WWGM

Walk With God Ministries

01 7月

顔のおおいを取りのける            フランシス・フランジペン              2013年7月1日


顔のおおいを取りのける

フランシス・フランジペン

 

私たちは、技術を真似るとか本を読んで学ぶとかで神の栄光を見出すことはできません。主の臨在は、マニュアルに従う時にではなく、インマヌエルなるお方に従うことを学ぶときに顕れます。

これまでの教会は、私たちが未熟であったために、様々なことをして人々から認められようとして来ました。そして自分の教会がユニークであるとか、ある事に関して力を入れているとかで知られたいと願いました。ある教会は異言で話すことで知られたいと願い、あるいは立派な教会堂や伝道集会のプログラムで知られたいと願いました。又、ある教会は教会運営に独特な方法で秀でることと特別講師を定期的に招くことを掲げて宣伝して来ました。

 

主との親しさで知られる教会

 

このように人々に知られ認められたいという願望は、多くの非聖書的な伝統を教会の中に作り出して来てしまいました。そしてそれらの伝統は教会同士を引き離したばかりではなく、私たちと神とを分離し疎外してしまったのです。しかしながら今日の弟子たちは、ただ次の一事において知られるようになるでしょう。それはイエスを真に知っていることと、主との親しさによって知られるのです。主の臨在が、-それは単に主に関する教義を持っことではなく、真に主の御霊の臨在に溢れ、その人たちが主に似た者となっていること―溢れるほど多くの「小羊なる主に従う者たち」を招き伴うようになるのです。

彼らの焦点はただ主にだけ向けられているので、神は遂には彼らの人生に大いなる力でが伴うようにしてくださいます。彼らが病人に手をおくと、直ちに癒しが起こることが普通のこととなります。これらの奇跡はイエスを愛することを一番にした人生へのほんの小さな報いにすぎません。

私たちの救いは、私たちが何かをする事にではなく、イエスが私たちにとってどのようなお方となるか、即ち私たちとイエスの関係に基づいています。キリストのみが私たちの義であり、徳であり、力です! 私たちがミニストリーをする時、それはイエスの力によってでなければなりません。そうでなければ実際のところ時間の無駄です。私たちの確信は主にあるべきであり、自分自身の能力にあるのではありません。信じる者にはすべてのことが可能ですが、主から離れては何もすることが出来ないという認識に、私たちはしっかりと基盤を据えねばなりません。

 

聖なる御臨在

 

私たちが探し求めなければならないことは、自分たちが陥っている人間的伝統に気が付き、それに安眠して来たことから目覚めることです。即ち、生き生きした神の臨在を追い求めその中に入ることです。万能の神は、私たちひとり一人に天からの特別の召しを与えておられ、その霊的な目標に向かって私たちは成熟するように召されているのです。

 

この希望は、憶測とか理不尽な期待とかに基づくものではなく、神の言葉から直接私たちに語られているものです。

第二コリント3:17−18「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

ここに私たちの召しに対して栄光の希望があります。私たちはみな「おおいを取りのけられた顔」でキリストを見つめるのです。ここでパウロは「私たちは皆・・・主の栄光・・・を見る We all …behold…the glory of the Lord」と言っています。神のご計画の中によれば、預言者や幻を見る人や聖人だけではなく、あなたも私も「主の栄光を見る」人の中に入れられているのです。私たちに与えられたこの「聖なる特権」とは、私たちを神の臨在から隔てている「おおい」を取りのけることです。こうして私たちには主の栄光を仰ぐことが約束されているのです。

旧約では二つの「ベール(幕、おおい)」について語られています。一つは神殿の聖所と至聖所とを分けていた厚い幕のことです。聖所では神の定められた儀式に則って毎日捧げものがなされました。しかし至聖所には神の聖なる臨在が宿り、大祭司が年に一度贖罪の日に入るだけでした。それは非常に恐ろしいことでした。

イエスが息をひきとられた時、そのベール(幕)は上から下に真っ二つに裂かれました。それはキリストの購いにより、私たちが聖なる臨在に入ることができる新しい道を保証するものでした。幕が上から下に裂かれたという事実は、キリストの生け贄は私たちのための完全な購いとなったことを示しています。幕が裂かれたのが、キリストが息をひきとられたまさにその時であったということは、御父がどのように熱い思いで私たちを神の家族に迎えてくださったのかを語っています。(マタイ27:51)

しかしもう一つのベールとして、モーセが神の臨在を離れるときに顔につけたベール(おおい)がありました。これは神の栄光を見ることに耐えられなかったイスラエルが願ったことでした。神の栄光はモーセの顔から少しずつ消えていきました。しかし、このベールの必要性も又、キリストにあって取り去られました。神はもはや特別な一人の人だけが聖なる所に入り、他の者たちは離されているということをよしとされませんでした。新しい契約は、私たち皆を栄光の一団としたのです。—「私たちはみな、顔のおおいをとりのけられて、主の栄光を反映する」のです。

ベールとは一体何なのでしょうか? それは見えるべきものを隠す障害物です。前述のように、 宗教的伝統ではあっても神の臨在を招かない伝統はベールになる可能性があります。神のためにしているまさにその宗教的伝統が、私たちを神から遠ざけている障害物かもしれないとは、なんと残念で恐ろしいことでしょうか。

第二コリント3:14「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至まで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、とりのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。」

宗教的伝統が私たちと神の臨在との間のベールになってしまっているかどうかを、どうすれば識別することができるのでしょうか?  今まで遵守するように教えられて来た間違った伝統や人間(文化)的伝統の殻を、実際どうやって打ち破ることができるのでしょうか? その答えは、私たちがどれほど神の御ことばを愛しているか、そして私たちの心が主の御声にどれほど開かれているかにあります。私たちが主の御声に聞き従うとき、神への回帰が始るります。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。(第二コリント3:16)」今、あなたは一人で神の御前にいます。「主に向く」というシンプルな行為があなたのベールを取り除くのです。

聖書は、誰でも聖霊によらなければ「イエスは主である」と言えないと言っています。今言ってください、「イエス様、あなたは私の主です。」と。

あなたの心を主に向けてください。恐れないでください。神殿の幕を裂いたのは主のお考えであったのを思い出してください。主はあなたが近づくのを願っておられるのです。あなたが心を向けた瞬間に「おおいは取り除かれる」のです。

祈り「主イエス様、私が持っている様々な伝統をお赦しください。主よ、特にあなたの御声から離れて生きていることをお赦しください。私はベールを今取ります。今あなたの生きた臨在に私の心を向けます。」(終り)


Post a Comment