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Walk With God Ministries

08 11月

私たちは主に嫌われる人になってはいけない          坂  達 也  2014年11月8日


私たちは主に嫌われる人になってはいけない

 

                    坂  達 也

 

この世の中には三種類の人間しかおりません。その中に、主が最も嫌われる人たちがいるのをご存知ですね。そのような人を主は、口から吐き出す程嫌いであると言われます。それは一体誰でしょうか。なまぬるいクリスチャンです。

 

 黙示録三章でラオデキヤにある教会に向けて主はこう言われます。

「15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。16このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。」

 

そうです。三種類の人間とは「冷たい」か「熱い」か「なまぬるい」かの人間です。主は「むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。」と言われます。私は未だクリスチャンになりたての頃ですが、この聖句を読んで直ぐ思い当たったのはコーヒーのことでした。コーヒーは熱いか冷たいかに限りますね。まさに、なまぬるいコーヒーは本当に口から吐き出したくなります。

 

ここで主が言われる「冷たい人」とはどんな人でしょうか。一般的には霊的に全く冷たい人、すなわち未信者を指すと思います。主は未信者に対しては大きな期待を持って接し、嫌われません。可能性があるからです。うまく導いて、真の栄光あるゴスペルを教え、正しく弟子訓練すれば「熱いクリスチャン」にすることが出来るからです。

 

 主は又、「あなたはクリスチャンとして冷たくもなく、熱くもない」と言われているように思いますが、その意味について、私は少し別のことが頭に浮かびました。クリスチャンは冷たいならうんと冷たい、すなわち「自分の肉に死んで冷たい」人間でなければならないことです。

私が最後にクリスチャンの死体に触ったのは、3年程前に亡くなった姉の身体でしたが、死体とはこんなに冷たいものかと驚きました。私たちは生きている時から肉にはこれ程冷たく死んでいなければならないのだと言うことに気がつかされ、そのことをとても印象的に覚えています。やさしい顔の姉の死体が冷たく横たわっている姿を見て、私は悲しみよりも、むしろ姉の霊と魂がこの世のすべての労苦から解放されて、今は主と共に天に召されて喜んでいる姿を頭に浮かべ、冷たい死体にいとおしさを感じたのでした。

 

皆さんは、肉の身体に死にきれずに、未信者と変わりないほど生暖かく、又、霊的にも熱くない「なまぬるいクリスチャン」ではありませんね。私もそうでないように心がけています。

一方「霊的に熱い」とは、原語の「熱い」は煮えたぎる程熱い意味だそうですから、私たちが主イエスに対して「熱烈な愛とパッションを持つ」クリスチャンにならなければならないという意味でありましょう。

 

それでは熱い情熱に燃えるクリスチャンとは具体的にどんなクリスチャンなのでしょうか。

 

 私たちクリスチャンはビル・ジョンソン師が言われるように、「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。・・・」(マタイ6:9、10)と言う「主の祈り」をこれまで祈り続けて来ました。しかし、主は今、私たちがただ祈るだけでなく、実際にその祈りを実現する人になることを期待しておられます。つまり誰かが天で行っていることを地でも行うーそれを実際に行動に移すことをしなければなりません。そして今、その時が来たのです。ご存知の通り、今そのような天から持ち込んだ色々な奇跡がどんどん起こっています。

 

天の御国(高次元)では、日常誰でも超能力を使うことが出来、病気の人はいません。必要なものはすべて充たされる世界です。(主の祈りに「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」と言う祈りがある通りです。)

又、天にいる人だけでなく、地上のクリスチャンでも、霊の力を働かすことの出来る人は、どこへ行くのも望めば一瞬にしてぱっと目的地に行けます。これを瞬間移動 translationと言いますが、聖書では地上でそのような奇跡がなされたことが書かれています。その実例として、ピリポの場合:使徒8:39−40、イエスの場合:ヨハネ6:21があります。現に、この世のミニストリーでこの超能力を利用している人がおりますが、一瞬にして無料で世界中どんな場所にでも移動できるのですからすばらしいではありませんか。

 

 それと共に霊の世界では複数の場所に同時にいることが出来ます。その例としてエペソ2:5、6に「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。」と書かれています。

ここで、私たちはイエスと共に既に天の御座についていると書かれていることにご注目下さい。いや、それは霊の形でであって実際に肉の形では地上にいるではないか、と反論されるかもしれませんが、実はその通りです。霊で生きているクリスチャンは、肉と霊で二つの場所に同時に存在出来るのです。聖書には「見えるもの(一時的)にではなく、見えない(霊の)もの(永遠に続く)にこそ目を留める」と書かれているように霊の世界、霊のものにこそ真の永遠の力が具わっているのですから、私たちが既に霊的にイエスの中にあって天の御座に今もイエスと共に座しているという事実を信仰で確信しているならば、それが可能なのです。事実今、天と地の間を瞬時移動して往復し、天で主にお会いするだけでなく、既に天に召された多くの人に会って来た人がどんどん出て来ています。

 

