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Walk With God Ministries

05 10月

キリストの香り       フランシス・フランジペイン      2015年10月6日  


キリストの香り

フランシス・フランジペイン

 

私たちはキリストの栄光を顕す者になれると信じます。それには私たちの一部が死なねばならないということです。私はある時、神とサタンは両方とも、理由は違いますが、私が死ぬことを望んでいることがわかりました。私はかつては人々からの批判によって動揺し操られていました。サタンは中傷や悪口によって私を殺そうとしました。私が主を見上げて祈ったとき、神は人々からの批判を目的をもって意図的に起こされたことを悟りました。それによって私の中のその部分を殺すためでした。神はあなたをもっとよく(better)しようとしているのではなく、もっと死ぬように(deader)しておられるのです。つまり自分はしりぞいてキリストが私たちを通して生きるようにするのです。

 

私は神が「結婚」を制定された理由は、私たちを殺すためだったと信じます。私たち夫婦は結婚して43年です。結婚当初は、イタリヤ人同士でしたから、グリセリンとナイトロのようなものですぐに爆発しました。ある独身の男性が「私にぴったりの女性を見つけるまでは結婚しない。」と言いました。私は彼に「最初に結婚を承諾してくれた女性と結婚したらいいですよ。相手が誰でもあなたが死ななければならないのは決まっているのですから。」と申し上げました。

 

私が自分に死んだのは良いことでした。私の古い性質が十字架に付けられるのは良いことです。私が自分に死に、妻が自分に死んだとき、二人は一つとなりました。私たちが死ぬならば、キリストに似た者となる自由が生まれるのです。神は私たちとキリストを一致させたいのです。

 

神はアダムのあばら骨からイブを創られました。アダムは男性で、イブは女性であり、その中間ではありませんでした。つまり二人はお互いにふさわしかったのですが、正反対だったのです。妻は私とは違うものの見方をすることを私は知りました。そしてそれは悪いことではないのです。妻は非常に敏感に物事を感じ取ります。私には見えないことも彼女は感じることができます。皆さんの中で、奥さんが自分にはないレーダーを持っていると思う人はいますか?

私たちは妻の言うことを聞く必要が時としてあるのです。夫婦はキリストにあって一つに継ぎ合わされているのです。

 

私たち夫婦が旅に出るとき、妻が「あなた、今何を考えているの?」と聞きます。彼女は私の心の深い思いを知りたいのです。でも私はそんなものは持っていないのです。私が考えていたのは、「今車が坂を昇ろうとしているけれど、アクセルを踏んだら、ガソリン消費はどうなるだろう、、、、」とかなのです。でもそれを妻に言うわけにはいかないので、「中東の原油の問題を考えているよ。」と答えます。

二人が自分に死んでキリストが二人を通して生きるとき、私たちの人生は祝福されるのです。

 

これはキリストのからだとしても同じです。私たちが自分に死に、罪に対して死に、反抗する思いに死ぬとき、キリストが顕われるのです。私たちは祝福を受け、力を受けるところに到達するのです。神は私たちが栄光から栄光へと進むように意図されます。第二コリント3:18には「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とあります。

 

皆さんに一つ質問をしたいと思います。あなたがキリストの姿に変えられているのはどの点ですか?

神があなたの中でキリストの姿に似せようと今働いておられるのは何かご存知ですか? あなたの中で起っている戦いの最前線を知っていますか?

神が自分の中でしておられることを私たちは知る必要があるのです。それを知っていれば、私たちはそれに賛同し、それについて祈り、へりくだって神と共に働くことが出来るのです。多くの場合、クリスチャンは人生をふわふわと過ごしてしまい、「永遠においてはキリストに似た者となるだろう」くらいに軽く考えているのです。しかし、キリストに似た者となるのは、今、この地上においてなのです。今この地上で聖霊と一致するのです。神が現在自分の中で変えようとしておられるのは何かを知らねばなりません。

 

ピリピ2:12、13に「・・・恐れおののいて自分の救いを達成してください。

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」とあります。神が私たちのうちに働いておられることを、私たちは達成するのです。それは往々にして簡単ではありません。忍耐が必要です。しかし、途中であきらめるという選択肢を私たちは与えられていません。もうのんびりと横たわって努力をしないという選択肢もありません。

 

私の家族はシシリー出身です。皆さんはマフィアの映画をみたことがあるかも知れません。私の親戚はみんなシシリーの人間です。誰かが私を傷つけたとします。私がどう対処しようかと思いを巡らすとき、私の過去からの声が内に聞こえて私に語りかけます。「ボス、やつの足を折りましょうか?」と。私はその声を捕まえて捨て去らねばなりません。私は神を見上げ、恵みを受け、相手を赦さねばなりません。主は「あなたの敵を愛せよ。」と言われました。私の中の古い人は敵を殺したいのです。でも私は古い人にではなく神に同意せねばなりません。アーメンでしょうか?

