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10 3月

神の祝福を喜び祝う -続きー ビル・ジョンソン 2014年3月10日


神の祝福を喜び祝う - 続き

ビル・ジョンソン          於リバイバル・アライアンス

 

知恵の3つの姿

 

知恵は、基本的に3つの姿で顕されます。箴言の中に繰り返し言われていることなのですが、それは「創造力、優秀さ、誠実さ」です。しかし、私たちがテストされるのはこれらに関してではありません。私たちがどれほど創造的であるか、優秀であるか、誠実かをこの世からテストされるのではなく、この世は私たちが与えられた「資源、権威、神からの祝福」をどのようにマネージして扱うかを見ているのです。権威を用いる第一の方法は正義、公義を行うことです。聖書は多くの宝が貧しい者の立っている地の中に埋められていると言っています。しかし不正が彼らにそれを掘らせないのです。権威がそこに行って不正を打ち破ることによって、彼らにその宝を手に入れさせます。施しや贈り物はそれはそれで大切ですが、与えるだけでは問題は解決しません.不正を打ち破ることで解決します。神はこのために私たちに権威を与えておられます。

それでは神からの好意、祝福をどのように扱いますか? 「神が何かすばらしいことをしてくださって自分はとてもうれしいのだけれど、高ぶっていると思われたくないので、あまり人には言わない」ということがあります。私たちが地上で生きる日数には限りがあることを知っていますね。そして私たち個人の力、肉体的、感情的、霊的、知的能力には限りがあることも知っていますね。それを越えて何かをしようとするならば多くの悲劇が起ります。

それと反対に私たちは無限の資源を天に持っていることもよくご存知ですね。それでは、どうして教会は繰り返し限りのあるものを犠牲にして無限なものを引き出さないでとっておこうとするのでしょうか。それは人を恐れるので、 無限にあるお金を守るために限りある人間的な財力を使い果たすのです。それが御国でしょうか? それは宗教的な事であり、人はあなたを誉めるでしょう。しかしそれが御国ですべきことしょうか。あなたはまわりにいるすべての人から認められるでしょう。しかしそれが御国でしょうか。神は今改革のためのシフトを一人ひとりに用意されていますが、真剣にもう一度お金をどのようにとり扱うかについて考え直す必要があります。勿論、惜しみなく人に分け与える寛大さは基本であり第一義的なことです。私にとってもそうです。しかし主は管理とマネージの点で私たちに教えたいことがあるのです。私たちは単に「気前が良くてやさしい人」として知られるだけではならないのです。

 

荒野と約束の地との違い

 

イスラエルがエジプトを出て約束の地に入るというのはとても分かり易すく、自分の人生に当てはめることができます。ここで私にとって痛いほどはっきり分かったことがあります。それは「毎日の必要を主により頼む」というライフスタイルを、  クリスチャン生活の究極の理想だと必要以上に称賛していたことです。しかし、皆さん、それは荒野での生活の仕方であって、約束の地に入ってからの生活ではありません。私の父は牧師でしたが、ずっとクリスチャンは祭司であることを教えていました。70年代の初めの頃から教会から王たちが社会に出て行き、そこで奇跡を起すことが強調されて来ました。そして多くの奇跡が起こりました。個々の奇跡だけではなく、社会が変えられて行きました。教育、政治,経済界にいる人々の上に油注ぎが画期的に増加しました。それは自分の召しに対する油注ぎをみんなが自覚したからです。 「王はマーケットプレイスに出て行き、祭司はミニストリーをする」という形でした。強調されたのは王たちが祭司と同じ油注ぎをもってマーケットプレイスで働くということでした。

しかしこれからの数年にシフトが起り、今までのように祭司が王に霊的分与をするのではなく、王が祭司に霊的分与をするようになるのです。王のやり方こそが約束の地での生活だからです。教会が受け取る十一献金や捧げものは教会の収入のほんの一部という教会が沢山でてくると思います。これは教会が宝くじに当たるとかではなくて知恵によるのです。神が与えてくださるものを適切に管理、マネージするところからくるのです。教会が神から受ける恵みを自らの名を高めるためではなく、主のために知恵をもって管理するかどうか、この世は見ています。神が与えてくださる資源を私たちが恥と思わないで、回りの人々に影響を与えるために用いて行くのです。神は私たちを「仕える者の心をもって治め、王の心で仕える者」として召しておられるのです。私たちがそのような権威をいただいたのは、回りの人々がよりよくなるためであるということです。

 

シバの女王の言葉

 

