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15 8月

霊のレンズ交換      グラハム・クック            2016年8月15日


霊のレンズ交換

 

グラハム・クック

 

神が見ておられるものと同じものを見,神がそれを呼ばれるのと同じように呼ぶのはとても重要なことです。レンズというのはとても単純な技術で、光を屈折させて物がよく見えるようにしたり、或いは光りを遮って物がぼんやりしたり、歪んで見えたりするようにします。レンズ自体は見えないのですが、私たちはレンズを通して物を見るのです。霊的に言えば、レンズとは私たちの認知、知覚、観察、考えです。レンズはある人やある物に対して偏見を生みます。「レンズを変える」ことはヨハネ1章にあるナタナエルに起りました。ピリポが彼にイエスを紹介しようとしたとき、彼は「ナザレから何の良いものがでるだろうか。」と言いました。しかしイエスが「あなたがいちじくの木の下にいるのを見たからです。」と言うと彼は「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と答えました。これは最速のレンズ交換でした。

 

レンズ交換は二人の使徒にも起りました。一人目は使徒行伝10章のペテロです。ペテロは彼の霊的レンズを変えるような神との出会いを経験しました。彼は学術的神学者ではありませんでした。人々は彼が無学な普通の人であるのを知っていましたが、イエスと共にいたことも知っていました。使徒10:9で、ペテロは夢心地の中で幻を見ました。それは大きな敷布のようなものの中にあらゆる種類の動物、はうもの、空の鳥が入っていて、「ペテロ、それをほふって食べなさい」という声がしたのです。しかしペテロは「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」と答えました。主は「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」と言われました。これが三度も繰り返されたのです。彼は使徒であっても私たちくらい鈍感だったようです。

 

そのあともペテロは「今見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑って」いました。全くわからなかったのです。その時コルネリオから遣わされた人たちが訪ねてきました。コルネリオが天使からペテロを招くようにと指示を受けたからです。まだクリスチャンではない人のところに天使が現れて知識の言葉(ペテロの宿泊していた所とその人の職業と名前)を与えたのです。御霊は「ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」とペテロを促しました。

 

カイザリヤについた時、ペテロは異邦人と交わったり彼らの家に入ることを非常に躊躇しました。今までしたことがなかったのです。彼がコルネリオの家に入ってまずしたことは「自分のレンズ」の説明でした。28節で「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。」と話し出しました。「ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。 それでお迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。」と彼は続けました。本当は聖霊によって強く促される必要があったのですが。(笑)

 

コルネリオからいきさつを聞いたペテロは、34節で「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことはなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」と言っています。ペテロのレンズは完全に変えられたのです。ペテロはコルネリオの後にはそれまでは救いに入れなかった膨大な数の人々(異邦人)が続くことを知りませんでした。神は突然異邦人への大きな扉を開かれたのです。あなたも私もコルネリオの後ろにいたのです。ペテロはレンズを変えられて「これで私は、今神が何をしておられるのか、はっきりわかりました。」と宣言したのです。

 

彼はその後イスラエルに戻り、他の人々にこのことを報告せねばなりませんでした。使徒11:7で「どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」と言って、これは自分の考えではなく、神がしておられることだと説明したとき、人々は納得して神を誉め称えました。彼らのレンズも変えられたのです。

 

私たちのレンズが変えられると、少し安定感がなくなり、落ちつかず、当惑し、混乱します。ペテロは今まで一つの考え方で生きてきたのですが、突然神から違うものを見せられて、「これがわたしのしていることだから、あなたもこれを見てほしい。」と言われたのです。「わたしがしようとしていることは、今までのあなたの育ちとはぶつかり、相容れない。わたしはあなたを伝統、習慣、慣しのなかから取り出して、全く新しい場所に導く。わたしはあなたに異邦人への働きの扉を開いてほしいのだ。確かにわたしはあなたを混乱させ困らせている。あなたの伝統、あなたがわかっていると思っていた事、今までの経験をすべてぐちゃぐちゃにして、違う新しいことをあなたにしてほしいと願っている。今は新しい時なのだから。わたしは今までとは違うやり方をする。古いことは過ぎ去って、すべてが新しくなったのである。ペテロ、あなたがまず最初にそのドアを通って行けるのだ。」と主は言われたのです。

