多くのクリスチャンに知られるようになりました。そして宗教の山だけではなく7つの山すべてをクリスチャンが制覇するというヴィジョンを教会が持つようになったのです。教会はこのように新たな啓示によって前進していきます。イエスがどれほど愛と力と知恵に満ちた方であるかを啓示で示され、新しいムーブメントがこれまで起こってきましたが、それで終りではありません。イエスの啓示は更に続くのです。

 

そして今は「イエスが受け取るべき相続」についての啓示が与えられています。勿論人間のたましいがイエスが受け取られるものですが、それだけではありません。詩編2:8には「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」とあります。又、マタイ28:19のイエスの言葉を見てください。「make disciples of all the nations (すべての国々を弟子にしなさい)」とあります。

 

[訳者注:新改訳「あらゆる国の人々を弟子としなさい」、口語訳「すべての国民を弟子として」共同訳「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とあり、「すべての国に住む一人ひとりを弟子にする」と解釈できますが、英語では「国々を弟子にする」と解釈できます。]

 

そしてマタイ25:32を見ると、「All the nations (すべての国々は)will be gathered before Him. And He will separate them one from another, as a shepherd divides his sheep from the goats.」とあります。これは人々のことでなく国々のことです。イエスは国々の王であり、イエスは国々を相続されるのです。

 

[訳者注:新改訳では「すべての国々の民が、その御前に集められます。」と訳されていますが、 英語はAll the nations(すべての国々)と訳されていて、それは民を指すのではなく、むしろ国を単位として強調し「すべての国々」を指して言っています。]

私たちは「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」と祈るように教えられました。では、神は天の御国をどのくらい地に行ないたいのでしょうか?

あなたの家の面積くらいでしょうか? あなたの家と車と事務所でしょうか?

主は「あなたの教会に」とか「あなたのミニストリーに」とか「あなたの仕事に」とか言っておられません。主は「地に」即ち、国を単位とした「地球全体」に御こころが行われますようにと祈るようにと言っているのです。

 

ではどうしてそれが起こっていないのでしょうか? なぜ「羊の国」や「羊の都市」が現れていないのでしょうか?

それは、人々の中に「国々を弟子にする」という御ことばに対する十分な信仰がないからではないでしょうか。

 

では、天で行われることを地にもたらすための、第一の条件はなんでしょうか。それは「あなたがたのうち二人が、どんな事でも、地上で心を一つにして祈ることです。」(マタイ18:19参照)すなわち、あなたが誰と同意し一致するかがあなたのデスティニーを決めるのです。

あなたが神と同意一致するならば、それは人生に顕れ現実となるのです。あなたが誰と同意するかは、あなたが誰と一緒にいるかより重要です。ペテロはすぐあとに、サタンに同意した故に「さがれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。」とイエスから叱責されました。イエスはペテロと同意せず、ただ御父と一致していたのです。

 

神は今、「イエスが受けるべき相続はなにか」「神はこの地に天をどのくらいもたらしたいか」に関してあなたの考えをレベルアップし、最新のものにすることを望んでおられます。あなたがその新しい啓示を受け取り、あなたの人生に新たな恵みといのちが与えられるようにお祈りいたします。(終り)

 

[あとがきー訳者注:上記の「あなたの考えをレベルアップし・・・」の意味は、私たちはつい物事を人間的なレベルで見て人間的に考えてしまいますが、ここに書かれていることは、人間のレベルとは全く違う神のレベルの話しであるのです。すなわち「イエスはどのようなお方であるか」を考えるとき、18節にあるように「イエスは天においても地においてもいっさいの権威が与えられている」=全知全能の神が持ついっさいの権威と力を持つ方」であり、その後の19節後半で「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」と書かれ、また20節に「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように彼らを教えなさい」書かれているのですから、三位一体の神が総出で「私たちを通して」全力投球で「ことをなす」=「神の御業のレベル」に考え方を引き上げなければならないと思います。そう考えれば、世界の国が「羊の国」と「山羊の国」に分けられる時が来る、その場合の「羊の国」とはほとんどその国の国民全員が「イエスの後を常に追う成熟した『キリストの弟子』」となることを、神はここで真剣に意味して言っておられると考えるべきではないでしょうか。そして、これからの終末最後の時代にこれが本当に実現すると考えるべきです。それが「主の祈り」に書かれていることの意味であると信じます。それほど大きな期待を主は今の私たちクリスチャンに期待しておられるのです。すばらしい時代が間もなくやってくるーその覚悟をお持ちでしょうか。]


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