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Walk With God Ministries

28 12月

2015年を振り返って      坂 達 也         2015年12月28日


2015年を振り返って

 

 坂 達 也

 

 

 「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地とのいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。・・・」(2ペテロ3:10−12)

 

 先日私がたまたまこの聖句に目が留った時、一瞬ハッとする強い思いを感じました。それは「あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」の箇所です。そこで私は2ペテロ1−3章をはじめから読み直し、使徒ペテロから圧倒されるような特別のメッセージを感じたのです。皆さんもこの際ぜひ2ペテロ1−3章全体を通してお読み下さい。

 ペテロはここで主の再臨の日にだけ焦点を置くのではなく、むしろ神のさばきが最初に人間の上に下った時のことに先ず触れております。それは「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾き(創世記6:5)」「地は、神の前に堕落し、暴虐で満ちて・・・全ての肉なるものが、地上でその道を乱していた(同6:12)」という時代でした。神はノアを選んで箱舟を造らせ、ノアの家族8人(一家族)と選ばれた動物と鳥を箱舟に乗せて救いましたが、その他のすべてのものは一度水(洪水)によって全滅させたのです。これはおとぎ話ではない実に恐ろしい話です。私は今の時代が、このノアの時代に段々似て来ていることに身震いさえ感じます。

 それだけではありません。ペテロは、その後で「天の万象は焼けてくずれ去る」という人類を含むこの宇宙の「聖くない」すべてのものが最終的に裁かれ、火によって滅ぼされる恐ろしい「主の日」が来ること(10節)を最大限に強調します。しかも、その日は盗人のようにやって来ると警告します。その上でペテロは「あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。(11節)という警鐘を鳴らしているのです。

 私はこの「盗人のようにやって来る」は、使徒ヨハネが書いた黙示録3:2、3に書かれている「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人を力づけなさい。わたしはあなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを固く守り、また悔い改めなさい。もし目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。・・」に通じると思います。それによってこの警鐘がどれ程深刻なものであるかを私は感知しました。ここに「なまぬるい生き方をしている」終末のクリスチャンへの厳しい主の警告ー「目を覚ましなさい」「悔い改めなさい」が鳴り響きます。

 

 そこで私はそのような「聖い生き方をする敬虔な人」とは一体どのような人なのかを私なりに思いめぐらす中に、それが黙示録2−3章に7回も出てくる「勝利を得る者 overcomer 」であることに気が付いたのです。皆さん、この7回のそれぞれで、神が勝利者にどれほどすばらしい「ご褒美」を下さる約束をされているかをもう一度確認して下さい。私が心から感じたことは、このご褒美に与れる人とは並大抵の人ではないということです。ですからこそ、私たちが徹底して「聖い生き方をする敬虔な人」になることを、ペテロも、黙示録を書いたヨハネも心から私たちに嘆願しているのです。

 

勝利を得る者になる

 

 私たちキリストに従うクリスチャンは「征服者以上の圧倒的な勝利者 more than conquerorsでなければならない」とロマ書8:37に書かれています。「勝利者」とは明らかに「戦うこと」を前提にしている言葉ですから、真のキリスト者とは霊の戦いで悪魔に完全に打ち勝つ人でなければならないはずです。皆さんの中にはそれを意外に思う方がおられると思いますが、この戦いの勝利者こそ、キリストの花嫁、真の弟子を指していると私は信じて疑いません。

 この世は戦場です。悪魔の支配下にあるこの世のシステムに対してクリスチャンはサタンの力と誘惑に徹底的に抵抗して打ち勝たねばならないのです。それを私たちのために既に成し遂げられたのがイエス・キリストであり、主が先ず圧倒的な勝利者となられたのです。私たちはその主に従うフォロアーですから、主にあって同じように圧倒的な勝利者とならねばならず、それは形だけでなく、実が伴わねばならなりません。それには忍耐が必要です。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる(マタイ24:13)と書かれている通りです。

 

 今年2015年のはじめに、私たちの属するリビングホープ・クリスチャン・センターでは、年間の目標として「勝利者になること」というロビンソン牧師のメッセージに続いて、全員でそのことにコミットし宣言致しました。これは大変大きな目標です。その意味する所はメンバー全員が「この世的な生き方をこれからはしない」と決意をすることですから、正直なところ、この世の隠然たる支配者である悪魔に大変な挑戦状を突きつけたのも同然でした。

 私は悪魔からの攻撃が激しくなることを覚悟しました。そして、その通り教会はこの一年大変険しい道を歩んで来ました。私たちは今年一杯で今入っている建物を出なければならないことは年頭から分かっており、あらゆる努力をして新しい場所を探して来ましたが、本日現在未だに次の場所が見つかっていませんーーと書いたところで、念のためと思って牧師に連絡した所、実は昨日「交渉中の日曜日だけリースする場所を3月から借りれることが決まった」との朗報。ハレルヤ!最悪の場合に備えて、新年からは近くのホテルの宴会場を借りる手配がしてあったので、これで何とか3月までつなげます。しかし事務所の場所はまだ決まっていません。それに加えて、色々な事情で副牧師クラスのリーダー二、三名が辞任したり他所に移るという事態も起きており、若い人が中心の私たちの教会の信仰は試されております。しかしひるんだ人、動揺している人は見受けられません。主は今、若いリーダーたちの信仰を猛訓練されており、すべてにおいて主のタイミングは実に見事です。

