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Walk With God Ministries

18 6月

信仰について (2) リック・ジョイナー        2013年6月18日


信仰について (2)

 

リック・ジョイナー

 

 

信仰が私たちを変えます(transform)。エノクの信仰が彼を天に移したのです(translate)。

ヘブル書11:6に「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(新共同訳)とありますが、ここで「神が存在しておられる」と言っているのは、過去形でも未来形でもない、現在形であることに注目して下さい。神ご自身が、自分の名は「わたしはある」I am who I amあるいは I amであると言われました。(出エジプト3:13,14)その意味は、神は常に現在形で存在している方であることを強調されたのです。

信仰の時制は常に現在形です。信仰で常に神と共に歩くのは現在形であるのです。過去に捕らわれている人、あるいは自分の立てた将来計画にこだわり捕らわれている人がおりますが、そのような人は神への信仰で歩いている人ではありません。常に「今」が存在しているのであって、常に「今」主と歩くのが信仰です。

 

イエス・キリストと言えば、過去の「ナザレのイエス」を信じている人たちがいます。その人たちは、イエスが現在天の御座に坐って、すべての権威を持っておられる栄光の主であることに心が及びません。又一方で「再臨されるイエス」だけを信じている人たちもいます。

そのよい例の一つを挙げれば、イエスの十字架の両側に磔られた二人の盗賊が、十字架上のイエスに話し掛けますが、一人は過去のこと、一人は将来のことを思って語っています。しかし真ん中におられるイエスは一人の盗賊に「・・・あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と現在形で話をされています。

又、ラザロが死んで四日経つのを待って訪ねて来られたイエスに対して、マルタもマリヤも「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」と過去に起ったことだけに思いをはせ、悲しみを訴えました。(ヨハネ11章)しかし最初に会ったマルタに対してイエスが「あなたの兄弟はよみがえります。」と言いいましたが、マルタは将来に思いをはせて「終りの日のよみがえりの時に、彼がよみがえるのを知っています。」と言い、ラザロが今よみがえるとは信じませんでした。二人とも目の前に立っておられる方が、栄光の「よみがえりの主」であると本当には信じられなかったのです。

 

アブラハムは主イエスを信仰の目ではっきり見ていたので、どこに行くのか分らないまま、主の言われることに従って旅立ちました。(主と共に歩き始めました。)彼は当時、世界でも最高の文化を持っていた郷里から、しかも大きな財産の持ち主であったにもかかわらず、その大部分を残して出たのです。これは彼の周りにいた神を知らない親族にとっては絶対に理解出来ない無謀なことでありました。アブラハムは夢を持っていたのです。それはイエスのビジョンを見たからです。

イエス・キリストと彼がされたこと(十字架の御業を含む)を実際にはっきりと霊の目で見た人には、この世のすべての栄誉栄光が色あせたつまらないものに見えるのです。この世の創造物は霊の領域にあるものに比べれば比較にもなりません。この世の被造物は霊の世界の影に過ぎません。私と私の影とを比較して見てください。影には私の実質は全くないことがお分かりになると思います。それと同じほど霊の世界のものとこの世のものとは比較にならないのです。

アブラハムはそのことが分ったのです。ですから神の言うことを信じて、故郷を出ただけではなく「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。」(11:9)

彼は建てようと思えば、ものすごく立派な御殿を建てるだけの資産があっても、テント生活に甘んじました。11:10に「彼は堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。」とあるように、アブラハムは本当にその天にある都を待ち望んでいましたから、この世の安物の代替品では満足出来なかったのです。そして「その都を設計し建設されたのは神です。」と書かれている神をひたすら信じ求めて歩きました。

 

彼にとってこの世は、通りすがりの仮の宿でしかありませんでした。私たち信仰者は皆、この世の肉の世界から、それよりも遥かに良い世界(霊の世界)に向かって移行して行く途上にあるのです。

信仰は、どんな不慣れで予想外の場所に逗留することもよしとさせ、その人の一生を旅路として生活することに満足させます。その意味で、信仰で生きる私たちもアブララムと同じように「信仰の変人」でなければならないと思います。人があなたがやっていること見て少々おかしな「変人」だと思わないなら、あなたはもっともっと信仰を成長させる必要があります。そのために、私たちは天からの啓示と多くの天のビジョンを求めて行かねばなりません。なぜなら天のビジョンを持つ時にこそ私たちの信仰は成長するからです。

