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18 8月

すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させる        フランシス・フランジペン       2013年8月18日


すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させる

 

フランシス・フランジペン

 

私たちはクリスチャンとなり救われて慰めを得ているかもしれませんが、クリスチャンになっても私たちが完全になった訳ではありません。私たちに中にはまだ多くの悪霊の要塞があります。ですから、それらの悪の要塞のいくつかについて考えてみたいと思います。

クリスチャンの中で次のような要塞が一つもないという人は殆どいないでしょう。 即ち不信仰、冷淡、恐れ、プライド、人を赦さない心、情欲、貪欲等であり、他にも多くの要塞を持つ可能性があります。

 

私たちは自分のことはいとも簡単に赦してしまうので、自分の人生の中の悪いところや横暴なところをはっきり見極めることはとても困難です。 それは私たちの思い、態度、ものの受け取り方に関することです。私たちは自分自身を正当化するのと同じ熱心さで、自分の考え、思いを正当化し防御しようとするのです。「 人はその心の中で考える通りの、そのような人物となる。As a man thinks in his heart, so is he. 箴言23:7KJV」と書かれている通りです。

言葉を変えれば、その人がどのような人物かという本質は、その人の思考の中にあるということです。ですから、どの悪霊からの解放であっても、それが本当に達成されるためには私たちは正直に自分の必要を認めてそれを告白せねばなりません。すべてが大丈夫、うまく行っている、というふりをすることを止めて、へりくだって助けを求めねばなりません。実際、先に述べたように神が一番に取り除かねばならない私たちの要塞はプライドです。自分には解放が必要であることを進んで認めることなしには、決して悪霊の要塞から自由になることはできません。

 

自分の悪いところ、間違っているところを認識するためには、神の義の基準を知らねばなりません。ダビデが感極まったとき、 ヨブが惨めさのどん底にいたとき、そして、人生について思いを巡らした人たちすべては、同じ問い、即ち「人とは一体何者なのか?」という問いに直面するのです。

ヘブル書の著者も又、この質問をしていますが、彼が受け取った答えは 神の御顔を仰ぐようにと私たちを教え、イエスを見させてくれます。(ヘブル2:9)

 

御父のご計画として、「人が何者であるか」という奥義は、(人間)イエス・キリストがどのように生きられたかの中に見いだされます。キリストは「多くの兄弟たちの中で長子となられました。(ローマ8:29)主イエスは天の創始の長子であり、人類のための御父のご計画です。人の奥義を考えるとき、私たちはイエス・キリストを見上げることによってその答えを得られます。主は救い主であるばかりではなく、私たちをご自分と同じ姿にしてくださる内住の主であるのです。(ヘブル2:10、ローマ8:29参照)

 

又、主イエスだけがイエスでありえる(主以外の人は誰もイエスのようには、イエスにはなれない)ことも認識し悟ろうではありませんか。私たちがますますイエスに服従し明け渡し、 私たちが主の内にとどまり、主の御ことばが私たちのうちに留まるとき、主はただ「主のいのちに似ている」というだけではなく、「主のいのちそのもの」を私たちに内に造りだしてくださるのです! キリストご自身が私たちの内に生きるということが、神の永遠の目的である「人をキリストと同じ姿にすること」を成就させます。

私たちの内に主イエスの臨在(イエスそのものであるその方)が来られることが、 悪の要塞を打ち壊すための私たちの武器を大いに力強いものとし、私たちの命ずる言葉に真の権威を与えるのです。

ですから、私たちは自分のどのような思い、考え、態度であっても、それがイエスに似ていないもの、イエスの教えと違うものならば、それを客観的に吟味することを学ばねばなりません。そして、そのような思いをつかまえて虜にし、間違った態度を十字架にかけねばなりません。そして私たちの内に主が来られる道を開けねばなりません。主の臨在(主ご自身)がどんどんと増し加わり、それが私たちの霊のなかに全くと言ってよいほど吸収され浸透し切る、それによって、私たちはただ主を信じるだけではなくて、主のようになったと信じるようにならねばなりません。主の愛と、主の思いと、主の願いそのものが私たちの内から自然に流れ出す――それは単に「似たもの」としてではなく、ちょうど、ぶどうの実がぶどうの木から自然に実るように、です。

 

自分の内にある悪霊の要塞が何であるかをはっきり認識してそれを打ち壊そうとするとき、二番目に打ち壊さねばならない要塞が私たちにはあります。それは不信仰という要塞です。その要塞は私たちに「キリストと同じ姿になることなど不可能である」と告げ、すべての霊的成長を虜にして止めてしまうのです。この嘘と私たちの心をしばる鎖を、私たちの人生から打ち砕かねばなりません。なぜならキリストの似姿になるのは可能であるばかりか、それは私たちのディステニーであるからです。

ですから今祈りましょう。聖霊があなたの心を満たし洪水のように溢れてください。「キリストのようには絶対なれない」という不信仰の要塞で苦しめられているならば、その偽りは今から打ち砕かれ始めますように。

祈り「主イエスよ、あなたに従います。私は、すべてのものを従わせるあなたの御力により、私の戦いの武器は要塞を打ち砕くほどに力強いものであることを、神の御ことばによって今宣言します。(第二コリント10:3−4参照)『私は絶対にイエスのようにはなれない』という偽りを、私が罪を犯し妥協する言い訳に用いていたことを悔い改めます。イエスの御名によって私の不完全な、罪深い、古い性質を断ち切り、神の恵みと聖霊の力によって私の心にある不信仰の要塞を打ち砕きます。イエス・キリストの完全な贖いにより、私は新しく造られた者となりました。そして主と共に主の恵みのうちに歩むとき、私は栄光から栄光へとキリストの形imageへと絶えず変えられていくことを信じます。アーメン」(終り)

Adapted from the book The Three Battlegrounds, by Pastor Francis Frangipane.

Francis Frangipane
Ministries of Francis Frangipane
Email: francis1@frangipane.org
Website: frangipane.org


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