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Walk With God Ministries

10 1月

神の宮の建築地   フランシス・フランジペイン   2015年1月10日


 

神の宮の建築地

 

フランシス・フランジペイン

 

二つの神殿

 

聖書は二種類の神殿について語っています。一つは石で造られたもので、イスラエルに建てられました。もう一つは人で造られるものであり、即ちそれは「教会」です。ソロモンによって建てられた最初の神殿は、予め神に選ばれ定められていた場所に建てられました。神は石の神殿のために注意深く建築場所を選ばれましたが、それと同じように神は私たちを人の神殿にしようと、私たちの心の地形をじっと見ておられます。

 神殿の場所の選択は、その場所で二つの重要な出来事があったことに起因しています。この二つの出来事は長い年月を隔てて起こりました。しかし、それは私たち自身がなるべき二つの大切な霊的要素を持っています。一つ目はアブラハムの人生で起ったことです。

 

 主はアブラハムに息子イサクを与えることによって、彼に霊的成就をもたらしました。しかし、アブラハムに、自分の神に対する愛と神が彼に与えたものに対する愛とのどちらかを選ばねばならない時がきました。主はアブラハムに息子をモリヤの地に連れて行くように命じられました。そして、アブラハムは神が選ばれた山の上でイサクを捧げるように告げられました。

創世記22:4、5「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それで、アブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻ってくる。」と言いました。

アブラハムの「わたしたちは礼拝して戻ってくる」という言葉に注目してください。私たちはここで、神を心から礼拝している環境においては、信仰が完全になることを見ることができます。アブラハムの信仰が「私たちは二人とも戻ってくる」と彼に語らせましたが、彼が上っていくことが出来たのは、彼の神を礼拝する態度でした。この話はよく知られています。ナイフをもってイサクを殺そうとしていたアブラハムを主の使いがとどめました。しかし、神がご自分のしもべに従順を求められたことは、確かに神の計画であり目的の内でした。アブラハムの神に対する愛が試みられ、それが本物であることが証明されたのでした。

 

それと同じように、私たちが主の家の一部とされる資格を得るために第一に持つべき姿勢は、神を崇め礼拝する心です。私たちは自分の最愛のものを神に喜んで捧げねばなりません。もしあなたが牧師ならば、それは自分のミニストリーや教会に関しての自分の夢を神に明け渡すことかもしれません。もしあなたがとりなし手ならば、ローカルの祈り会のリーダーとしてのポジションを捨てて、もっと大きなキリストのからだの働きの中に合流することかもしれません。

 

人が死ぬときには、究極的に、すべてのものを神に明け渡さねばなりません。キリストの家を建て上げるために召された人は、最愛のものさえも神に明け渡すことによってそれを実行するのです。アブラハムは彼の最愛のもの、即ち神の約束の成就であったイサクを神に捧げました。彼は自分のすべての夢を自ら築いた祭壇の上に置いたのでした。

 

アブラハムは全能の神にとって死は障碍ではないことを知っていました。彼は神がご自分の約束を成就してくだることを信じました。それと同じように、神がご自分の家を建てるために用いられるのは、神に自分の最愛のものを喜んでささげる者たちなのです。

すべてを明け渡して礼拝する者の心の中に、神はご自分の家を建てられるのです。

 

全額を支払う

 

霊的な神殿のDNAを表す次の出来事は、ダビデ王の生涯に見ることができます。ダビデはエルサレムを見下ろす山の頂上に立っていました。彼の罪により神の怒りが国の上に降り掛かりました。それを悔い改めたダビデに対して、神は、オルナンの打ち場に主のための祭壇を築くようにと命ぜられました。オルナンは自分の牛とたきぎにする脱穀機を無料で差し出しましたが、ダビデはそれを拒み、次のように言いました。

 

1歴代誌21:22−24「私に打ち場の地所をください。そこに主のために祭壇を建てたいのです。十分な金額で、それを私にください。神罰が民に及ばないようになるためです。...私はどうしても、十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主にささげるわけにはいきません。費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくないのです。」

 

ダビデのこの態度は神が求めておられる心を如実に表しています。私たちは「あるがままの姿で」キリストのもとに来て救いを得ることが出来ますが、救われたのちには、他のクリスチャンと結合するという(大きな)代価を払うことによって神の宮とならねばならないのです。私たちが真に神に仕えたいと願うならば、その時私たちは、私たちの心のすべて(全額)と、払うべき金額のすべて(全額)を支払って仕えねばならない、そのようにしようではありませんか。

 

次に、オルナンがユダヤ人ではなくエブス人であったことを考えてみましょう。エブス人は先の戦いでダビデによりこの地から追放されたのですが、オルナンはそのまま残っていたのです。ダビデは彼の土地を分捕り品として取りあげることも出来たのですが、それをしないで彼は全額を支払ったのです。

愛する皆さん、ダビデの態度は アメリカの典型的キリスト教会の人たちの態度・考え方とはまったくの正反対です。私たちのほとんどはどうにかして安価な近道 shortcuts to God を見つけようとし、ヴィジョン(正しい見識)も(全き神えの)コミットメントもなしにただ漂っているのです。神に近づく近道を捜したり、他人のものを主に捧げたりするのを止めようではありませんか。そして全額を払おうではありませんか。

 

深い洞察

 

時は流れ、すべての人と同じようにダビデも死にました。神殿を建てるというダビデのヴィジョンを成就したのは息子のソロモンでした。神殿を建てる場所に関する聖書の記述を見てみましょう。

第二歴代誌3:1「こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現された所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。」

注目すべきことに、ダビデが代価を払わずにいけにえをささげることを拒否した山はモリヤ山であり、それはアブラハムがそれより6世紀前にイサクをささげたのと同じ場所だったのです。

 

愛する皆さん、主が戻って来られる前に、主の家の山は堅く立てられ、すべての国々がそこに流れてくることを、聖書は私たちに約束しています。(イザヤ2:2参照)

私たちが神の祭壇に最愛のものをささげる者として、又、礼拝者として召されていることをしっかりと胸に抱こうではありませんか。そして、今の私たちの時に、私たちの中に、主の家が再建されることを見るために全額を払おうではありませんか。

 

祈り:主イエスよ、私のすべてをあなたにささげたいと願います。自分を犠牲にするという値を払わずに済むいけにえや、借り物のギフトをささげたことをどうかお赦しください。私は、私が支払うべき一切の代価のフル・プライスを払いたいと願う者です。主よ、大切なことは、私があなたのために何かができるということではなく、あなたが私をどのような者にしてくださるかであることを知っています。私のすべてをあなたにおゆだねし捧げます。私の人生があなたの家にふさわしい質の高いものでありますように。私のイサクを祭壇にささげる信仰と礼拝の心をどうかお与えください。御名によって祈ります。アーメン(終わり)


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