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Walk With God Ministries

28 11月

荒野からの脱出      リック・ジョイナー      2016年11月28日


荒野からの脱出

 

リック・ジョイナー

 

数年前のことですが、私はミニストリーの進展を阻んでいる幾つかの障碍に対する不平不満を心の内でつぶやいていました。どうすればそれらの障碍を取り除いてミニストリーを前進させられるかと椅子に座って思い巡らしていた時、預言者の友人であるボブ・ジョーンズ師から電話が掛かってきました。彼はまるで私の思いを聞いていたかのように話し始めました。

 

彼は「あなたは椅子に座って、物事を進めるためには何をすればいいのかといらいらしながら考えていますね。でもあなたの歩みを遅くしたのは主なのです。」と言いました。そしてすべてはスケジュール通りにちゃんと進んでいて、 私たちは主から与えられている召しを必ず成し遂げることができると励ましてくれました。 又、私たちはまだ完全な計画やすべての事に関する神のタイミングをキチンと掴んでいないので、更に主を求め続ける必要があることも語ってくれました。

 

 私たちは10年ほど前に、ミニストリーの拠点であるノースカロライナ州のシャーロットに主が示されただけの人数を集合させるようにという預言をボブを通して与えられていました。そしてその人数が集められたならば、主はその数のうしろに「0」をつけて10倍にして下さると言われていました。ボブはこの預言で鍵となるのは「集合させる assemble」という言葉だと言いました。それはただ人数を集めるというのではなく、ジグソウバズルの一片一片を完全に組み合わせて一枚の絵にするように人々が組み合わされるということであったのです。

 

現在、シャーロットには最初に主から告げられた人数の数倍の人々が集まっていますが、そのうちで自分がこのキリストのからだの中での働き場所を心得ている人は多分半数に満たないでしょうし、その場所で実際に機能し始めた人は更に少ないと思います。たしかにミニストリーは前進していますが、本当に「一つに組み合わされた」人の数はまだ主が求められた数には達していないのです。

 

続けてボブは、主が私たちの歩みを遅らせているもう一つの理由は、人々の中に愚痴と不平不満があるからだと言いました。ショックだったのは私もその内の一人であり、ボブが電話をしてきた時、私は心に中で実際愚痴をこぼしていたのです。ヘブル書は初代イスラエル人が約束の地に入れなかったのは愚痴と不平が一番の理由だったと述べています。不平不満は私たちを神の約束に入らせません。又、 自分の召しへと解き放たれない人が沢山いる理由の一つでもあります。

 

不平不満の対象がたとえ何であっても、それは実際には主に対して不平を言っていることなのです。仕事場の上司に不満があるとすれば、それは即ち自分の人生を司っておられる主に対して不満を抱いているのです。なぜならばその上司をそこに置いたのは間違いなく主だからです。(ローマ13章参照)もし夫や妻、親や子ども、そして他のすべての状況に対して不平を言うとすれば、主が自分の人生を導いておられる方法に不平を言っていることになります。信仰がなくては神を喜ばせることはできず、又主に働いていただくこともできません。そして不平をいうことは信仰に対して正反対の働きをします。愚痴によって物事を動かすことはできません。かえって物事を止めてしまいます。不平不満は、私たちが主から与えられた人生の目的の中に生きるのを阻む最も力ある敵になりえるのです。

 

更に、主が前進を停止しておられる時、私は落胆し鬱状態に陥るという試煉を通るであろうとボブは言いました。私のような性格の者は、「待つ」というのは最も憂鬱なことの一つです。又、教会員の多くがすでに何年も神の動きを待ち望んでいたので、今から更に又待たねばならないと聞くのはとても辛いであろうこともよくわかりした。しかし、もし私たちが気落ちしたり疑ったりしたならば、更に長く荒野に留まることになるのです。気落ちし鬱になることは罪です。なぜならば、信仰によらないものはすべて罪であり、気落ちし鬱になることは信仰に堅く立つことではないからです。神の約束を受け継ぐには信仰が必要です。

 

確かに科学的生物学的な理由で鬱状態になることもありますが、多くの鬱は霊的な根を持っています。すべての霊的要塞に対する勝利は十字架によってすでに私たちのために勝ち取られました。鬱から完全な勝利するまでは決して満足してはなりません。そしてすべての状況を疑いではなく信仰の目で見ることを決意せねばなりません。もし荒野にいるのに倦み疲れたのならば、神の約束をもう一度確かめ、神の忠実さ、誠実さに励まされねばならないのです。

 

基本的に鬱状態は私たちの状況を悲観的に見ることから起こります。これは私たちが状況を信仰の目を通して見なくなる時にはいつも起こることです。約束の地に遣わされた12人の斥候のうち10人が「悪い報告(民数記13:32)」をしたのは「気落ち、鬱」の結果でした。彼らの報告は正しいものであり、信仰のある2人の斥候の報告と基本的に同じであったことは興味深いことです。しかし10人は障碍が彼らには克服できないほどのあまりにも大きいものであると認識したのに対し、ヨシュアとカレブは神が味方であるなら必ず克服できると信じたのです。 彼らは違う状況を見たのではなく、どのように見たのかに違いがあったのです。

 

エジプトを出た初代イスラエル人と同じように、多くのクリスチャンは自分が召されている神の約束のうちを決して歩くことがありません。それは愚痴や不平不満に陥るからです。悲しいことに多くの者はまさに荒野から解放されようとする直前に不平不満へと陥ってしまいます。それはあまりにも長く荒野にいたので「本当にここから脱け出せるのだろうか」と疑う誘惑を一番強く受ける時だからです。荒野を抜け出す最速の道は、感謝をすることであり、それは「荒野」に対してさえも感謝の心を持つ事です。私たちは感謝をもって主の門に、賛美をもって主の庭に入るのです。私たちの人生のすべての領域において主の内に留まることを決意しようではありませんか。それはすべてに感謝をすることによって可能になるのです。

 

ボブを通して与えられた神の言葉により、私たちのミニストリーは私たちの疑いと不平の故に一年間停滞させられたことがわかりました。これは数年前のことでしたが、現在はすべてのことが速いスピードで進んでいるように見えます。停滞していた期間はのんびりしていて良かったなーと思ってしまうほどです!使徒パウロは貧しいときも富むときも満ち足りる秘訣を学んだと言っています。私たちもそのようにならねばなりません。疑いではなく信仰において成長することを決意しようではありませんか。信仰の表れは忠実さです。誰に対しても何に対しても不平不満を抱きやすい傾向に対して戦いを挑み、すべてのことに感謝をしようではありませんか。感謝をもって主の門に、賛美をもって主の庭に入り、そこに留まりましょう。(終り)


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