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10 7月

心の井戸の水を汲む   ペリー・ストーン         2017年7月10日


心の井戸の水を汲む

 

ペリー・ストーン(ペリー・ストーン・ミニストリーズ)

 

ヨハネ4:11「彼女は言った。『先生。あなたは汲むものを持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこからお入れになるのですか。』」

ヨハネ4:23、24「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 

新約の礼拝に関する教えは、イエスによってヤコブの井戸で最初に与えられました。ヤコブは全イスラエル部族の父祖であり、彼はスカルの地で井戸を掘りました。イエスは旅の疲れをおぼえ、この井戸の傍らに腰をおろされました。

 

井戸から水を汲むためには、何か入れ物が必要でした。当時の井戸の上には石の蓋が置かれていました。小動物が夜中に井戸に落ちて死ぬならば、水が汚されるからです。他にも木の葉とか枝が入って井戸の中で腐ることもあります。ですから水を清く保つために蓋がしてあったのです。

このことから示されることがあります。アメリカで「ワーシップ」と呼ばれるものがありますが、実際にはそれはワーシップではないことがあるのです。

まことの「ワーシップ」は、人が心から主を礼拝し、それを口で言い表すものでなければなりません。「私は心の中で主をワーシップしながら、静かにしています。あまり何も言わないし手を上げたりもしませんが、心の中でワーシップしているのです。」と言う人がいます。

 

しかしマタイ12:34に「・・・心に満ちていることを口が話すのです。」と書かれているように、もし神への賛美や礼拝があなたの心にないならば、それを外に表すことはできません。神の臨在や愛が心に、即ちあなたの井戸の中にないならば、それは水のない井戸です。あなたの心の中にあるものが口から言葉を出させるのです。

 

ヨハネ7:37、38でイエスは「だれでも乾いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われました。私たちの中には井戸があり、それは生ける水で満ちているはずです。乾いた人はその水を飲むことができますし、身体が汚れていれば清めることができます。ヨハネ伝では、水は聖霊を表すだけではなく、人の心の奥底の霊から溢れ出るワーシップも表しています。ですからあなたは内なる井戸の水が常に清いように守らねばなりません。

 

あなたの心にあるワーシップは、口に出して表さなければワーシップとはならないのです。教会やクリスチャンテレビを見ると、すばらしい説教やすばらしいワーシップがありますが、会衆はただ座ってそれを聞いて楽しんでいるだけです。手を上げている人もなく、ワーシップしている人もいません。誰かが楽しませてくれるのを見ているだけなのです。それは「ワーシップをする」と言えるかもしれませんが、実はそうではないのです。あなたの口から音が出てこなくては、あなたはワーシップしたことにはなりません。

 

ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)では、カンターと呼ばれる歌い手がいて、聖書を読むときは、ただ読むだけではなく、節をつけて歌います。詩編はダビデや幕屋の歌い手などによって書かれましたが、それは朗読するのではなく、歌うべきものであり、詩編はイスラエルの賛美歌なのです。エペソ5:19には「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」とあります。

 

今ご自分で私の言うとおりにやってみてください。お腹の上の左右のあばら骨がぶつかるところにある横隔膜の下に指を4本縦に少し強く当ててください。そして「ハレルヤ!主を賛美します イエス様ありがとう」と言ってみてください。筋肉はほとんど動かないのが分かると思います。次に同じ言葉で歌ってみてください。横隔膜が動くでしょう。あなたが賛美を単に言うとき、それはただ「習慣的に」言うこともできます。イエスはパリサイ人についてマルコ7:6で「この民は、口先(lips)ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」と言われました。礼拝後に何を食べようかと考えながら、口では主への賛美を言うことができるのです。しかし歌うときにあなたの身体の中心で横隔膜が動き、あなたの中の何かが動き、賛美が心から出てくるのです。

 

残念ながら多くの人は、自分の中にある井戸の蓋をしたままでいます。蓋は動物やゴミ等の井戸水を汚すものが入らないようにするものですが、その井戸から水を汲みたい時は蓋を取り除かねばなりません。水を汲むのを遮っているものを取り払うのです。信じる者の腹の奥から、即ち霊から、生ける水の川が流れると主は言われました。井戸から水を汲むためには、バケツを深く入れて外に水を汲み出さねばなりません。私の霊にあるワーシップはそれを口に出す時に奥深いところから上がってくるのです。

 

会衆が皆大きな声でワーシップをしているとき、霊的空気が変るのを感じると思います。例えば私の周りに50人ほどの兄弟姉妹がいるとします。私一人がワーシップをするならば、一本の川が私から流れ出ます。周りの人たちが一緒にワーシップするならば、その一人ひとりから川が流れ出し、それが集まって非常に大きな川の流れとなります。そしてその賛美は天の御座に立ち上っていきます。エゼキエル47:1−5でエゼキエルは、神殿の敷居の下から流れ出る水の幻を語っています。1千キュピト行くと足首までの深さとなり、更に1千キュピト行くと膝まで、次の1千キュピトで腰に達し、更に1千キュピト行くと水に囲まれて浮かんで泳げるほどになったのです。

 

水かさが足首までの時を「アブラハムの時代」だと私は思います。アブラハムは信仰で約束の地を歩きまわりました。(創世記13:14−17)それから千年後にはダビデ王の時代となりました。ダビデは戦士であり、様々な敵を打ち破り進軍していきました。信仰で歩くだけではなく、戦いに勝利したのです。それからまた千年後は、バプテスマのヨハネがヨルダン川で人々にバプテスマを授けました。洗礼を受ける者は水の中に腰まで入ります。ヨハネは天の御国が近づいたから罪を悔い改めるように語りました。水の清めによる新生です。

 

そして今私たちはエゼキエルが見た「水かさが増し、泳げるほどの水の川」の時代に住んでいるのです。先に進めば進むほど水かさがまして、立っていることができず、泳ぐようになります。今私たちはヨエル2:28の時代、即ち「すべての者に霊が注がれる時」にいます。それはまた、イエスがヨハネ4:23で言われた「霊とまことによって神を礼拝せねばならない時」なのです。サマリヤやエルサレムの山ではなく、私たち一人ひとりが聖霊の宮であり、私たちが行くところ何処にでも神を持ち運ぶことができるのです。しかし私たちの腹の奥にある水を汲み出すためには、賛美を言葉に出すだけではなく、横隔膜を広げて井戸の蓋を取って、歌う必要があります。今の終りの時には「詩と賛美と霊の歌を持って主にむかって心から歌う」ことが非常に大切なのです。

 

このようにワーシップに関する啓示はヤコブの井戸においてなされました。イエスはサマリヤの女に「あなたは知らないで礼拝しています。

 You worship what you do not know.(あなたは知らないものを礼拝しています)」と言われますが、私たちはそうであってはなりません。私たちは神を知り、口先だけではなく霊とまことをもって礼拝しようではありませんか。(終り)


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