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15 7月

天の御国の弟子となる   リック・ジョイナー           2013年7月15日


天の御国の弟子となる

 

リック・ジョイナー

 

 

霊の目で見る

 

マタイ13:52「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」

 

ある者たちは他の人間の弟子になり、またある者たちはあるムーブメントやある教派、或いはある教義を強調することの弟子となります。弟子となった学者たちに言及している聖書箇所でイエスは、彼らは「天の御国の弟子」になるのであると明言しておられます。主は明らかに彼らは地上の者や地上の事柄の弟子になるのではなく、主の天の御国の弟子になるのだということを強調しておられるのです。

 

この世のものを霊的な目で見る

 

使徒パウロは天の御国の弟子のよい見本です。彼は当時最も学識のある者の一人でした。イスラエルで最も敬われていた教師の一人であるガマリエルに師事していました。パウロは知識人でありそのエリートでした。当初その事が災いして、パウロは自分が仕えていたと思っていた神と真っ向から対立し、主の真理を激しく迫害する者となったのでした。ある人間とかある一派の弟子となったときに私たちが行き着く先はまさにそうなるのです。そして、多分歴史上最もよく知られている劇的な回心により、パウロは今まで滅ぼそうとしていた福音のために最もパワフルに戦う者と変えられたのです。どのようにしてそのような事が起こったのでしょうか?

 

主がダマスコへの途上でパウロに顕れましたが、これは誰にでも起こることではありません。けれども、パウロの回心において、天の御国の弟子になるすべての人に共通して起こらねばならないことが一つ起りました。それは、パウロは霊の目で見るようなるために一時的に肉の目を盲目にされたことです。

これは肉の学びをするなとか、自然界に関する学問をするなと言っているのではありません。パウロが学んだ哲学や様々な学問は、後に彼が福音を理解し伝道するための助けになりました。しかしパウロは、肉的な目で霊的なものを見るのではなく、 霊の目で肉のものを見ることを先ず学ぶ必要があったのです。天の御国の弟子となる鍵はまさにここにあります。

 

変革transformationされる

 

肉の目で霊的なものを見ようとするのではなく、霊の目で肉のものを見ることが非常に重要です。第一コリント2:14−15にそのことが書かれています。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」

クリスチャンがキリストの身丈まで成長するのを妨げる最たるものの一つはこれです。パウロが経験したような変革を経験した人は殆どなく、又その必要性を理解する人も非常に少ないのです。それではどのようにすればその変革を遂げることができるのでしょうか?

パウロを霊的に盲目にしていたものを打破するために、神は彼を馬から落とさねばなりませんでした。私たちのためにも神はこれと同じことをせねばなりません。しかしその結果を出すのはパウロの経験ほどにドラマティックな出来事である必要はありません。同じ結果を得るために殆どの人が通る道があるとすれば、その方がいいかもしれません。それは、主 からへりくだらされるのではなく、自らへりくだるという道です。自分を吟味しへりくだるならば、主が手をくだす必要はないと私たちは聖書から教えられているからです。

 

パウロは肉体的な視力を取り戻しましたが、その直後に霊の目が開かれたわけではありませんでした。彼自身が言っていることですが、彼は11〜13年間荒野に退いていました。その後使徒職に任じられてからも彼の変革は続いていきました。彼の長い伝道期間を通じて、大きな絶え間ない変革が彼に起こっていたことを私たちは見ることが出来ます。それは恐らくすべての人にとって一生涯続くプロセスでしょう。私たちが常に天の御国の弟子であり続けねばならない理由はここにあります。

 

膨大なこの世の知識を持ち、この世的な訓練も受けていたパウロがこの変革を通るために、他の者よりも大きな衝撃とより厳しい懲らしめ、訓練を受けたかもしれません。ある人たちは生まれつき霊的な傾向があり、霊的に物事を見ることが容易であるかのようにも思えます。しかし、ここでのポイントは、私たちはみなこの変革というプロセスを通らねばならないにも拘わらず、それを経験する人が非常に少ないということです。私たちがこの世のものの弟子ではなく天の御国の弟子にならねばならない理由はここにあります。

 

大いなる任務

間違った視点からの学びが導く先は所詮間違いであることをよく悟った歴史上の人物の一人がパウロです。彼は真理と衝突し、その結果、クリスチャンを迫害し、それによって主ご自身を迫害することとなりました。その苦い経験により、彼は「何が真理に導くのか」に関して歴史上恐らく最も偉大な教えをコロサイ1:9−20で書き記しています。

「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされ、忍耐と寛容を尽くし、また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配のなかに移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」

すべてイエスなのです。御国への鍵は「イエスがどういうお方であるかをよく知ること」です。イエスは、私たちが天に上り、天のリアリティーを証明するものと地を支配する権威を携えて地に戻ってくるためのヤコブのはしごです。

聖書が神の家に関して最初に語っているのは、ヤコブが天にとどくはしごと神のメッセンジャーがそれを上り下りする夢を見たときのことです。この神の家に関する最初の箇所は又「神の家」と呼ばれる教会の第一の目的を啓示する箇所でもあります。即ち、私たちは神のメッセンジャー が天の領域に上り、天国の証拠と地への権威を携えて地に下ってくるための道とならねばなりません。

ナタナエルに会ったときイエスは、「神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます」と言われました。イエスは私たちが天に上るための「ヤコブのはしご」なのです。私たちが天に上っていく道である「イエスがどういうお方であるか」という啓示がどんどんと与えられていくのです。万物はイエスによって造られ、イエスのために造られ、イエスによって成り立っています。「その道 The Way」とは「このようにすれば出来る」というような方法ではありません。それは「一人のお方」なのです。私たちはただ霊的に成熟することを追求しているのではありません。キリストにまで成長することが私たちの目標です。

 エペソ1:10に「いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる」とあります。イエスが神の究極の目的です。御父は、造られたすべてのもののうちに、ご自分の一人子を探しておられるのです。神はご自分の息子を私たちの中に見つけようとしておられるのです。ですから、神が私たちの人生の中でされること、又私たちの人生の中に起こることを許されることのすべての究極の目的は、私たちをキリストの似姿に変えることです。

イエスがすべての創造の究極の目的であることを理解することなしには、私たちはこの世界を正しく把握することはできません。使徒たちが語った福音は「イエスと死者からの復活(使徒4:2)」であった理由はここにあります。私たちがイエスをすべてのものの目的であると理解するときに、すべてのものが明らか理解されます。「イエスがどのようなお方か」を顕す以上の崇高な啓示、深い真理はありません。(終り)


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