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01 2月

預言者エリヤのように「祈り通す」人になりなさい ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン (1/11/15のメッセージ)


預言者エリヤのように「祈り通す」人になりなさい
ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン (1/11/15のメッセージ)
ヤコブ書5:17「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六ヶ月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」
皆さんの教会に来週ゲストスピーカーとして預言者のエリヤ師が来ると知ったら、その日に出席するかどうか、もう一度よく考えて慎重にお決め下さい。なぜなら、この預言者は非常に恐ろしい人であるからです。少なくとも彼は退屈なお話をする人ではありません。全くその逆で、燃える火のような人であり、危険でさえある人だからです。
最近はそのような「恐れ(畏れ)られる神の人」と呼ばれる預言者はいなくなりました。第一、敵が恐れません。又、罪深い人も恐れません。そのように真に力があって、畏敬されるような「神の人」はいなくなりました。
ヤコブ書5:17の始めに「エリヤは、私たちと同じような人でした」と書かれていますが、それは、彼は私たちと同じような普通の人間であったと言う意味です。私たちと同じように苦しみ、あがき、痛みを経験した人であり、私たちと同じように感情的にもアップ・ダウンがあり、悩みも、ストレスも、落ち込んだことさえもあった人でした。又、時には自分は失敗者と感じ、神は私の祈りを聞いてくれない、こんな困難は乗り越えられない、私には何もいいことはない、もうだめだと言うように、全く私たちと同じような経験を通った人であったのです。
悪魔は、私たちに「あなたのようにこんなひどい目に遭う人は他にいない、あなただけが特別に苦しんでいる」とささやき、又「あなたの苦しみは誰も分かってくれない、心配してくれない」と告げるのです。すべての人が悪魔にそう思わせられるのですが、それはエリヤと共通している点です。
しかしながら、一つの点においてエリヤは他の人々と異なっていたことがありました。それは、彼が「熱心に祈った」ことです。しかも単に熱心に祈っただけではなく「祈りが聞かれるまで、どんなことがあっても祈り通した人」であったことです。人が亡くなると葬儀の時に、集まった人々がその人への賛辞を述べますが、あなたが天に召された時、クリスチャンとしてのあなたは「熱心な祈りの人」であった、しかも、「祈り通す人」であったと言われたいと思いませんか。私はそれを望みます。私たちは祈りを除けば、この世のすべての人と全くと言っていい程何の変わりもないからです。
今年2015年は勝利の年であると私たちは宣言しました。そうであるなら、私たちは今年を「祈りの年」にしなければなりません。しかも多くの祈りを、一つ一つ「祈り通す、祈りきる年」にすることです。なぜなら、祈りきらなければ勝利はないからです。私たちの教会は、力のある教会と言われたいです。しかも「祈り通す力がある教会」とならなければなりません。最近はわざわざ膝がすり切れたように作った新品のジーンズを売っていますが、そんなジーンズを着るのが格好いいのなら、私たちはこの一年を、涙を流し、ひざまづいて祈り通し、それによって膝がすり切れてしまったジーンズを身に着けようではありませんか。あなたが本当に主にあって決意実行すれば、この「祈り通す」ことを阻むものは何もないはずです。
