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01 8月

親密さと慣れの違い    リック・ジョイナー             2016年8月1日


親密さと慣れの違い

 

リック・ジョイナー

 

 

アモス3:7に「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」とあります。又、詩編25:14には「主はご自身を恐れる者とは親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。」とあります。神は神を恐れる者たちにご自分の知識を信頼して委ねられます。

 

「神に恐れを抱いていてどうして神と親しい友だちになれるのか」と不思議に思うかもしれませんが、このような神の逆説(パラドックス)を理解するとき、私たちはいのちの道を見出すのです。詩編25:14で「恐れる fear」と訳されているヘブル語は「yare」で、これはまさに「恐れる」という意味です。他に「尊敬 respect」と訳しているものがあり、勿論それは間違いではないのですが、これは普通の尊敬ではなく尊敬を何千万倍にもしたものです。私たちが神の親友であったとしても、神はやはり神であり私たちはやはり人間なのです。

 

ヨハネはイエスに親密な intimate 友でした。ユダは主に慣れて familiar いました。神との関係において聖くない慣れ方があり、それは恵みからの最も悲劇劇な脱落の原因になりえるのです。一方ヨハネは年老いて12使徒の最後の生き残りとなったときに幻で天に上げられたことが黙示録に書かれていますが、彼はその時でもなお主の臨在の中で何度も倒れて死者のようになりました。確かに彼は最も偉大なキリストの啓示を受けた者であり、最も親しい神の友であったにもかかわらず、主への恐れを決して失いませんでした。恐らくそれがこのような啓示を委ねられるほど信頼された主な理由であったことでしょう。

 

パウロは初期の書簡で、「自分は他の最も優れた使徒たちと較べても決して劣ってはいない」と言っています。後に彼は自分は「使徒の中で最も小さい者である。(1コリント15:9)」と書き、その数年後には「すべての聖徒たちのうちで一番小さい私(エペソ3:8)」と書きました。彼の晩年の書簡には「私は罪人のかしらです。(1テモテ1:15)」とあります。ここに一つの段階的流れがあるのがお分かりでしょうか。彼の霊的成熟が進むにつれて彼のへりくだりも増し加わっているのです。

 

思慮や分別のない者が自分の御座や重要な会議の場に近づくのを許可する国王や大統領が果たしているでしょうか? 主が「秘密のはかりごと」を打ち明けてくださるような主の友になりたいのならば、私たちはそれが栄誉であると共に責任でもあることを理解せねばなりません。預言的啓示を信頼して委ねられるならば、それを人に伝える時を知ると同時に伝えてはいけない時をも知る知恵を持つ必要があります。この知恵は主を恐れることに根ざしています。私たちは主の親友になったとしても、主がどなたかであるかを決して忘れてはなりません。主を恐れることは知恵の初めであり、それはすべての真の預言ミニストリーの土台であるのです。(終り)


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