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20 9月

腹を立てない心     フランシス・フランジペイン  2016年9月20日


腹を立てない心

フランシス・フランジペイン

エゼキエル36:26「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」

神は私たちのために気分を害したり腹を立てることのない新しい心を用意しておられます。愛する皆さん、怒らない心を持つことは、どちらでもいい事とか、あるといいかも、というようなものではありません。それは小さな事ではないのです。腹を立てる心には「石の心」になる危険性があるのです。

考えてみてください。私たちは時代の終りに近づいていますが、イエスはその時多くの人々は非常に気分を害したり腹を立てて信仰から脱落すると警告しておられます。

マタイ24:10-12「また、そのときは、人々が大ぜいつまづき、互いに裏切り、憎み合います。またにせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」

「人々が大ぜい(many)」「つまづく(offended 気分を害する、腹を立てる)」のです。その結果どうなるのでしょうか?「多くの人々(many)の」愛が冷たくなります。私たちが皆、このイエスの言葉に聖なる恐れをもって耳を傾けることを祈ります。

自分の心の怒りをそのままにしておくと、それは重大な霊的問題を招きます。この箇所でイエスはその危険な結果を3つ挙げています。即ち裏切りと憎しみ、そして愛が冷えることです。私たちが誰かに対して腹を立てるとき、それが自分が愛している人であっても、その人の所に話に行かねばなりません。もしその人と話をしないならば、その人のことを他の人たちに話すようになります。私たちは陰口を叩いてその人の弱さや罪を暴露して、その人との関係を裏切ることになります。

私たちはその裏切りを「ただ人々からアドバイスが欲しかっただけ」とか「相談しただけ」と言ってつくろうかもしれませんが、振り返ってみればあまりにも沢山の人にその人のことを否定的に話したことがわかるのです。その本当の目的は自分が霊的な助けを得るためではなく、自分を傷つけた人への復讐であったのです。これが憎しみの表れでなくてなんでしょうか。冷えた愛、裏切り、憎しみはつまずいた魂を暗やみへと導くものです。

人は大きな岩につまずきません。比較的小さなもの、小石につまずくのです。あなたの上司が持つ性格や人間性が気になり始め、それがやがていらだちや怒りとなります。或いは友達や家族の誰かが自分の期待に添わないとき、私たちは魂に怒りを持ちます。愛する皆さん、私たちが「最後まで耐え忍ぶ」ためには、自分が嫌なことや気になることに正面から向き合わねばなりません。

イエスの「忍耐が必要である」という警告は、即ち「始めることは容易いが最後までやり遂げるのは難しい」と言っておられるのです。今から死ぬまでの間には、あなたはひどく立腹させられる事を何回か経験し、あなたはそれを克服していかねばならないでしょう。今そのような経験をしておられるかもしれません。怒りをそのままに放置する危険性を過小評価しないでください!

「信仰から離れよう。」とあらかじめ計画する人はいません。「今日、私は硬い石の心を作る努力をしよう。」と言った人もありません。それは私たちの魂にひそかに忍びよるのです。自分にはそんなことは起こるはずはないと考えるのは、浅はかです。私はいつも何かに腹を立てている人達を知っています。自分の怒りに対処せず、祈りを持ってその問題を神に委ねるかわりに、自分の魂の怒りをいつまでも持ち続け、遂にはその重圧で神との歩みが出来なくなるのです。

 

今日は大丈夫かもしれません。しかし明日にはあなたを失望させ傷つける何かが絶対に起こると保証してもいいです。何か不正なことがあなたに対してなされ、仕返しをしたいという思いをあなたに抱かせます。その時、あなたはもっと愛を実践してキリストのような者へと一歩近づきますか? それともあなたは腹を立てて自分の霊のいのちを消耗しますか?