私の祖母が倒れた日のことを忘れません。それは私が13歳の時でした。土曜日の朝でしたが、私たちは父と母と兄弟そろって教会の祈り会に出ておりました。その祈りの時間を通して私は「おばあちゃんのところに早く行かなければならない」と言う思いに駆られていました。祖母の家に着いてドアをノックしたところ返事がなく、その家に住んでいる同居人にドアを空けてもらい中に入ると、廊下にうつぶせになった祖母が、脳梗塞を起こし左側半身不随のまま倒れていました。直ぐ病院に運び込み、緊急手術に入った結果、医師が言うには、この人の心臓の2/3は既にかなり前から機能停止していると言うのです。恐らく10年も前に大きな発作が起こり、その後も何度か発作が起こっていたに違いなく、僅か1/3の心臓で今まで生きて来られたことは奇跡だと言うのです。彼女は昔から祈りの人であったのですが、数度の発作を誰にも言わずに祈りだけで生き延びて来ました。考えられないような不屈の信仰、彼女はそれだけで生きて来たのです。と言って、私は皆さんに脳梗塞が起きたらこうしなさいと言っているのではありません。祈りの力がどれ程大きいかを分かって欲しいのです。
エペソ1:3に「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」と書いてありますが、その祝福が欲しいのなら、私たちは天に行って取って来なければなりません。私たちは霊的にベービーであった時は、主ご自身が霊の祝福をスプーンで私たちの口に入れて食べさせてくれました。しかし、霊的大人に成長すると、主は祝福が欲しいなら天のキッチンまで自分で上がって来て食べなさいと言われるのです。そのために天のドアは既に開かれています。ここにいる人の中には神が天から祝福を降らせて下さるのを待っている人が大勢いると思います。しかし神は、私たちが祈りで天に上がって来ることを待っておられるのです。祈りが天に昇って行くまでは祝福は降りて来ません。
私はオールド・スクール(古いタイプ)と言われる人間かもしれませんが、祈る時は膝まづいて祈ると共に、神の前に出るのですからキチンとした服装で、身だしなみを正して祈ります。
エリヤは私たちと同じでした。しかし彼は祈ったのです。ここの「祈った」と言う原語は二度重ねて祈るーすなわち「熱烈に祈った」と言う意味です。ロマ書8:24に「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」とありますが、私たちが精魂こめて祈る時に霊的に「うめく」ような激しい祈りとなる、それは聖霊ご自身が私たちを満ち溢れさせて下さるからです。私たちは、まさにそのようなうめく祈りをせねばならず、そうでないと「祈り通す」祈りにはならないのです。それは決して宗教的な祈りではありません。最近はこのうめく祈りをする人が少なくなりました。
情熱をもって祈り通す人は大胆になります。エリヤはアハブ王に、「私が雨が降るように再び祈るまでの数年間は、つゆも雨も降らない」と告げました。(1列王記17:1)なぜ彼はそこまで言いきれたのでしょうか。それは彼が祈りきったからです。エリヤの祈りとは、初めは人間的な情熱と人間的な強い願いによる祈りであったものが、最後は神のみが持つ神聖で激しい情熱の祈り(深いうめき)に変えられたのです。私たちの祈りもそうであるべきです。彼は神の御心を確信をもって知っていたのです。
私が10日間断食した時のお話をしたいと思います。その断食中の8日目の夜になって、私は妻に「もう断食を止めることにした。外に出て何か美味しいものを食べて来る。」と言いました。その時の妻には知恵がありました。落ち着いて静かに、「今夜もう一晩断食を続けて、明朝になって、それでも止める気持ちが変わらなければ、好きなものを何でもお腹一杯食べたらいいでしょう。今夜は書斎にもどって祈ったらどうですか。」と言うのです。それは夜の8時頃でした。私は同意して部屋に帰り、祈り始めました。ところが頭に思い浮かんで来るのは食べ物のことばかりで祈りに入れないのです。特に大好物のブリトー(メキシコ料理)です。最初の30分、私は主に向かって「助けて下さい。食べ物のことばかりに思いが行って祈る気になりません。どうか助けて下さい。」と嘆願しました。皆さん、そう言う時には、自分の気持ちに逆らわず、正直にその状態のまま主に委ねるのです。すると突然頭に詩編23編の最初の「主は私の羊飼い。私は、とぼしいことがありません。」(訳者注:この後半は、英語の欽定訳では I shall not want となっています。つまり「何も欲しがらない」です。)その時の私は本当は I shall want なのですが、私は敢て I shall not want を繰り返し口に出して祈りました。するとその後15分後に、突然神が私の中に入って来られ、私の食物への強い欲望が神への情熱に取って変えられました。それからの3時間、私は今までにない神の深い部分、霊の深みと祈りの深みに引き入れられました。私の肉の欲が神の聖い思いに一気に変えられたのです。
