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27 3月

天が開かれる時    リック・ジョイナー             2017年3月27日


天が開かれる時

 

リック・ジョイナー

 

 

私たちクリスチャンは普通の目に見える世界にいるよりも霊の世界にいる方が一番自然であるべきです。そのようになるために基本的なことを今日はお話したいと思います。イエスは地上におられたとき「わたし、即ち『神』はどのように生きるか」を示されたのではなく、『私たち普通の人間』がどのように生きるべきか」の見本を示されたのです。この時代が終る時には、すべてのクリスチャンが主のように生きていると私は信じます。「神の栄光が神の民の上の現れる」という預言はそのことを言っていると思います。

 

創世記28章に聖書で初めて「神の家」のことが書かれています。神の家とは建物ではなくて、私たちが神の家、神殿です。神の家がどうあるべきか、ということがこの箇所に書かれています。12節に「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」とあります。神の使いというのはメッセンジャーという言葉で、ここは天使ではなくて私たちクリスチャンのことを言っていると思います。

16節「ヤコブは眠りからさめて『まことに主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった。』と言った。彼は恐れおののいて、また言った。『この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天に門だ。』」

 

神のメッセンジャーとしての私たちの第一の務めは、ヤコブのはしごであるイエスを上り下りすることです。ナタナエルがイエスの知識の言葉に驚嘆した時、イエスは「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(ヨハネ1:51)と言われました。私たちは啓示によりイエスの真の姿が分かり天の領域に上ります。私たちは常に天に上り、天のリアリティーを地に持ち帰るべきなのです。イエスがされたすべての業は、主が御父のされることを見て、それを天から受けて地の上に現したのです。大勢の人を養ったとき、主は地上の必要を天の供給源で満たしたのです。天には欠乏ということはありません。

 

「神の家」は天への門でなければなりません。まず日曜の礼拝でこれを経験し始めたいと思いますが、目標は一週間それを持ち続けることです。行くところのすべてに天を持ち運ぶのです。天は死んでから行くだけのところではありません。天を地にもたらすのが私たちの務めです。

 

地上には数カ所、特別に神に祝福されていて、ヴィジョンや夢を受けやすい天に近い場所があります。ヤコブはこここそ神の家だ、天の門だ、といいました。しかし新約聖書の時代ではそれは場所というだけではなく、私たちのことであり、私たちが天の門となり「開かれた天」を持ち運ぶ者となれます。私たちが行くところはどこででも天を開くことができるのです。

 

聖書には、開かれた天に関する箇所がいくつかあります。

 

エペソ1:3「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」

私たちは天にある祝福を地上に持ち帰るのです。イエスは天の御国の福音を持ってこの地に来られました。私たちも天と地との間の橋を造り始め、またその橋にならねばなりません。

 

エペソ2:5−6「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、、、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」

これはただの教義ではありません。何でもまず頭で理解するのは悪いことではありませんが、私たちはそれを心で信じなければなりません。イエスは私たちが真理によって聖められるようにと祈られました。それは私たちが変えられるということです。教義として頭で信じるのではなく、その真理が私たちの人生のリアリティーにならねばなりません。「イエスと共にすわる」とは、イエスの権威をもって生きるということです。主は私たちをそのように召してくださっているのです。ここにいる皆さんすべてが、イエスのした業、そして更に偉大な業をすることができるのです。私たちは誰でもその人が望むだけ神に近づくことができるのです。

 

創世記28:18−22「翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。そして、その場所をベテルと呼んだ。..それからヤコブは誓願を立てて言った。『神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。』」

 

どうしてここでヤコブは十一献金をすると言っているのでしょうか。十一献金は、開いた天のもとで生きることと密接な関係があるのです。ある人達はそれは律法であり、律法主義だと言いますが、違うのです。アブラハムも行ないました。ヤコブも行ないました。最初の収穫物を神に捧げるのは基本的なことであるのです。それによって与えられる祝福を知れば、十一献金をしないことは馬鹿げています。弁解をする人は「私はすべてを主に捧げています。」というのですが、それはつまり何も捧げないということです。私が知っている人で、経済的に絶えず苦労をしている人は十一献金をしていません。忠実に十一献金をしている人でそのような苦労をしている人を私は知りません。私たちのミニストリーでは十一献金を信じない人をリーダーにはしません。必ずいろいろな問題が起こってくるからです。

 

私自身も非常に経済的に困窮したことがありました。そしてその理由が明らかになりました。その頃、私は十分の一以上献金していると思っていたのですが、よく計算をしてみると、十分の一に足りていなかったのです。主はこのことに関して私を非常に厳しく訓戒されました。「あなたは十一献金を皆に教える立場にいるのだから、わたしは厳しく訓戒するのだ。」と主は言われました。「教師は格別きびしいさばきを受ける」とヤコブ書に書かれています。

 

献金は人間の心が持つ究極的な偶像と関係しています。偶像というのは、ただあなたが愛するものというのではなく、あなたが神以外に信頼するものということです。

特に経済的必要を強く感じるとき、まず神を第一として初穂を神に捧げるならば、私たちは金銭という偶像を断ち切ることができます。金銭は、私たちの資源としてもっとも価値の低いものです。それは確かに価値があり良い資源ではありますが、私たちが求めるべき最後のものです。ルカ16:11「あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。」とあります。ですから十一献金をすることは基本なのです。

 

