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Walk With God Ministries

01 9月

時とシーズン (その2)    ボビー・コナー & ポール•キース•デイビス     2014年9月1日


時とシーズン (その2)

ボビー・コナー & ポール•キース•デイビス(2014 年7月19日収録)

 

PK:私は「Thrones of Our Soul」という本の中で、救いの段階、プロセスについて書きました。救いは神からのギフトですが、油注ぎを受けるには代価を払わねばならないと私は思います。「勝利を得る者」には多くの祝福、報いが与えられると書かれています。勝利者ということは、何かと戦って勝利するということです。これについて少し詳しく話してくださいますか。

 

ボビー:箴言23:23に「真理を買え。それを売ってはならない。」とあります。買うというのは、即ち、代価を払うということです。これから数日のうちに、数ヶ月のうちに、数年のうちに、真理はとても高価なものになります。真理を水増ししたり、変えたりする教会が増えてきます。聖霊が来るときは、完全な真理を告げます。ですから私たちは聖霊のメッセージが必要です。勿論、愛をもってすべての真理を語るのです。あなたが愛していることを相手が信じるならば、語れないことは一つもありません。

 

PK:今まで私たちはいろいろとミニストリーをしてきましたが、これからはまた一段レベルの違うミニストリーが始ると思います。荒野でモーセはイスラエルの民に水を与えるために、一度目は岩を一度打ちました。それは神の力のデモンストレーションでした。しかし2度目は岩を打つのではなく岩に命令するように言われました。モーセは神の指示に従いませんでしたが、これは神の権威のデモンストレーションになるはずでした。このことが今の私たちへのサインではないかと思います。例えば、今までは人々に手をおいて癒しを祈りましたが、これからは権威をもって病気に対してその人から去るように命令するようになるのではないかと思うのです。ブラナム師(William Branham)はそれを「スーパー・アノインティング」と呼んでいましたが、その油注ぎがくると聖霊が「何でも言いなさい。そのようになります。」と言われたそうです。それはすごいことですよね。神はシンプルな事でそれを証明してくださいました。ある日彼はリスを獲りに行ったのですが、リスが見当たりません。神が「リスが現れるように言いなさい。」と言われるので、そのようにするとリスが一匹現れましたので、それを撃ちました。神は「もう一度やってごらんなさい。」と言われるので、彼はまた「リスよ、現れよ!」と言うとまた一匹現れたので、それを撃ちました。彼は「これは幻かもしれない」と思ってリスのところに行くと、血を流したリスが本当にそこにいました。彼は「権威ある言葉の力」というメッセージを語っています。ボビーさん、あなたも権威ある言葉の証がありますね。

 

ボビー:はい。いくつかの証があります。一つは9年ほど前のことですが、アメリカの北東部で山火事がありました。一日に百万ドル以上かけて消火活動が行われていましたが、まだ火は燃え盛っていました。私はその時、テキサス州の集会でメッセージをしようとしているところでした。主が「ボビー、あなたはあとどのくらいこの火事を燃えたままにするつもりですか?」と言われたのです。私は「主よ、この火事が私の責任とは思いませんでしたが、、」と申しあげました。主は「誰の責任だと思うのですか?」と言って、詩編115:16「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」を示されました。私が「何をすればよろしいのでしょうか?」と聞くと、主は「教壇に行き、手を挙げて,『主が大雪を降らせるので山火事は消える』と預言しなさい。」と言われました。私は「主よ、今は8月で気温は40度Cですよ。」と言うと、主は「言われた通りしなさい。」と言われました。ですから、私は人々の前に出て、「主が大雪を送られます。それで山火事は消えます。」と預言しました。

そして、私はテキサス州から消火活動の基地になっていたモンタナ州ミズーラに飛行機で行こうとしましたが、非常事態であったのでそこには行けませんでした。それで、そこから数マイル離れた一つの町に行きました。始めてお会いする牧師が出迎えてくださり、燃えている山が見える場所に連れていってくれました。祈り始めると、主が「わたしはあなたの祈りが聞かれるというしるしを与えます。」と言われるので、「主よ、どの聖書箇所ですか?」とお聞きすると、「聖書ではありません。中華料理店の3つ目のフォーチュンクッキーの中です。その牧師にそう言いなさい。」と言われました。私はちょっと困りましたが、「あの、主がこのミッションが成功するしるしをフォーチュンクッキーの中にくださるそうです。」と牧師に告げました。彼と私の間にさっと壁ができたのを感じましたね。(笑)でも彼は「それは面白いですね。私の一番好きな中華料理店がすぐそばにあります。そこに行って食事をしましょう。」と言ってくれました。食事のあと二つのクッキーをおばあさんが持ってきてくれましたので、私は「すみませんが、もう一つください。」と頼みました。彼女がくれた3つ目のクッキーを私は震えながら割りました。するとそこには「神はあなたの祈りを聞いてくださるばかりか、それを成就してくださる。」と書かれていたのです! 私たちは山に戻り、「神よ、イエスの御名によって大雪を送ってください。」と宣言しました。モンタナ州ミズーラの新聞をインターネットで調べてみてください。翌朝大雪が降り、火事は鎮火され、消防隊員はすべて下山したことが書かれています。(拍手)