そこで私は真夜中12時に一度部屋を出て、妻にそのことを伝えに行った時、私の顔は輝いていました。私は妻に神とのこんなにすばらしい交わりをブリトーと交換したいと思った自分が信じられないと伝えました。
私はその時、私の「肉の性質と情熱」が「主の性質と情熱」にトランスフォームされるプロセスを経験をしたのです。あなたが神の神聖な御性質に預かる経験をし始めると、あなたの祈りが変えられ、あなたは神の情熱で祈り始めます。そして、神の情熱を経験し始めると、あなたの人生が変わり始めるのです。
ここでエリヤの祈りにもどりましょう。ヤコブ5:17を見て下さい。エリヤは一体何を祈ったのでしょうか。彼は、こともあろうに干ばつを祈ったのです。普通祈るとすれば干ばつの時に雨が降るのを祈りますが、彼は神に干ばつを要求したのです。しかも敵国の地にではなく一番雨が必要な、愛するイスラエルの全地に雨が降らなくなることを祈ったのです。それはなぜかーそれは、その時のエリヤはイスラエルにリバイバルが起こることだけを望んでいたからです。リバイバルはエリヤにとって最大の関心事でした。
預言者とはあくまで神に忠実に尽くす人であると同時に、その国の民を誰よりも愛する人であると言われます。彼は国の経済にとっては何よりも雨が必要で、それがどれ程祝福となるかを考えていない人ではありませんでした。しかしエリヤは、国自体を神に引きもどすことこそ、神の最大の御心であることを知っていましたから、心が引き裂かれる思いで、敢てそれを祈り通したのです。
私は、クリスチャンが祝福を豊かに受け大いに繁栄すること prosperity を信じます。ですから、クリスチャンとしてビジネスに成功する方法のセミナーを開いたりします。しかし、私自身は昔からお金に興味はありません。私の No.1プライオリテイーはこの国の国民が神に帰ることであり、世界中にリバイバルが起こることです。しかし、そのために熱心に祈るうちに、神は時として私たちに、祝福に反することが起るように祈ることを示されます。
私の弟が未だ救われてなかった頃でしたが、私は何とかして弟が救われることを祈っておりました。或る夜、真夜中過ぎに神に起こされました。主は私に、未だ帰宅していない弟のベッドの横に立って祈りなさいと言われるのです。そこで私は神に示された通り、弟のベッドに手を置き「弟がこのベッドでは安眠できないようにして下さい。」と祈りました。彼の枕が石となり、眠りを盗むことを祈ったのです。すると、弟はその後二週間、ベッドではなぜか眠れないからと言って床の上で寝ていました。そしてついに教会での招きに応じて前に出て救われました。未だ救われていないあなたの夫とか奥さんが救われるために、一時的に神がその人の心に悩みを与えるようにと、示されてそのような祈りをしたことはありませんか。
私の両親はある時、私の働いている場所が正しいところではないと言う理由で、私がそこを首になることを密かに祈り、それが実現しました。又ある時は、私が付き合っていた女性が私の将来にふさわしい人ではないと言う理由で、その女性と私の仲が裂かれるためなら何でもいいから起こして欲しいと母は祈り、そうなりました。又、私たちの住む通りにいつも駐車されている一つの車があり、その車が罪のために用いられていることを母は知っておりました。そこで母はその車に火がついて燃えることを祈り、同時にその車の持ち主が主に立ち返ることを祈ったのです。二週間後にその車は炎上しました。そして神はその車の持ち主をご自分に立ち返らせずに車を破壊するような神ではありませんでした。
エリヤは神が民に背を向けるようにではなく、神に背を向けている民が神にもどるように、民から一番必要な雨を取り上げることを祈ったのです。エリヤは祈ったことが実現していることを見届けた上で、カルメル山に全イスラエルが集まることを要求しました。そしてエリヤが献じたいけにえに天から火が降りて、イスラエルの神が唯一真の神であることが証明され、バアルの預言者たちは皆殺しになりました。
その後エリヤが再び祈ったことが、5:18に書かれています。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」ハレルヤ!