 

 そこで考えられることは、そんな苦労をするリスクを覚悟してまで「勝利者」になるコミットメントを掲げないほうがよかったのか、ということですが、そんなことは絶対にありません。第一、私たちの教会はミッション・ステートメントに「イエスを実際に顔と顔を合わせて見ることを熱望する」とはっきり掲げてあり(出エジプト33:11参照)これは私個人の熱望するところと一致します。更に「主の栄光を反映する『神の息子と娘』を育て上げ、御国を拡張すること」を目標とすると書かれていますから「勝利者になる」ことは当然のことであるのです。私はクリスチャンの集まる教会はみな「圧倒的勝利者の教会」であることを堂々とこの世に宣言すべきであると思います。

 

 「勝利を得る者になる」ことの定義として、多くの人が1ヨハネ5:4「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。」を引用します。確かにヨハネが云うことは正しい定義です。しかし問題は、私たちが真に生まれ変わって「神から生れた者」ーすなわち私たちの肉の性質が神のご性質に変えられた者になっているかどうかです。そのような人は主がその人の中に常に生きている人であり、その人の信仰は「世に勝つに充分な確かな信仰」でありましょう。(1ヨハネ4:4を参照下さい。)

 しかし信仰について、この辺りを軽く考える人は「イエスを信じるという信仰さえ持っていれば、それが『勝利者』なのだ」と簡単に片付けてしまい、その場合、多くの人は霊的戦いが必要だとは考えません。もし私たちが本当に悪魔陣営に対して勝利しているなら、例えば「病気の癒し」はどうなのでしょうか。悪魔の支配下で起こる病気こそ私たちが勝利すべき一大問題のはずです。

 

 ところでフランシス・フランジペン師は「神の至高の目的は、私たちがキリストに似た者になることです。もしクリスチャンが『キリストに似た者となる』という確固たる信仰の目標を持っていなければ、どのように霊的になるための努力をしても、それを得る事は出来ません。」と云われます。

「キリストに似た者になること」がクリスチャンの最大の目標であるならー私はそう信じますー新約聖書に書かれている「イエスは彼の所に癒しを願って来る病人のすべてを癒した」とか、マタイ10:1の「イエスは12弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。」と書かれている御言葉は、私たち現代のクリスチャンには当てはめなくてもよいのでしょうか。これこそ悪霊に対する戦いであり、私たちは圧倒的勝利を得なくてはならない重要な使命の一つであると信じます。なぜなら、信仰は実際に実が実らなければ信仰とは云えないからです。

 とは言え厳密な意味で、癒しにおいて全くイエスと同じ事が出来る人は恐らくいません。しかしそれは信仰に於ける建前としての大目標であり、私たちは信仰でその目標を先取りし勝利していなければならないのです。すなわち、たとえそれが今現実完全には出来なくても、私たちがその信仰に達した者として実を実らせる信仰のたゆまない努力をしている限り、私たちは、信仰のプロセスの途中にある「勝利を得た者」と主は認めて下さると信じます。

 

 ここで私個人のことを申し上げれば、私は癒しの賜物をいただいているとは思っておりません。しかし、バプテストの教会で洗礼を受けてクリスチャンになった早い頃から、信仰の書としての古典であるマクスウェル・ホワイト師の「The Power of the Blood」等を読み「十字架で私たちのために流されたイエスの血潮にはものすごい力があり、いのちがある」という聖書の教えを確信し、あらゆる病気とか、悪霊がからむ事態に対してイエスの血潮で覆い、振り掛け、宣言することを信じ少しづつ実行して来ました。その結果の実は確かに大したものではありませんでしたが、それでも時々起こる癒しの実で励まされて来ました。最近は特に家内と一緒に祈ることで力を得、癒しの確信は益々強まって来ています。そして実際に祈ってイエスの血潮を宣言している時に主が喜んでおられることを感じ、しかもその後でその人が癒されなかったことを知っても平安があり、結果に動じなくなりました。癒しのブレーク・スルーが来るのは時間の問題であると信じています。

 癒しとは賜物をいただかなくても、イエスの十字架の御業を信じる者には既に力が与えられているのであり、私たちはどんどん果敢に信仰で癒しの祈りを実行すべきであると信じております。信仰とはそう言うものであり、私たちはみなそのプロセスにある者です。有名な癒し手の人が5年10年何も起きなかったという話はよく聞きます。未だ癒しの宣言を実行されていない方はぜひお始め下さい。

 ところでここで2ペテロ3章の話に戻りたいと思います。ノアは周りからどんなに嘲笑されても「神を信じなさい」と人々に語り続け、神の指示に忠実に従い120年もかけて根気よく「どでかい箱舟」を事実上一人で造り上げました。彼は聖書の中の数少ない「神とともに歩んだ」人の一人です。私はノアが主の御ことばを忠実に実行はしても決して宗教的な男ではなかったことを何よりも誇りに思い、励まされています。そしてそのノアが造った「イエスの箱舟」に今の私たちも「勝利を得た者」として乗り込むことを堅く信じます。

 最後に私自身の2016年のみ言葉を申し上げます。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」アーメン!皆様よいお年をお迎え下さい。 (終り)


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