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27 6月

モーセと小羊の歌  フランシス・フランジペイン       2016年6月27日


モーセと小羊の歌

 

フランシス・フランジペイン

 

この世で音楽ほど私たちを霊的領域に容易に近づけるものは恐らく他にはないと思います。音楽は霊的領域への橋渡しする媒体であり、目に見えない時間と空間の扉を通り抜けて人の魂を運んでいくことができます。 自分にとって特別な昔の歌を聞いて、突然ある出来事の喜びや悲しみの思いで胸が一杯になるのを誰もが経験していると思います。或いは、ベートーベンの「歓喜の歌」やヘンデルの「メサイア」を聞いて、魂が音楽の翼にのって天国の入口までも引き上げられるのを経験しない人はいないのではないでしょうか。

その反対に、まるでトロイの木馬のようにサタンからの隠された軍隊を西洋に密かに持ち来んだのは1960年代の音楽でした。私たちはその歌を歌い、その結果、反抗、魔術、麻薬、不品行が私たちの考えに密かに忍び込み、私たちのモラルの水準を襲撃し低下させたのです。今日、悪魔的な音楽は西洋への影響をほしいままにしており、有名なロック・ミュージシャンたちは大胆にサタン崇拝をし、地獄の音楽に酔う若者でスタジアムを一杯にしています。

 

終末の時代

 

聖書の預言は、終末に近づいている今、音楽がますます礼拝の表現として用いられることを明らかに示しています。人類は両極のグループに分けられます。即ち、神の礼拝者として小羊に従う者たちと、悪魔についてサタン崇拝をする者たちです。(黙示録9:20、13:8etc.)

現在すでにこの両極性は現れています。ハードロックのコンサートは全く悪魔的で、完全に堕落しており、実際にサタン崇拝の表現になっています。それと同時にクリスチャン・ミュージックは音楽界で実に最も成長しているジャンルになっています。今日、アメリカでは普通のテレビ局でワーシップCDのコマーシャルが流れていて、スタジアム一杯の人々が神を心からワーシップしている姿が映し出されています。

 主は終末におけるワーシップの重要性だけではなく、私たちが正しいワーシップができるように救われた者たちの歌が持つべきテーマをも教えておられます!実際、私たちの心を満たしている歌が何かを調べれば、私たちが聖書に示されているパターンと霊的に一致しているかどうかを見分けることができます。ですから黙示録5:9、10を見て、私たちの歌を「小羊に従う者たちの歌」と較べてみましょう。

 

「彼らは、新しい歌を歌って言った。『あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』」

 

まず第一に、贖われた者たちは「新しい歌」を歌いました。真のワーシップは古くさかったり新鮮味がなかったりはしないのです。それはいつも新鮮で、いつも生きていて、いつも私たちの毎日の生活に表される神のすばらしい愛から生まれる出るものです。次に11−14節を見れば

「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。『ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、賛美を受けるにふさわしい方です。』また私は、天と地と、地の下と海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」とあるように、彼らは小羊の血によって贖われたことによってのみ神への道を得たことを知っていました。そして彼らは圧倒され自然に心から溢れ出る深い神の御子への感謝のことばで礼拝したのでした。

この箇所の歌のテーマは、たとえ完全にはそのように歩んでいないとしても、ほとんどのクリスチャンが慣れ親しんでいるものです。程度の差こそあれ、私たちはキリストへの賛美の歌を心に抱いています。しかし驚くべきことに、この聖書箇所によれば、終末に生きる贖われた者たちの世界観は、今日私たちの殆どが信じているものとは著しく異なります。

ヨハネは贖われた者の一人として私たちに語っていますが、彼らのゴールは天国で永遠に住むことではなく「地上で(キリストと共に)治めること」なのです。これは多くのクリスチャンが教えられていることと全く反対ではありませんか。私たちは「主よ、天国に連れていってください。」と祈ります。しかし贖われた者たちと24人の長老、そして天使の軍勢は「主よ、地上に天国をもたらしてください! あなたの御国が天にあるように地上に来ますように。」と歌っているのです。祈りの心をこめて考えてみてください。贖われた者たちは「地上で治めこと」に焦点をあてているのです。又、ヨハネが終末の聖徒たちを「私たちの神の祭司」と呼んでいることも考慮してみてください。「御国の祭司」の主たる任務は、旧約の祭司がその型を示している通り「とりなし」です。キリストと共に治める者たちは「とりなし手」であるのです。彼らは人類の罪のために神にいけにえを捧げ、万能の主の慈しみに賛美のいけにえを捧げるのです。祭司である彼らの人生は、彼らがとりなす人々や国々と堅く結ばれているのです。

