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16 4月

鳩のような聖霊       ビル・ジョンソン        2014年4月17日


鳩のような聖霊

ビル・ジョンソン

 

 

イエスがヨルダン川で洗礼を受けたときのことを、マルコ福音書は「そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして、天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ』」と記していますが、そこには私たちが目を留めるべきことが表されています。

 

私たちはしばしば、天が開くようにと祈ります。それはよい祈りです。イザヤ64:1にあるように「天を引き裂いて降りて来てください」と祈ります。私たちは主に餓え渇いているからです。私たちは町や国の上の天が開かれるように祈ります。それは大切な祈りです。

 

私たちは往々にして、何を自分はすでに持っているのか、何をすでに与えられているのかを知らずに暮らしていて、どうかそれを下さいと神に祈ります。しかし、すでに持っているものを祈り求めるとき、その祈りが答えられるときの喜びを私たちは得ることができません。なぜならばその祈りはすでに答えられているからです。

 

私たちの祈りは、それが答えられてブレークスルーが起こることによって、クリスチャン生活がいつも喜びにあふれるようにと、 神がデザインされたものです。イエスは「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。...求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と言われました。

 

もしブレークスルーがなくて喜びが得られないとき、私たちは祈りを一生懸命することから喜びを得なければならなくなります。祈りから喜びを得ようとし始めるとき、私たちは実体ではなく形、形式を尊ぶことになります。ここから「宗教」が形成され始めるのです。ここでいう宗教とは、力のない形式のことです。私たちは 満足感、充足感を様々な宗教的活動を長時間することから得ようとし、それによって自分は主を愛し主に仕えていると思い込むのです。

しかし、イエスが意図されたのは、「わたしたちが父にお願いすれば 、それによってあなたの喜びが満ち満ちるように、父はそれをかなえてくださる」ということです。喜びは途方もなく偉大な天の宝であり、そのすばらしさは私たちには到底理解できないほどです。父がその喜びをイエスが十字架の苦しみに耐えることへの報酬として取っておかれたように、極めて貴重で希少価値のあるものです。「イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び...」とあります。喜びは苦しみに対する 報酬で、イエスの従順に対して父が与えたものであり、極めて高い価値のあるものです。聖書には、あなたが祈りの結果として得るブレークスルーこそが、あなたに満ち満ちた喜びを与える絶えざる源であると言っているのです。

 

問題は、私たちがすでに持っているものを祈り求め続けていることです。 すでに得ていることを知らずに、そのことを祈り続けるならば、私たちは決してブレークスルーを経験することが出来ず、魂の高揚も喜びも経験できないのです。これは些細な問題ではありません。「主よ、今日私たちとどうか共にいてください。」という祈りを私たちは何回するでしょうか。主は「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを見捨てない」と言われたではありませんか。ですから、主はこの私たちの祈りに答えることはできないのです。実際、私たちがしているのは、主の約束に対して挑戦していることになるのです。これは問題です。私たちの心と思いが、神が宣言されたことに対して戦いを挑んでいるのです。主は「わたしは決してあなたを離れず、見捨てない」と言っておられるからです。

 

主がバプテスマを受けて水からあがられたとき、天が裂けたと書かれています。これは原語では神が天をバリバリと切り裂いたという意味です。そして聖霊が降りてこられました。イザヤ64は「天を裂いて降りてきてください!」と言っています。イエスのバプテスマの時起こったことは、天が切り裂かれて聖霊が降りて来て、そこに開かれた天が造られたのです。ほとんどのクリスチャンにとって「閉ざされた天」は、その人の耳と耳との間にあるのです。人が自分の思考パターンで信じる通りに物事を起こすことを、神は暗やみの権力に許可しているのです。聖霊はあなたの中に住んでおられますね。聖書には「父は私たちの内にいる聖霊を妬むほど愛しておられる」とあります。父は天を切り裂いてくださいました。天の父とあなたの内なる聖霊との交わりを阻止するのは一体何でしょうか。どのような領域の悪魔の力もその交わりを切り離すほどの力はありません。ですからあなたはすでに開かれた天の下で生きているのです。

 

私たちは都市の上の天が開かれるのを願っています。しかし私たちが忠実に私たちの上に開かれた天の下で信仰を実践し権威をもって歩むならば、私の上に開かれた天は広がり続けるのです。あなたが部屋に入っていくならば、部屋全体の霊的空気が変るのです。私は「自分は神の息子だ、娘だ」と言って自分の事ばかり考えている信者を作りたいのではありません。聖霊はすべて信じる者の内におられます。しかしながら聖霊はすべての信者の上にとどまっているのではありません。ヨハネ福音者ではイエスがバプテスマを受けられた時「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私はみました。」と書かれています。

 

これは非常に意味深い記述です。鳩というのはとても繊細であり、少しでも驚かせると飛び立っていきます。もし私の肩に鳩がとまっていたとして、それが飛び立たないようにしたいならば、私は階段を降りるときどのようにするでしょうか。つねに鳩のことを考えながら細心の注意を払って降ります。聖霊はすべての信者の中に永遠におられますが、すべての信者の上にいつもとどまってはおられません。信者の目標は、つねに聖霊の臨在をもてなし、自分の上にとどまっていただくことであり、行くところすべての霊的空気を変えていくことを学ぶことです。私たちの上に聖霊がとどまられる場所を設けることは可能です。それによってあなたが入っていくだけでその場所の霊的空気をシフトさせることができるのです。私はこれをもう何年間も試しています。あなたが「自分はそれを持っている」とはっきる自覚し認識するならば、あなたは現実にそれを顕していくことが可能となるのです。(続く)


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