 

11:11には 「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」とありますが、信仰は子を宿す能力を与えます。信仰はこの世で普通に存在する限界とか限度を超えたことを起こさせるのです。

 

ところでアブラハムは完全な人間ではありませんでした。しかし私たちはアブラハムの時代に比べれば聖書もあり、すべてに恵まれているにもかかわらず、アブラハムよりも完全な人間になる人は少ないと言へます。アブラハムはイシュマエルのことで頭を悩まされましたが、私たちは通常もっと多くの頭の痛い問題を抱えてはいないでしょうか。しかしアブラハムには約束の子イサクが与えられていました。(私たちにはイエスがおられます。)

 

私たちが荒野を通る時に、真の信仰を持つ者の信仰は弱くなるのではなく強くなります。そのために神は約束を与える時点とその約束が達成する時点の間に、通常、試練の荒野を置かれます。その荒野を通る時に、真の信仰者と見せ掛けだけの信仰者が別けられるのです。

 

続く11:12 には「そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。」と書かれています。ここで最初に理解する必要があることは、信仰は数を増やす(multiply)と言うことです。信仰を持つことによってどんどん増し加わるのです。それを止めることは出来ません。

次に、アブラハムは二つの種子seed(子孫)を見たことが書かれています。一つは天の子孫、すなわち霊的な子孫であり、もう一つはこの世での肉の子孫です。とちらも数え切れないほど数多い子孫が生まれました。

 

私たちにとっても信仰によって多くのことが増し加わらなければなりません。ついては、ゼカリヤ 4:6-7 に書かれている聖句を見たいと思います。

先ず6節に「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。」とあります。

ここに出てくる「ゼルバベル」の意味は「バビロンの種」あるいは、「混乱の種撒き」と言う意味です。しかし神は大きな目的を持っておられました。私たちは混乱するかもしれませんが、神はそれを通して私たちを信仰に導きます。

7節にこう書かれています。「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」

 

今朝ここにおられる皆さんは、それぞれが目の前に、最初は一見して乗り越えるのは不可能と思えるような大きな山(難題)を少なくとも一つは抱えておられると想像します。神は私たちが(混乱し絶望するのではなく)その山に登って征服することを望んでおられるのです。英語のcrisis と言う言葉は中国文字で「危機」と書き、それは危険を伴う困難さが「良い機会」となると言う意味であると聞きます。パウロは「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦難を経なければならない」と言っていますが、その一つ一つの艱難に御国に入る門が備えられているのです。

 

それではここで、皆さんと共に立ち上がって、それぞれの前に立ち塞がる大きな山に向かって『恵みあれ。これに恵みあれ』を大きな声で叫びたいと思います。どのような不可能と思われる山も、聖霊の力によって主が平らにして下さるのを見ようではありませんか。主は私たちが信仰によって大きなブレーク・スルーを経験し、その証をどんどん聞くことを期待しておられます。

私が一つ証をしますと、ある時ボブ・ウエイナーさんと遠方の地に出掛けることになり、二人で飛行場のカウンターまで来た時、彼が私に「ファーストクラスで行くのですね。もしそうでなければ私が払うから」と聞くので、私が「値段の問題ではないのです。勿論私はいつものようにエコノミーです」と答えました。すると、彼が切符とカウンターに向かって『恵みあれ。これに恵みあれ』(grace, grace to it!)を一緒に叫ぼうと提案したのです。早速私たちはそれをしました。そしてカウンターに近づくと、係りの女性が私の切符をファーストクラスにグレードアップしてくれたのです。私はその後、何度も試してみましたが、この「叫び」は効果があるのです。

勿論これは魔術で呪文を唱えるのとは違います。真の信仰は私たちが誰を信じているかを確認させ、私たちのうちにおられる聖霊にアピールするのです。

 

それでは、皆さんのそれぞれが自分の前に立ち塞がる山、それは人間関係の問題であるかもしれませんし、経済的な問題であるかもしれませんが、今、これから叫ぶ対象の山をはっきり心に思い浮かべて下さい。そして立ち上がって皆で力いっぱい叫びましょう。(終り)

 

(訳者注:今回の(2)では、スピーチの全部を訳しますとかなり長くなりますので、主なところを要約させていただきました。ご了承下さい。)


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