 

もし私たちが神によって変えられるならば、この世を変えることができます。第二コリント2:15でパウロは「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」と言っています。私たちが傷つけられたり、不当な扱いや、偽りで身を切られるとき、その切り口からキリストの香りが御父の御前に立ち上るのです。痛みの中でキリストを顕すのです。不当な扱いを受けた時、私たちは赦し、あと一マイル行くのです(マタイ5:41)。御父はそれを喜ばれます。御父が喜ばれるとき、神の力が顕われ出るのです。

 

聖書に書かれていますが、御父が御子を見るときいつも同じことを言われます。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」バプテスマのヨハネにもそう言われました。イエスが変貌された山上で御父はペテロ、ヤコブ、ヨハネにも同じことを言われました。もし私たちが御父の御こころを顕し、喜んでいただきたいならば、私たちはキリストを顕していかねばなりません。そのためにはもう一マイル行くことを学ばねばなりません。それは内心ぶつぶつと文句を言いながら渋々行くということではありません。喜びと恵みをもって行くのです。神を信じていないこの世の人々は、イエスが本物かどうかを見るために、あなたを観察しています。私たちは彼らが神を知るために用いられる器なのです。人生で起る様々な侮辱に対して私たちがどのように対応するか、私たちの夫婦関係がどの位麗わしいか、というような事を通して私たちがキリストを顕していくとき、この世の人たちはそれを見るのです。彼らは口先だけの言葉ではなく、本当に効果のあるものを求めています。そして私たちはこの世で唯一効果があるものを持っています!それはキリストの命です。

 

私は旅に出る時、教会の事務的なことをすべて済ませてから出かけようと思います。妻は私が旅に出る前の晩はすばらしい食事を作ってくれますので、5時までに帰宅したいと思いますが、もう7時半になってしまいました。まだ家に帰っていません。やっと家に着いたとき、テーブルには何も料理が並んでいません。家の中は寒々としています。私は妻に「夕食はどこですか?」と聞きますと、彼女は「よくもそんなことが言えるわね!」と答えます。私たちは口をきかなくなり、寝る時間になります。お互いに背をむけてベッドに横になります。肉でも凍るような冷たさが二人の間にあります。いつもは寝る前に一緒に祈るのですが、妻とけんかをしているときは祈りを神様にファックスしておきます。

 

でも寝付くことができません。悪者には安息がないと聖書にもありますね。寝なければならないので、妻にむかって短く「すみませんでした。」といいます。でもそんな短い言葉では妻の心には届かないのです。私が何に対してすまないと思っているのかを妻はっきりと聞きたいのです。ですから私は「もっと早く帰ってくるべきでした。」と言います。すると妻は「私もすみませんでした。旅行に出る前はあなたの帰りが遅くなることがあるのを知っていました。」そこで私はもう少し彼女の方をむいて「本当にごめんなさい。どうか赦してください。 あなたは私の一番の友達です。」と言い、私たちは一緒に祈ります。苦々しさが私たちの心に根を下ろすのをそのままにしておいてはいけません。

 

イエスは「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなる」と言われました。主はこの世の人たちの愛のことを言っているのではありません。この世はもともと愛を持っていないからです。主は私たちクリスチャンの愛のことを言っておられるのです。今は不法、罪がはびこっているので、多くのクリスチャンが腹を立てています。しかし、そうであってはなりません。私たちは心を柔らかく純粋に保ち、もう一つの頬も向けたいのです。

 

実際のところ、私たちが腹を立てる状況を神は意図的に作られるのだと思います。でももし私たちがキリストに似た者になるならば、私たちの愛はどんな状況においても腹が立たないようにするのです。苦々しい思いを抱くのではなく、大いなる愛を見出すのです。

 

今晩皆さんも私と一緒に新しい決意をされるようにお招きしたいと思います。キリストのようになることを追い求めることを、聖霊によって私たちの心が新しくされることを、自分の魂のために戦うことを、キリストを顕していくために戦っていくことを決意するのです。ただ受け身ではいけません。自分の魂が罪によって捕らえられるのをそのままにしないのです。今私たちは確固たる信念を持たねばなりません。なぜならばこの世の霊、イザベルの霊があなたを捕え罪の虜にしようとするからです。私たちは神の霊の剣を抜いて歩かねばなりません。そしてすべてのはかりごとを虜にしてキリストに服従させねばなりません。妥協はもう捨て去りましょう。そしてキリストのご性質をしっかりと掴みましょう。

 

皆さんもそう決意されるならば、どうか立ってください。一緒に祈りましょう。

祈り

聖霊様、今私たちの上に来てください。私たちが真剣に神からの召しを考えるように、あなたの命を私たちが受けて、あなたの香りが私たちから立ち上りますように、今晩、私たちはいと高き方のために祭壇を築きます。キリストのように歩むことを再びここに決意することを、この世の中で何が起ろうとも、私たちはキリストによって支配されるように、今晩、私は私の心をキリストに服従させます。私の人生を主を追い求めることに用い、価値のないことに浪費しないことを。主よ、あなたは最高のものを最後までとっておかれました。私はあなたが持っておられる最高のものを得たいのです。イエスの御名によって私は人々を引き止める罪の鎖を断ち切ります。今は新しい時です。イエスと共に歩み始める解放の時です。主に御名において、アーメン。(終り)

 


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