しかし御国の祭司たちは助けが必要な人達と結ばれてはいますが、盲目なナショナリズムや個人的な文化的・民族的偏見に縛られてはいません。彼らは人々に欠けている点を明確に見ますが、それをただ容認したり、或いは裁いたりするのではなく祭司としてとりなすのです。彼らは、単なる批評家であることから抜け出して「御国と祭司」という上の位に即いたのです。

更に、彼らは「すべての部族、国語、民族、国民」の中から来ています。ですから彼らの心の歌に私たちはもう一つの側面を見出すことができます。即ち、彼らはキリストによって一つにされた人々であり、一致し和解することを決意しています。彼らは新しく造られた者たちであり、この世においては敵対していた時もありましたが、御国においては一つとなったのです。

 

ユニークなあなたの歌

 

贖われた者のミュージックやワーシップを満たすものが他にもあります。黙示録14:3に「彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。」とあります。

この箇所は神に選ばれた者たちについての記述ですが、これを適用すれば、私たちにも、他に誰も学ぶことのできない、私たち一人ひとりの歌があると言うことです。それは私たち一人ひとりの心から出るユニークな賛美の歌であり、自分の贖いを語る個人的な歌です。

愛する皆さん、あなただけが学び、あなただけが歌える歌があるのです。各節は神がして下さった奇蹟で満ちているでしょう。このワーシップはすばらしい御父の救いの力ある恵みの証しであり、私たちの神の体験から立ち上る麗しい香りです。あなたはこのような歌を歌っていますか? これこそあなたが生きる理由であり、あなただけにしか歌えない歌なのです。

 

すべての国々の人々が来る

 

しかしあと一つ私たちが学ぶべきテーマがあり、そのメッセージは黙示録15:3、4に書かれています。

「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。

『あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。主よ。だれかあなたを恐れず、御名を誉めたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。』」

 

愛する皆さん、この言葉の中には非常に多くの事が含まれていますので、ここですべてを語ることはできません。しかし選ばれた者たちには伴っている神の働きがあるのです。即ちそれは、偉大で驚くべき力が現れること、そして、正しいさばき、これが明らかにされたのです。「弱々しい終末の教会」としか見えない人たちに申し上げます。これ等の神の働きが来て国々を揺り動かし、「国々の人たち」は「来てひれ伏す」のです。

もし私たちが「 終末の贖なわれた者たち」を満たすワーシップと同じワーシップをすることができるならば、私たちは「国々が神のもとに来るヴィジョン」を得るに違いありません。愛する皆さん、キリストに従う者たちはモーセと主について歌うだけではありません。彼らはまさにモーセの心を満たした歌そのものを歌うのであり、それは小羊ご自身が歌っておられる歌であり、それは国々が神のもとに来る歌であるのです。

ミリヤムは「(主は)馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた(出エジプト15:21)」と歌いました。しかしモーセは違う歌を歌っていました。私たちがイエスのことを歌うのは確かに適切なことです。しかし人類の罪のために神がいけにえとされた小羊は違う歌を歌うのです。モーセとイエスの心を満たしていたヴィジョンを見て下さい。それは「すべての国々が来て神の御前にひれ伏す」ことです。

愛する皆さん、キリストに似る者となるとは、私たちの心の中に主の心が持つ価値観と基準を移し入れることです。主の歌を所有することです。イエスがなされたすべてにおいて、「主の前におかれた喜び」とは国々の大いなる収穫でした。モーセが成し遂げたすべてにおいて、彼の目は「約束の地」を越えて「約束の全世界」が完全に神に回復される事を常に見ていたのです。ですから、私たちもこれと同じ全世界のヴィジョンを持とうではありませんか。そうです、そしてこう自分に問いましょう。「私たちの心を満たす音楽は、贖われた者のために神が与えておられる音楽と一致しているだろうか? 私たちはモーセと小羊の歌を歌っているだろうか?」と。(終り)


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