 

もう一つの出来事があります。私がテキサス州にいたとき、主が「ウクライナに行きなさい。」と言われました。理由は告げられませんでしたが、従いました。ウクライナに着くと、がちがちになった雪が膝の高さまで積もっていました。ホテルの後ろの湖では氷に穴をあけて魚を釣っていました。「主よ、どうして私がここに居るのですか?」と聞くと、主は、「シリアの軍隊がロシアとウクライナから毒ガスを購入してイスラエルに爆弾を落とそうとしています。あなたはそれを祈りで阻止するのです。あなたのミッションが成功したしるしとして、明朝までにすべての雪は消えてなくなります。あなたと一緒にいる人たちにそう宣言しなさい。」と言われました。私は「主よ、雪は深く、湖は凍っています。」と申し上げたのですが、主は「言われた通りにしなさい。」と言われました。私は言われた通りにしました。そして翌朝起きてみると、すべての雪と氷は溶け去っていたのです!湖ではボートが走っていましたし、道路は雪が全部とけて水浸しでした。夜のうちに天候が一変して大雨が降ったのでした。

神は事を成就させ、それをしるしをもって確証してくださいます。マルコ16:20に「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」とありますね。

 

もう一つの出来事はこれです。私は旅行をするときはいつも小さなナイフをひげ剃りの道具箱の中に入れて持っていきます。これはボブ・ジョーンズ師からもらったもので、高価なものとかではないのですが、私はとても大事にしていました。ところがあるホテルにそれをうっかり忘れてきてしまいました。ホテルに連絡をして探してもらったのですが、どこにも見つかりませんでした。私はすごく残念で腹が立ちました。集会をして忙しくしていましたが、ナイフの事が頭の片隅にいつもありました。家に帰ってスーツケースを開け、ひげ剃りの道具箱を取り出したときに、又怒りが湧いてきて、私は大声で「おい! ナイフを返せ! Hey! I want my knife back!」と叫びました。すると何かが空中から現れてベッドの上に落ちたのです。何だったと思いますか? 私のナイフでした!空中から現れてベッドの上に落ちたのです。ビル・ジョンソンは私のこの話を聞いて彼の教会で話したところ、人々はそれを実行して無くしたものを沢山取り返すことができました。本当にすごいですね。

 

何かを宣言することには大きな力があります。生と死があなたの口にあるのです。

イザヤ50:4に「神である主は、私に弟子の舌を与え(the tongue of the learned)、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」とあります。今のこの多難な時代に私たちはどのように生きたらいいのでしょうか。私たちは人々にどのように話したらいいのかを主から学ぶことができるのです。

 

PK:私たちは今、容易ならぬ霊的戦いを迎えようとしていると思います。その多くは教会内での戦いだと思います。確かにこの世との戦いもあると思いますが、ほとんどは教会内だと思います。その一つに使徒の定義に関する戦いがあります。真の使徒的ミニストリーと、人間によって使徒とされた人たちによるミニストリーとの間に、はっきりとした線が引かれると思います。聖書的な使徒は、神によって使徒と任命された人であり、そのような人たちは人を生き返らす力を持つと思います。

 

ボビー私たちは時が来ていないのに慌てて使徒の定義をしようとしてしまったのではないでしょうか。そしてピラミッドの頂点が使徒であると考えました。でも本当は逆で、使徒は一番下で人々を支える人です。人々は「使徒」というタイトルを求めましたが、神は本当に使徒として機能する人を求めています。 

使徒は、まず神の御ことばを熟知し御ことばで満たされた人でなければならないと思います。ヨハネ1:14に「ことはば人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。御ことばを熟知していなければ使徒的であることはできません。又、使徒はイエスをその目で見た者だと思います。

 

PK:ヘブル12:1に「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、」とあります。このような証人を認める教会と認めない教会がありますが、証人たちは、ある意味で私たちよりももっと生きています。彼らは私たちを取り巻いているとはっきり聖書に書いてあります。私たちと彼らの間にある幕は今非常に薄くなっています。今この部屋にも天使や証人たちが満ちていて、神が幕を少し開けるならば、霊の領域にいる天使や証人が見えるのです。私たちは霊の領域に対してもっと心を開かねばなりません。そのことばかりに心を捕われるということではありませんが、神が私たちのために霊の領域からメッセンジャーを遣わしてくださることがあるのです。メッセンジャーには色んな種類があるのです。あなたはイギリスでそのような経験をされましたね?

