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12 9月

御顔を求める      リック・ジョイナー             2016年9月13日



  御顔を求める

    

  リック・ジョイナー

 

 

黙示録1:16でヨハネは次のように主を描写しています。

「...顔は強く照り輝く太陽のようであった。」

太陽のエネルギーは自然界の命を保ち、可能にします。神の御顔も又、すべての命と霊的命を保ち、生きることを可能とします。使徒パウロがアテネの哲学者たちに言ったように「私たちは神に中に生き、動き、また存在しているのです。(使徒17:28)」

 私たちが人を識別するには基本的に二つの方法があります。それは顔と声とによります。その人の手に何か特別な特徴が無い限り、手を見ただけでその人が誰であるかを見分けられる人があなたには何人いますか? 身近な人でさえわからないのではないでしょうか。しかし神を神の手だけで、つまり神が与えてくださった物によってだけ神を知る人が多いのではないでしょうか。第1歴代誌16:11と詩編105:4は「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。」と私たちに命じています。

         主の御手は主の力と供給を表しています。それはすばらしいものであり求めるべきものではありますが、私たちはまず第一に主の御顔を慕い求めるように召されているのです。もし私たちが主を御手によってしか知らないならば、私たちに与えてくれる手ならば何でも主であると考えてしまうでしょう。私たちは主の御顔を求めねばならないのです。御顔からすべてのいのちが発せられていて、太陽のように輝いています。

 

         それではどのように主の御顔を求めればよいのでしょうか? それは主の御業だけではなく、主と主の道を求めるのです。詩編103:7は「主は、ご自分の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。」と言っています。主のみわざを見ることはすばらしく、それを忘れないのは大切なことです。イスラエルは毎年 主のみわざを次の世代に語り継げるように命じられました。しかし主のみわざを見ることと、主を見ることには違いがあります。

 

        モーセは主の御顔を求めました。彼は多くの偉大なみわざを見たにもかかわらず、主を知り、主の栄光を見ることを願いました。モーセは人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせて主と会ったのです。(出エジプト33:11)モーセがいのちで溢れていた理由はこれだと思います。120歳になったときも、彼の目はかすまず、気力も衰えてはいませんでした。

 モーセは主と共に多くの時を過ごしたので、老衰で死ぬことはなく、主ご自身が死なせねばならなかったのです。主の御霊は私たちの死ぬべきからだをも生かすと言われています。(ローマ8:11)御霊のうちに過ごす時間は私たちを若返らせます。しかし主を知ることの祝福は身体の若返りよりも更にすばらしいものです。イエスが言われたように永遠のいのちとは神を知ることです。(ヨハネ17:3)

         主は道であり真理でありいのちです。道とは救われるための方法ではなく、あるお方のことです。真理とは教義を正確に理解するだけではなく、私たちが知るべきお方です。もしそのお方が私たちのいのちでないならば、私たちは本当には道も真理も知らないのです。私たちは単に「主について」しるだけで満足してはなりません。顔と顔を合わせて主を知らねばなりません。これが私たちの人生の最も重要な目的です。他のすべての事の永遠の価値や素質は、私たちの顔と顔を合わせる主との関係によって決まるのです。(終り)


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