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28 8月

純粋なぶどう酒    リック・ジョイナー               2016年 8月29日


 

純粋なぶどう酒

 

リック・ジョイナー

 

エレミヤ48:11、12に大切な警告があります。

「モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、かおりも変らなかった。「それゆえ、見よ、その日がくる。—主の御告げ。—その日、わたしは、彼に酒蔵の番人を送る。彼らはそれを器から移し、その器をあけ、そのつぼを砕く。」

昔のぶどう酒の精製方法は、まず一つの器にぶどう酒を入れ、中の不純物が沈殿するまで待ってから上澄みを別の器に移します。残りの不純物が沈殿すると又、次の器に移します。つまりぶどう酒は新しい器に移されるたびにだんだん純粋になっていくのです。これは又、主が私たちの人生から不純物を取り除くために用いられる方法でもあります。主は私たちに複数の「変化」を通させるのです。

 

長年社会学者は、多くの人々が「変化」に対して何故このように激しく抵抗するのかという理由を模索してきました。アルコール中毒の親を持つ子どもが、アルコールによる痛みや苦悩を深く味わったにもかかわらず、 大酒飲みとよく結婚する理由を学者たちはまだうまく説明できないのです。しかし変化への恐れは痛みや苦悩への恐れよりもっと強いことが往々にしてあります。この変化に対する恐れは「慣れ親しむことの暴虐」と呼ばれることがあります。これこそがまさにクリスチャンを「古い皮袋」にしてしまうものです。新しいぶどう酒はまだ膨張しつづけています。古い皮ぶくろは堅く柔軟性がないので新しいぶどう酒を入れるには適さないのです。

主は変ることのないお方であることは安心でうれしいことです。しかし、私たちが主のようになるためには、沢山変らねばならないことが私たちにはあるのです!私たちが主に似た者となり、主がされた業をするようになるまでは、私たちはまだ多くの過程を通らねばなりません。ですから一生の間「変化」を通されることが予想されます。

私たちの柔軟性を保つために主が用いられる方法の一つは、今の状態があまりに居心地よくなり、変化に抵抗するようになった時に私たちを「新しい器に移し変える」ことです。人生に衝撃的な変化が起るとき、それはサタンの攻撃だと私たちは考えるかもしれません。しかしたとえそうであったとしても、主がそれを許されたのですから、それは私たちにとって必要なことであったと言えます。多くの変化は自分自身が「古い皮ぶくろになりませんように。」と祈った祈りに神が答えてくださったのかもしれません。

神が私たちの人生に与えたいと思われる変化に対して抵抗せず、いつも心を開いているならば(それはまだ自分には理解し難い新しいことも含めてですが)多分、変化を通るときの動揺、混乱が半減するでしょう。もし賢明であるならば、変化を「霊的成長のための大いなる機会である」として歓迎することを学ぶでしょう。私たちが変化に抵抗するのは、普通、私たちが自分の人生の安全保証や確保を、主に依存するのではなく自分の環境に依存してしまっているからです。

モアブ人は「変化」に対して強く抵抗したので、主は彼らの器をひっくり返して空け、そのつぼを砕かねばなりませんでした。この「抵抗」は、今も多くの教会が分裂や解散を経験する理由です。多くの教会で一致が保たれているのは、主の臨在や主の目的に土台が置かれているからではなく、メンバーの慣れ親しんだものに対する郷愁の思いに土台が置かれているのです。

私たちがあるグループや友達とあまりにも居心地よく慣れ親しんだ関係になるとき、主は私たちを揺り動かしたり新しい器に注ぎ移されます。一世紀のエルサレム教会が散らされたのはその理由だったかもしれません。主はご自分の教会の一致を深く望んでおられます。しかし、多くの地域教会が陥る自己本位な「排他的な一致」は、往々にして私たちが持つべき「キリストのからだの他の部分との一致」を無視する結果を生み出すのです。「排他的一致」がある地域教会に起こるとき、 誰か、または何かが器を傾けることを許されることしか主には方法がなくなるのです。

非常に深刻な教会の問題や分裂を経験したことのないクリスチャンを私は一人も知らないと思います。そうであっても賢明な人は自分のヴィジョンや神学を過去の間違いに基礎をおかず、苦い経験から必要なことを学び、その経験によって自分が清められ、将来に対してのより鮮明なヴィジョンが持てるようになるのです。

私たちは前進しつづけねばなりません。ぶどう酒が新しい器に注がれるたびに、大きな騒ぎが起りますが、それを通して清くされるのですからその価値はあるのです。私たちが正しく対処応答すれば、やがて私たちは自分の環境ではなく主にもっと信頼するようになるでしょう。そして柔軟に教えを受けやすくなるので、主が私たちの器を傾けたり、つぼを割る必要がなくなるでしょう。(終り)


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