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30 4月

コイノニアの推進      リック・ジョイナー      2014年5月1日


コイノニアの推進

リック・ジョイナー

    イエスの大宣教命令について語る時、コイノニア(主にある交わり)が非常に重要である理由は何でしょうか? 私たちが大宣教命令をうまく遂行できていない理由の一つは、私たちが弟子を作らずに回心者だけを作るという傾向にあったからです。大宣教命令は弟子を作ることです。もし弟子が作られなければ、私たちはこの任務を果たせていないことになります。

  「弟子とは何であるか」については、主がはっきりと定義しています。真の弟子は、今日のクリスチャンの中にはほとんど見つけることができません。その理由の一つは、真の弟子作りはコイノニアなしには不可能だからです。1ヨハネ1:7に「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わり(fellowship, koinonia)を保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。

     この箇所からはっきりわかるように、コイノニアなしには私たちは絶対に光の中に留まることはできないのです。それは私たちがきよめられるためにも不可欠です。私はよく冗談のように言うのですが(しかしそれは真実なのですが)、教会生活上のフラストレーションや不愉快さ抜きで、私たちが召されているキリストにある成熟度に達することは絶対にできません。フラストレーション、不愉快さ、傷つくこと、失望は、コイノニアの小さな部分にすぎませんが、私たちの成長のためには不可欠です。コイノニアの経験は勿論ネガティブなことよりもずっとポジティブなことの方が多いのですが、様々な問題は私たちの成熟に役立ちます。

   教会生活を理想化したり教会を否定したりすることは、私たちをいのちの道から遠ざけます。真の教会生活、コイノニア、は私たちが経験する最もすばらしいことの一つになる可能性があると同時に、もっとも困難なことにもなり得ます。それはすべての人間関係、たとえば結婚とか、においても同じです。主が種まきの喩えで教えられたように、試練のテストが来たときに多くのものは離れて行きます。多くの者が教会を離れて行きます。現代においては多くの者がテストがきたとき結婚生活からも離れて行きます。テストが来たときに止めてしまうのでは、決してテストに合格することはできません。

    結婚の破綻は教会生活の破綻と関係していますし、その反対も言えます。一方を癒すものは他方をも同じように癒すのです。十字架の縦の棒は私たちと神との関係を示し、横の棒はお互い同士の関係を示しています。自分の十字架を負うということは、私たちの人生には両方が必要ということです。勿論神との関係は、人間同士の関係よりずっと重要であり、常にそれを第一とせねばなりません。しかし、それを守って第一としているならば、もう一方も持つことができるのです。ヨハネが書いています。「もし目に見える兄弟を愛していない者は目に見えない神を愛することは出来ません。(1ヨハネ4:20)」

それでは、教会生活の中でコイノニアを推進するために何ができるでしょうか? 第一に、私たちは何よりもまず主の臨在を追い求めねばなりません。すばらしい神殿でも、もしその中に神がおられなかったら何にもなりません。次に私たちは人間関係において、ただ追い求められるのを待っているのではなく、自分から追い求めねばなりません。バルナバはパウロを連れに自分から出かけて行きました。そして彼ら自身の究極的な召しへと解き放たれる前に、二人が 正しい関係に入る必要がありました。

当時これは非常な努力を必要としました。バルナバがタルソまで旅をし、またアンテオケまで戻るには数ヶ月かかったに違いありません。今は教会まで30分運転するのを厭わない人はなかなかいません。何かが「宝」になる要素は、それが非常に希有であるか、もしくは入手するのが非常に困難であるということです。コイノニアとは人生で手に入れることのできる最も偉大な宝の一つです。それは安価でもなく見つけるのも容易ではありませんが、あきらめないで探し続けるだけの価値をそれに認める人によってのみ見つけられるのです。神が建てられている町、すなわち、アブラハムを初めすべての真の信仰の旅人が探していた町は、イエスを土台としたコイノニアで建てられるのです。

 主の臨在を求めるということは、主の祝福を求めること(現在の教会はこれを強調することが多いですが)よりずっと深いことです。 主は、ご自身が臨在されないときにも多くのことを祝福されます。主は「二人でも三人でもわたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)」と言われました。この「集まる gather」ということばは、単に同じ部屋にいるという意味ではありません。それは一つの自転車の部品が組み合わされているようにぴったりと組み立てられているという意味です。これが私たちが「いっしょに集まることをやめたりしないで(ヘブル10:25)」と言われている理由です。これは単に集会を休まないようにというのではなく、「しっかりと組み合わされなさい」という召しをおろそかにしないようにという勧告です。

  実際に、教会のいのち(コイノニア)がある教会を建て上げるためには、会員同士の交わりを意図的に推進していかねばなりません。それにはスモール・グループ、食事会、ミッション・トリップのほか各種の活動が含まれます。しかしながら、本当にコイノニアとなるための集りは、常に主の臨在を中心とせねばなりません。 すべてのことはこの目的のための助けにはなりますが、活動のためにただ集まるだけでは、コイノニアにはなりません。

  すべての霊的追求においては次の原則を忘れてはなりません。即ち、「神から約束を受けた場所と約束の地(約束の成就)との間には、必ずと言っていいほど荒野があり、それは約束されたものとは正反対のものである。」という原則です。この荒野は、私たちが約束の地に入る備えができるように意図されているのです。コイノニアを追い求め始めたとき、人間関係の問題があちこちで起り、コイノニアとは正反対のように思えても、動じないで下さい。それはあなたが確実に正しい道を歩いているというしるしなのですから。(終)


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