 

ボビーこれは確かに教会内において争点となる事柄だと思います。人々は頭で理解できないことを恐れます。そこが問題です。私たちは物事に対して頭ではなく霊で近づかねばなりません。霊の領域に進もうとするときに最大の障碍となるのは頭です。私たちは聖霊によって教えられ導かれねばなりません。

ある時、私は切符を買ってロンドンに行きなさいと主から言われました。

私「どうしてですか?」

主「わたしがそう言うからです。」

私はロンドンでの集会の予定など何もありませんでしたが、ロンドンに行き飛行機から下りました。

私「主よ、ここで何をするのでしょうか?」

主「あそこのホテルにチェックインしなさい。」

私「どうしてですか?」

主「わたしがそう言うからです。」

私はホテルにチェックインして部屋に入りました。

私「主よ、何をすればいいでしょうか?」

主「そこの椅子に座りなさい。」

私は茶色の皮の椅子に座りました。私は、ロンドンに行けと言われ、ホテルにチェックインせよと言われ、椅子に座れと言われたことすべてに腹が立っていましたので、異言の祈りもしませんでした。

私「主よ、いつまでこの椅子に座っていればいいんですか?」

主「わたしが立てと言うまでです。」

私は祈りもせず、椅子に座り、前の茶色の木の壁をにらんでいました。

かなり長い時間座っていました。そしてそこで次に起ったことをお話します。

 

その壁がさっと開いたのです。そこから、いにしえの聖徒たちが出て来て、私の前に立ちました。彼らは私に挨拶はしませんでしたが、私がそこにいることはわかっていました。彼らが一人ずつ私の前に立ったとき、私はその人がボーンアゲインしてから死ぬまでに主のために行ったことを全部知りました。本当に細かいことまでです。次から次へと私はそれを知ることができたのです。そして最後にイエスが来られました。

主「彼らがいるからこそ、今あなたがそこにいるのです。」

私「主よ、彼らとは誰のことですか?」

主「雲のようにとりまく証人たちです。」

 

証人たちは何か言うことを持っているのです。「証人」という言葉を調べてみてください。見たことを告げる人ということです。彼らはただ私たちを眺めているだけではありません。 自分たちが見たことを私たちに告げたいのです。彼らは私たちのためにものすごく祈り、とりなしているのです。それは彼らが受ける報酬に私たちが深くかかわっているからです。

 

PK:先日リック・ジョイナー師と食事をしたときに、彼がエリヤとエノクに会った話をしてくれました。これは多くの人から「そういう事はありえない」と批判されることです。しかし、エリヤとエノクは彼らが終末の大いなる御霊の傾注に深く関わっていることを彼に話したそうです。私はジョイナー師がエリヤとエノクに会ったことを100%信じています。

 

ボビー:私のやり方はこうです。聖書に超自然的なことが書いてあるのを読むと、私は神に「あなたは人をかたより見ない方です。これと同じことを私にもしてください。あなたは顔と顔を合わせてモーセと話ましたよね!」と詰め寄ってあきらめないのです。ついに主は「もし同じ経験をしたいならば、彼らがしたと同じことをあなたもせねばなりません。」と言われます。彼らがどんなことをしたかを聖書から学ぶのです。

 

例えばモーセです。神がシナイ山に下りてこられた時、数百万のユダヤ人は恐れのあまり逃げ去りました。彼らは「もう私たちは直接神のことばを聞きたくありません.モーセ、あなたが言って聞いてきてください。」と言いましたね。モーセは震えながら雷鳴の鳴り轟く山に登りました。みなさんも同じことをする覚悟がありますか? ほとんどの場合、私たちは代価も払わずに恩恵だけ受けようとしているのです。

 

PK:最後に、私たちが超自然的なものに対する飢え渇きをもっと強く持ち、神がそれを与えてくださるように祈りたいと思います。終末の時代は暗やみが深くなると同時に、神の超自然的な力がもっともっと解き放たれて、輝かしい時代になると私は信じています。同時に神の大いなる裁きもあります。今は神の御ことばで満たされるべき時です。世の中では「悪」を「善」と呼び、「善」を「悪」と呼ぶ時代になってきています。ヘブル4:12にあるように、神のことばこそが、善と悪を切り分ける正しい基準なのです。今はなまぬるいラオデキヤの霊が蔓延し、人々を眠らせ、無関心にしています。イエスはそれらの人々を口から吐き出すと言われました。私たちはラオデキヤの霊に打ち勝たねばなりません。

「癒しのミニストリー」はすばらしものであり、必要ですが、そこで留まっていてはいけないと思います。イエスは癒しを人々の関心を高めるために用いられました。そして次にイエスは人びとに本当に語りたいことを話されました。それは生ける御ことばのミニストリーであり、「霊」と「たましい」を切り分けるものでした。その時イエスの人気は落ちていきました。人びとは厳しいメッセージを聞きたくないからです。私たちはあくまでも御ことばに忠実に従う者となりたいと思います。(終)


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