「十一献金だけすればよい」と考えている人もいますが、私たちは常に「与える者 giver」であることが基本的な聖書の教えです。もし私たちが本当に神の愛を持っているならば、与える者となるのです。「与えねばならない」のではなく「与えることができる」ということです。ですからただ十一献金をするだけではなく、神が与えてくださる「与える機会」を逃さないようにせねばなりません。それによってもっと与えられるためにするのではなく、御国の働きのために蒔く者となるのです。

 

「獣の刻印」が経済と関係しているのには理由があります。終末にはすべての蒔かれた種が実って収穫されます。獣の刻印を受けない人は神のしもべです。刻印を受けない結果、彼らの生活は非常に厳しくなるでしょう。しかしそれは最も祝福された人生となるのです。金銭への愛はすべての悪の始めです。アブラハム、イサク、ヤコブなどの父祖は富があり、立派な家に住むこともできましたが、地上が仮の住まいであることを知っていたので、天幕に住んだのです。彼らは天を知っていたのです。この地での人生は霧のようなものだと知っていたのです。一度天を見た人は、この世の富を得たとき、自分の生活水準(level of living)を上げるよりも与える水準 (level of giving) を上げるのです。そして神がなされる業を運ぶ管になることができます。不正の富に忠実な者を神は豊かに祝福してくださるのです。物質的にだけではなく霊的祝福も受けます。5千人を毎日養うことはすばらしいことですが、ハンバーガー1つで毎日5千人を養うことはもっとすばらしいことです。それが本当の富であり権威であり、それこそこれからの時代に必要なことです。

 

マラキ3:10「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。—万軍の主は仰せられる。—

わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」

 

 

これは聖書の中で神が「わたしをためしてみよ。」と言われている唯一の箇所です。「何ヶ月も十一献金をしてためしたけれど、結果が得られなかった」という人に私は沢山会いましたが、これはためすものではなく、忠実に歩む中で経験して行くことです。私たちは「あふれる豊かさ」で生きるべきなのです。私たちはすべての良い業にあふれるべきなのです。物質的にも霊的にも、あふれる豊かさの中に私たちは生活できるのです。

 

マラキ3:11、12「『わたしはあなたがたのために、いなご*をしかって、あなたがたの土地の産物を滅ばさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。—万軍の主は仰せられる。—すべての国民は、あなたがたをしあわせ者というようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。』と万軍の主は仰せられる。」 [ *むさぼり食うもの】

十分の一を捧げる者に対して、このような祝福を神ご自身が約束していてくださるのです。これはまさに御国そのものです。

 

黙示録4:1、2「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。『ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。』たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、、、」

 

この「開いた門」は、今も開かれており、今も主は「ここに上れ。」と言われているのです。私たちはそこに上っていくことを求めている者でなければなりません。聖書全体を通じて、天が開いたとき見えるものは「権威ある主」であり、主がどのようなお方であるかを見ることこそ信仰の鍵です。

 

黙示録19:11、12「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。」

 

エゼキエル1:1「第三十年四月五日に、私がケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た。」(口語訳)

 

天が開かれたとき、私たちは権威に満ちた主を見るのです。天国の様子や、後に起こることなども見るかもしれませんが、主を見ることこそが最もすばらしいことなのです。主と主の栄光を見るとき、私たちは変えられます。

 

また、非常に大切な啓示が与えられるときも天が開きます。使徒行伝10:11には「見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に下りて来た。」とあります。これは異邦人にも福音が開かれることを示す非常に重要な啓示でした。

 

申命記28章は主の御声に聞き従う者が受ける多くの祝福が書き記されていますが、12節にそれらの祝福は「主はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。」とあるように、私たちのために天が開いてその倉から祝福が与えられるのです。

 

多くの人が天の倉の幻を見せられています。ある倉の中には足や手などの身体の部分が沢山入っていて、それは手足をなくした人たちに与えるためのものだと説明を受けました。私の友人で指を一本をなくした人がありましたが、主はその指をまた伸ばしてくださいました。2時間くらいかかりましたが、多くの人がそれを見ていました。関節2つ分が元通りになったのです。他にも無くなった手や足が伸びたという話を聞いています。それは天の倉から運ばれてきたのです。最近ある人が見た幻では天使はその倉から身体の部分を運んできているにもかかわらず、人々が祈らないので、届けることができないでいました。天使は私たちの祈りによって動くのです。私たちは求めないから得ていないのです。私たちは天に上って、倉からすべてのものを地に持ってこなくてはなりません。

 

申命記28章1節に「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく(diligently 勤勉に刻苦して) 聞き従い、私が、きょう、あなたの命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。」とあります。この「diligently 勤勉に」という言葉に注目してください。クリスチャンの中には、どうすれば最小限の努力で信仰生活をおくれるか、と考えている人がいます。それは主イエスのされたことではありません。主はすべてにおいて「父の御こころ」をされようとしました。最高の勤勉さをもって主に従うことが、私たちクリスチャンの情熱であるべきです。その時に28章に書かれているすべての祝福があなたを追いかけてくるのです。

 

もし自分の頭の上の天が青銅のように(申命記28:23)感じる方がいるならば、私たちクリスチャンはそのように生きる必要がないことを知ってください。私たちは「開かれた天」を持ち運ぶ者なのです。天の扉はいつも開かれています。神の義を真剣に捜し求め、時間を浪費するのではなく、主を知り主と交わるために時間を捧げる者となろうではありませんか。(終り)


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