 

使徒パウロもレンズの交換をした者です。彼は学術的神学者でした。ガマリエルのもとでバリサイ人の厳格な教えを学んだと書かれています。親もパリサイ人であり、8日目に割礼を受け、ベンジャミン族の出であり、熱心にクリスチャンを迫害していました。律法に関しては完璧でした。最も厳格なユダヤ教徒だったのです。彼は教会を迫害することにより神のために働いていると100%確信していました。ステパノの石うちは、当然であり正しいことであると信じていました。使徒9章には「この道のものであれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げた」とあります。すべて神の御名において行っていたのです。彼は学術的神学者でしたが、今何が起こっているのかを全く理解していませんでした。イエスが何者であるかを全く理解していませんでした。

 

しかし彼がダマスコに向かう途中でイエスと出会ったのです。天から光がさし、彼は地に倒れ、目が見えなくなりました。「彼は自分のレンズを無くした」とも言えるのでしょう。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」という声が聞こえ、彼は「主よ、あなたはどなたですか。」と尋ねます。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と主は答えられました。これはパウロにとって衝撃的な瞬間であったことでしょう。彼がその時、どのように感じたか想像ができますか? 「自分は神の御こころを行っている」と100%確信していたのです。ところが実際は神を迫害していたと知らされたのです。彼は目が見えず、暗やみの中で、3日間飲み食いもできませんでした。ただじっと「自分は今まで一体何をしてきてしまったのだろうか」という思いで一杯になって座っていたのです。きっと恐れおののいていたことでしょう。 今までのすべての訓練、すべての神学、すべての教義に疑問を抱いたことでしょう。なぜならば、神と出会ったときそれらは意味をなさず、役に立たなかったからです。彼は混乱し、当惑したことでしょう。自分に対して怒りを持ったでしょう。罪責感と恥で身動きが出来なくなり、孤独であったでしょう。

 

もし、あなたの霊的レンズが、他の人を迫害したり攻撃したりするようにあなたを促すとすれば、あなたは聖霊によってではなく宗教の霊によって動かされていることを知らねばなりません。神がアナニヤを遣わしパウロが聖霊で満たされるようにされた時、「ただちにサウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。」とあります。彼の視力を長い間遮っていたものが落ちたのです。うろことは、厚い皮膚のようなものであり、視界を妨げ洞察力を制限するものです。

 

イエスは新しいレンズを与えるために来られ、私たちが主と同じようにものが見えるようにしてくださいました。プロテスタント教会は宗教改革の上に成り立っていますが、それは当時の重要なレンズ交換でした。恵みが再び現れて律法主義と戦いました。神が何か新しいことをしたのではありません。ずっとそこにあったけれども見えなくなっていたものを回復されたのです。カリズマティック・リニューアルもまた大きなレンズの交換でした。私たちの人生における聖霊の重要さを明らかにしました。教会が神の力と聖霊の賜物によって動くことが世界にどれほど大切であるかを示しました。このような重要で大きなレンズ交換は私たちの周りで今もなされているのです。レンズ交換の成功なしには、神と共に歩き続けることに成功はできないのです。あなたはキリストと共に歩き始めた時と同じように終着点に辿りつくのではないのです。これは教義や神学のことだけを言っているのではありません。神を体験することを言っています。神がどういうお方であるのか、あなたが何者であるのか、神が私たちのために何をしてくださるお方なのか、ということに関するレンズ交換です。ヴィジョンに向かって進んでいくというのは、ただ一線上を進むだけではなく、レベルも又変るのです。私たちはこの世にいますがこの世の者ではなく、御国に属するものです。御国の者は御国にふさわしい者として物を見、行動するのです。そして神が今しておられることを見て新しいヴィジョンを持つためには、私たちは絶えずレンズ交換が必要なのです。神は私たちのレンズを拭いたり、修理したり、或いは交換したりしたいのです。(終り)


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