シバの女王がソロモン王に会ったとき「主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王として公正と正義を行なわせられるのです。」と言いました。神はイスラエルを愛したが故にソロモンに知恵を与えました。つまり 神が私たちに途方もない恵みを与えてくださるのは、 神の愛する人々が私たちを通して恵まれるためだということです。もしその恵みを自分だけにとどめておくならば、それは大きな間違いです。自分もそれによって恵みを受けないということではありませんが、神の目的は私が出会う人々に力を与えることです。神からの私たちへの資源、恵みはそのためなのです。恵みを受けた者としてあなたは自分の選ぶ人に王の笏を差し伸べることができます。その人はあなたによって神の訪れを受けるのです。

 

祝福を願う祈り

 

この考えが聖書的であるか見てみましょう。

詩編67:1「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。」

まさにこれは主に祝福を願う祈りです。それによって私たちは効果的に人々を祝福することができます。私はこれを読んだとき、祝福を願うのは良いことなのだと知って大変うれしく思いました。

私は犠牲的に献げることを信じています。私たち夫婦は超自然的に神様が満たしてくださることも何度か経験しています。そのような奇跡が今も続いていることを感謝します。私の大好きな話は、「宣教師の家族が何も食べ物がないのに食卓に空の皿をならべ感謝の祈りを終えたとき、戸を叩く音がし,食べ物を持ってきた人がそこに立っていた」というものです。これは本当にすごくすばらしいお話だと思います。私は神がそのように必要を満たしてくださる方であることはすばらしいと心から思います。しかし、私は食べ物を持って戸を叩く方の人になりたいのです。

 

「御顔を私たちの上に照り輝かしてくださいますように」とありますが、これは「主の臨在の顕れのない祝福はいりません」ということです。人が私を見たとき、何かこの人には違うものがある、と分かって欲しいのです。私たちの町では、「あなたの教会員がうちの会社に入ってから何かが変った、彼が来てから会社の空気が変わった」といわれます。2節に「それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。」とあります。これは驚くべき言葉です。「神よ、あなたが私を祝福してくださらなければ、国々はあなたがどういう方であるかを知ることができません」と言っているのです。私たちが主の祝福をうまく持ち運ぶことに国々の救いがかかっていると言っているのです。

謙遜と思われることが、実は高慢、プライドであることが時としてあります。それは神が与えてくださる祝福を管理しマネージして、人々の心に持ちはこぶことを拒否することです。 私たちは荒野のマナではなく、約束の地での収穫によって主に栄光を捧げるべきです。「すべての国々」とあります。私たちは聖書のなかの「すべて all」ということばに鈍感になっていることがありますが、これはすべての国々が収穫されると言っているのです。そしてそれは 神の啓示、神の好意があなたの上にあるということに直接かかっているのです。

 

3−6節「神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。国民が喜び、また喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。地はその産物を出しました。」

地は神のご計画にそって産物を出すことを待ち望んでいるのです。それを抑えているのは、神の民が神の自分に対する御計画を悟らないからです。ローマ8章にあるように地は神の子が現れるのを待ち望んでうめいています。神の子が正しい場所につき、自分のためにだけ蓄えるのではなく、神が与えてくださるものを回りの人に分け与えて仕え、神の恵みで地に味をつけるのです。あなたの上にある聖霊の麗しさは、まわりにいるすべての人の人生をより高めるものです。

 

7節「神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。」

この章は祈りから始まりましたが、最後の7節は  驚くべき告白、宣言です。これ以上偉大な約束はありません。「神は私たちを祝福される!地の果て果てがことごとく神を恐れる!  God shall bless us and all end of earth shall fear Him!」と宣言しましょう!

ルビーよりも知恵をあなたは選び取らねばなりません。それは経済的犠牲を伴なうということです。しかし主はその後、知恵を追い求める者にはルビーをも与えると言っておられます。ですから「手放しなさい。そうすれば主は増し加えてくださいます。」これが御国の方法です。祝福された人生は、身体の健康や創造能力に反映されます。私の頭は雑多な思いに煩わせられることがないので、常に自由に解放されていて、チャレンジを受けたときに創造的に対応することができるのです。神は私たちのすべての面において祝福を与えてくださる用意があります。レストランに行く時、ビジネスをする時、近所の人と話をする時、彼らは私たちが彼らを愛し受け入れていることを感じてみんなそばに寄ってくるのです。本当にシンプルで小さなことですが、それも神様の祝福です。それと同じように大きな事柄に関しても私たちは神の祝福によってすばらしい決断をすることが出来ます。これからは一日なりとも神の祝福なしには生きないと決心しようではありませんか。

 

祈り

 

神様、ある人の今までの人生やあなたとの歩みを知らないで、その人を批判し裁いていたことをお赦しください。人々の遜りは喜びましたが、昇進を喜び祝わなかったことをお赦しください。私たちの心の中にもっと完全な御国の啓示をください。これから祝福が増し加わって行くシーズンに、あなたが与えて下さるものをどのように管理しマネージすればよいのかを悟る知恵をください。イエスのすばらし御名によって祈ります。(終り)


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