エリヤは3年半の後に雨を降らせる祈りをもって当初の祈りを完遂したのです。その時のエリヤはカルメル山上で地にひざまづき自分の顔を両膝の間にうめて必死に祈りました。そのエリヤの祈りは何かを生み出すための熱烈な祈りであったのです。
2015年に、私たちは大きな勝利を勝ち取る決意をしました。しかし勝利への道は祈りで鋪装されなければなりません。今日神の霊は、私たちが決意することに私たちを召しておられます。それは自分の力によるこの世的情熱によって祈るのではなく、神の霊の情熱で「祈りきる」ことを決意することです。そうなればあなたに祈らせないようにするものは何もありません。私たちは、今までこの世的な情熱の多くを体験し、そのような世俗的情熱が、私たちを神の霊の情熱の領域に入らせないようにして来たことを認識しなければなりません。そうすることによってのみ、私たちは神の情熱によって、神の御心を祈りきることが出来るからです。
エリヤと私たちは同じ人間的感情を持っていることにおいては何ら変わりません。しかし、エリヤは自分のこの世的・人間的情熱が彼の神を追い求める純粋な情熱を阻むことを拒否しました。エリヤが私たちと違うのはここにおいてです。エリヤの祈りを阻むものは何もありません。私たちもエリヤのような祈り手にならねばならないのです。今日それを決意して下さい。
私たちの祈りはなまぬる過ぎます。だから力がない、色も味もないのです。ヤコブの5:16に「義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである。」と書いてある通り、神は私たち一人一人が力強い、効果ある祈りをする男女になることを期待しています。私たちが祈ると地が揺れ動く、そのような力ある祈りを神は要求しておられます。
私は誰かが本当に激しく祈っている時とか、激しく主を求めている時は、霊でその炎を感じ取ることが出来るようになりました。どうしてかと言えば、私が未だ小さかった頃、隣の部屋でうめき声と共に声を出して天の父に祈る母の熱烈な祈りを聞いて育ったからです。私が二歳になるかならない頃に父が激しく祈っていた声も未だに覚えています。私が妻に惹かれて結婚した理由は彼女が熱心に祈る姿からでした。又、私の祖父母たちからも同じ激しい祈りのライフスタイルを学び、その効果を見て来ました。声を大きくして言います。祈りが物事を変えるのです。従って私自身もそのような祈りの人になりたい、そうなることが当然と思って主を求めて来ました。
祈ることによってのみ、あなたはいかなる勝利をも勝ち取ることが出来ます。私は神の霊から与えられた祈りをもって神に泣き求める時、その実現を阻むものは何もないと堅く信じております。聖書は言います。「絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:18)
もう一つのパワフルな証しを申し上げます。私たちの5歳になる娘が、教会の若者二人が「祈り」について話しているのを聞いていました。一人が「私は祈ったけれど何も起こらなかった。」ともう一人に語っているのを聞いた娘がこう言ったそうです。「もし祈って何も起こらなかったら、祈り続ければいいのよ。私の両親は結婚した後、私が生まれることを一生懸命祈ったけれど何も起きなかったの。二年目が過ぎても私は生まれない、そこで次の年も熱心に祈ったけれどだめ、そして4年目、5年目、6年目、7年目と 祈り続けてやっと8年目になって突然お母さんのお腹が大きくなり始めて、私が生まれたの。あなたも祈り続けたら、神様は必ず答えて下さるのよ。」と二人に伝えていたと言うのです。
この話は、娘が繁く聞くものですから、毎週のように私が娘に伝えて来た彼女の誕生のストーリーです。娘にとって、彼女が生まれるためにどれだけ私たち夫婦が祈って来たかが大変印象深かったようです。しかし私が知らなかったことは、この話が彼女の祈りに対する信仰を深め、特に祈りとは「聞かれなかったら聞かれるまで続けて祈る」ことであると言うことが、既に5歳の彼女の心に叩き込まれていたことです。
今の私たち、教会は、「祈りの力」をほとんど忘れています。失いかけています。祈りの教会は少なくなりました。今の時代、今の世の中では、何にも増して「祈りの教会」が必要です、切望されております。祈る教会こそがリバイブされねばなりません。「祈る教会」には祈ることを信じる人が必要です。「プレイヤー・ミーテイング」という名の集会をすればいいのではありません。祈りの戦士 prayer worrior が切望されています。
どこにいようと、どの国にいようと、私は祈ります。神の御顔を求めます。求めずにはおられません。あなたのパッションの向こう側には神のパッションが待っており、あなたが神のパッションで熱心に祈ることを神は望んでおられるのです。あなたがそのように祈らなければ、あなたに欠けているものが何であるかがわかりません。より高いところにはもっと高いところがあり、より深いところにはもっと深い深淵があるのです。神はあなたにもっと啓示を示したいと願っておられ、もっと大きなわざを見せたいと願っておられます。(終わり)

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