怒りの根

怒りは私たちの徳や罪、価値やプライドを攻撃します。怒りは魂のどの部分(良いところも悪いところも)にも侵入して傷つけます。私はかつて「うわさ話」に関する 説教を何回かしたことがあります。ほとんどの人はそのメッセージを聞いて自分の罪を認め悔い改めましたが、うわさ話の中核だったグループは大変怒って結局は教会を去って行きました。魂の罪を聖霊に明らかにされたとき、それを悔い改める機会を私たちが拒絶するならば、私たちは往々にしてその教えを与えた人に向かって怒りを抱くのです。自分の心をへりくだらせる代わりに、自分の罪を明らかに示した人に激怒するのです。これは本当なのですが、大抵の場合、私は誰がその教えを必要としているのかはわからないのです。しかし神は知っておられます。

パウロはテモテに2テモテ4:2で「責め、戒め、勧めなさい」と告げています。彼は「勧め、勧め、勧めなさい。」とは言っていないのですが、ほとんどの教会では勧めしか語られていません。勿論私たちに励ましは必要ですが、責めや戒めを必要とする時もあるのです。今日、会衆が怒って教会を去ることを恐れて真実を語るのを恐れる牧師がいます。その結果として、すぐに腹を立て、いつまでも矯正を受け取ることができない成長の止まった人々ばかりの教会になってしまうのです。

人々はただ勧め励ますだけでは変ることができません。私たちすべての中にはキチンと問題を指摘され訓戒される必要がある部分があるのです。罪を犯している人を訓戒し矯正することを拒否する牧師は神に従っていません。そのような牧師は人々の人生を真に変革されたものへと導くことはできません。そして矯正されないままの人々は「最後まで耐え忍ぶ」ことはできないのです。(マタイ24参照)

 

私たちは「主よ、私の中で変る必要があるものを教えてください。」と言う者たちにならねばなりません。これは成長するということです。箴言15:5「愚か者は自分の父の訓戒を侮る。叱責を大事にする者は利口になる。」

個人的な怒り

一番簡単に腹を立てるのは私たちのプライドです。プライドは自分に分相応以上のものを期待するようにさせます。プライドは自己崇拝の一つの形です。神は私たちのプライドを打ち壊す必要があるので、あなたの中でへりくだりの足りない部分を露にするために、あなたを立腹させる事件が起こるのを許されるのです。あなたの良い働きに対して励ましを期待するのは間違いではありませんが、自分が期待したときにそれを受けなかったといって腹を立ててはいけません。

ずっと以前、私がまだ若い牧師だったとき、私たち夫婦はあるカンファレンスに出席したのですが、そこでリーダー格だった人がすべての牧師夫婦に個人的に挨拶をすることにしました。彼は私たちの右側にいた夫婦に挨拶をしたあと、スタッフに何かを聞くためにその場を離れました。彼が戻ってきたとき、私たちをとばして私たちの左側にいた夫婦のところに行きました。周りの人たちはみんな私たちが抜かされたことを見ました。私たちは恥ずかしく少し腹が立ちました。

しかし妻は、この出来事で自分たちが傷つくのを許すのではなく、私たちが人々の気持に敏感になるための一つのよい教訓として受け取ることもできると賢明にも考えたのです。このことは人々が無視されたときにどのように感じるかを私たちに教えてくれました。お分かりでしょうか?あなたはつまづきを更にキリストのようになるための機会としなければならないのです。

私たちが腹を立てる事柄は本当に際限なくあります。実に私たちは、腹を立てるか、それとも決して腹を立てない心を持つかのどちらかを選ぶチャンスを毎日与えられているのです。主の約束は「私たちに新しい心を与えてくださった」というものです。それは主の御霊で満ち、主の愛にあふれた柔らかで人を受け入れ赦すことのできる心です。


祈り「主よ、私がすぐに腹を立て、ずっと赦さないでいることをお赦しください。御父よ、私のこころは愚かで弱いのです。何に対しても気を悪くしたり腹を立てないイエスの心をお与えください。アーメン」(終り)

 

 

 

 


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