私は、実はこのところ、今真剣にそのことを心から願い、毎日主に「顔と顔を合わせてお会いしたい、お話したい」と心熱く嘆願している最中です。これはクリスチャンとして必ず聞かれる願いであり、主の方こそ私たちがそう願い出るのを待っておられる、当然実現する願いであることに気がついたのです。

 

 なぜかと言えば、私たちクリスチャンは第一に「主の花嫁」であり「主のからだ」として既に主の中で生きている、主が私たちの中に生きている、と言う「一体」の関係にあると聖書にはくどい程書かれているではないですか。そんなのっぴきならない関係にあるとすれば、特に、私たちがキリストの花嫁であるのなら「花婿である主に未だ一度も顔と顔を合わせてお目にかかっていない」などと恥ずかしくて言えないと、少なくとも私は思います。いや、夢の中とか、幻で主とあった人は多くおられると思いますが、私はモーセのように、主と本当に顔と顔を見合わせてお会いし、親しくお話ししたいのです。

 

そこで、主にお会いするには、天に私を呼んでいただくか、あるいは私のところに主が来て下さるかのどちらかですが、私は今両方お願いしております。

と言うのは、私たちが「御国をこの地に来らせる」と言う最も重要な役目の一つを仰せつかっているのであれば、天の御国の王であるイエスが、この終末の一番大事なときに王自らがもっと頻繁に地上に出て来られるのは当然でありましょうし、一方、私たちも誠実なビジネスマンのように業務打ち合わせのため足繁く天に出張するのは当たり前ではないでしょうか。

 

最後にもう一度申し上げたいことは、主にこのことをお願いするためには、主に対する熱烈なパッションを持つことが絶対に必要であると言うことです。主の花嫁になる最も大事な資格は、主を熱烈に愛し「毎日会わずにはおられません」と叫ぶ人になることではないでしょうか。そうなるためには、決して「なまぬるいクリスチャン」であってはならないのです。ですから主は、なまぬるい人を口からへどのように吐き出すと言われるのです。

私たちがなまぬるいクリスチャンになってしまったとすれば、その最大の原因は、私たちがあまりにも宗教的に育ち、あまりにも頭のクリスチャンで過ごし過ぎて来たからであると思います。その結果、私たちはいつまで経っても「力のない能力の低い肉の人間」のままで甘んじて生きることに抵抗を感じなくなったのです。私は今、自分がそうであったことを心から反省し、悔い改めております。そして激しく主を求めております。

 

考えてみて下さい。私たちクリスチャンの一人一人に聖霊が内住して下さっていると言う驚くべき事実を、皆さんはどう受けとめておられますか。聖霊は、私たちがこの地上で天の超能力を最大限に発揮するように、私たちを助けるために来られたのです。私たちはもはやか弱く能力に劣る「肉の人間」ではありません。聖霊の助けを借りれば、イエスが「わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行う」(ヨハネ14:12)と言われるような超能力を持つ霊の人間に生まれ変わったのです。

人間が神から受けた恩恵の中で、イエスの十字架の御業と並んで、イエスに信仰を持つ人間それぞれに、助け主として聖霊を賜ったことほど偉大な賜物は他にありません。クリスチャンはそのことの意味をもっと魂の奥底から認識する必要があると思います。創造者の神のなさった創造行為で、これ以上に大きな奇跡、又、これ以上に大きな神の愛と恵みが他にあるでしょうか。(終わり)



2 Responses to “私たちは主に嫌われる人になってはいけない          坂  達 也  2014年11月8日”

  1. By 小林葉子 on 11月 10, 2014 | Reply

    坂先生、
    一度、マンハッタンでお会いしていただいたことのある小林です。その日節は奥様と共に時間を割いて下さり、大変ありがとうございました。
    先生のこのメッセージ、響きました。キリストの花嫁として主が創造してくださった私たちですのに、確かに何というもったいないというか、あるまじき姿でいることでしょうか。私も花婿であられるイエス様にもっと情熱を傾けられるように祈ってまいります。
    メッセージに改めて感謝します。

    追記: キリストの花嫁と呼ぶにふさわしいほど今、熱烈に主の御顔を求めておられる教会の牧師先生がNJにおられます。坂先生にお会いしたがっているのですが、先生はお住まいを移されたのでしょうか?

  2. By walkwithgod on 11月 16, 2014 | Reply

    小林葉子様
    大変ご無沙汰しております。ご挨拶が遅れましたが、私たちは今年の3月末をもってニューヨークを引き払い、今はサンフランシスコ近郷の Walnut Creekというところに引っ越して来ました。息子夫婦と孫も私たちより一足先に転勤引っ越しで、近くのオークランドにおります。
     皆様にお知らせもせずに引っ越して来てしまい大変失礼しました。どうぞご一緒にお会いした皆様にくれぐれもよろしくお伝え下さい。
     さてこれから私もどんどんメッセージを書いてゆくつもりでおりますので、どうぞよろしくお祈り下さるようお願いします。
    ところでニュージャージの先生と言われる方は中島先生でしょうか。先日お便りいただきました。それでは取り急ぎご一報申し上げます。  坂 達也

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