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09 6月

信仰について (1)   リック・ジョイナー            2013年6月9日


信仰について (1)

 

リック・ジョイナー

 

 

私たちのゴールは、クリスチャンの教義を学ぶことにあるのではなく、信仰が成長することにあります。私はこれから信仰について少し掘り下げてお話したいと思いますが、その結果として、皆さんの中で大きなブレーク・スルーを経験する人が出て来ると信じます。今はそのような時であると思います。

信仰とはこの地球上に存在する最も大きくパワフルな力です。信仰を持つ一人の人は、どのように強力な軍隊とか組織よりも大きな力を持って事を成し遂げることが出来るのです。なぜなら、信仰が不可能なことのない神を動かすからです。

 

私たちは信仰について単に話すだけではなく、それを「見ること」によって、育て成長させねばなりません。信仰はからし種のように成長する種と比べられます。種は耕した土壌に蒔き、水をやり、周りの雑草を取り、育成することによって成熟させ実らせなければなりません。もし私たちがキリストの内にあって成長しているのなら、私たちの信仰が育成されることによってどんどん実がなるはずです。マタイ18:19-20で、主は「二人が心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださる」と言っています。

しかしここで言う「心を一つにする、同意する」の意味は単に頭で同意する以上のことを言っています。お互いにすべての歯車がぴたりとかみ合って動くと言う状態にあると言う意味で、例えばクリスチャン用語としてよく使われるギリシャ語のkoinoniaコイノニア(普通交わりと訳される)がそれに該当します。しかしこのギリシャ語の意味は多くの場合非常に浅い表面的な意味にしか取られていません。本来は「一致・同意して交じり合った二人のどの部分を取ってもどちらがどちらであるのか見分けが付かない程同じものになっている状態」を指しています。私たちは「キリストのからだ」であると言いますが、その意味もまさに同じであって、私たちは何事においても不可能がない主と見分けが付かない程同心同意で一致していなければならないのです。又英語で言うabide in(・・・のうちにとどまる)と言う言葉も同じ状態を指しています。

 

それが信仰が何であるかの基本的な意味であり、定義であると私は信じています。それを単的に言えば、「主が誰であり、どこに座しておられ、どのような支配、権威、権力、主権の上に高く置かれている方(エペソ1:22)であるかを認識すること」であり、そのようなお方と私たちが一体となって同意すること、それが信仰であると思います。

ですから信仰はフィーリングとか感情ではありません。それは主を霊の目で見ることです。信仰とはそのような権威を持って天の御座に座しておられるイエスを見ることです。その主と共に歩くことが、私たちの持つ教義とか考え方を変革して下さいます。勿論、教義と教えは私たちにとって最初に必要であり、それを学び正しく理解しなければなりません。しかし私たちは単に教義を理解するに留まらず、信仰そのものを持ち、それに成熟していかねばなりません。

その意味で私たちはこれから毎週生きた信仰のブレークスルーを経験した証を分かち合う時を持ちたいと思います。

 

その信仰の成長のために、私たちはこれからヘブル書11章を深く掘り下げて学んでみたいと思います。第一にこの章は信仰の定義を教えてくれます。しかしイエスが御国の定義について一つだけ定義を言われたのではなくて、何度も「御国とはこのようである」と色々な説明をされたように、信仰の定義も、あまりにも大き過ぎてそれを簡単に集約して一言では定義出来ないことが分ります。しかしこの11章では信仰に関する多くの深い洞察を学ぶことが出来ます。最初に1:1で「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(口語訳)と書かれていますが、信仰は他の人が見えないことを見ることです。それは霊的なビジョンに基づいています。肉の目では見えないものを見て確信するのです。

そこで皆さんは、主がどうして私たちに「信仰で生きなさい」と言われたのか、考えたことがありますか。それよりも、私たちがすべきことを簡明に語って下さればいいではないですか。私たちは主の言われることに従いたいと思っているのですから、それをはっきりと語って下さればよいのに、と思いませんか。しかし私は思うのですが、私たちは常に(信仰で)信じなくてよい、信仰で生きなくて済む方法(生き方)を求めてはいなでしょうか。

この世では、私たちは常に部分的にしか見えず、部分的にしか預言をいただけず、部分的にしか知らされていません。主は、一人の人にすべてのことをお与えにならず、いつも必ず私たちが信仰で知るしかない部分を残しておられるのです。一方私たちは、(主の御心を知ることに関して)絶対に間違いがないと言うことがはっきりするまでは絶対に行動を起こさない(間違いを犯すことを恐れて)と決心します。しかし、それでは信仰で一歩踏み出すと言うことは絶対に起こりません。私たちは未だ肉の目では見えていないけれど、心の目で見る霊の領域があることを知り、その領域を持たねばならないのです。霊の目で見て知り、信じて行動を起こすようにならなければならないのです。

 

パウロは、私たちは心の目を開いて、霊の目で見て行動しなさいと教えています。私たちの目標は、「肉の目で見ることより霊の目で見ることの方がより現実的で確かである」と言う確信を持つようになることです。旧約の時代の預言者がそうでした。しかし私たちクリスチャンは皆旧約の時代よりもよい契約を持っているのですから、それよりよくなければいけません。私たちは新しく創造されたもの、霊的に生きるように創造されています。そのことを私たちは真に理解して、そのように成長、成熟して行かねばなりません。もし私たちがイエスに向けて成長しているのであれば、肉の領域で生きるより、霊の領域で生きる方がより自然であると思うようにならねばならないのです。

勿論新しい創造であると言っても、私たちは霊的であると同時に肉的でもあるのですから、時にはハンバーガーを食べなくてはなりません。私たちは自分の肉の身体とかその他諸々のこの世のことを処理して行くことに変わりありませんが、そうしながらも霊によって生きるように成長して行くのです。私たちは肉の人間で時々霊的経験をするのではなく、霊的に生きる者であって、時々肉的経験をする――これが「新しい創造」のあるべき姿です。そのように成長して行かねばならないのです。未だ肉の目では見えないものでも、霊の領域を見る心の目をしっかり開いて見つめながら生きることによって、そこに見えてくるものを信じるのです。そしてそれに対応する行動を起こすのです。

11:2に「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」と書かれていますが、その後の11:3に「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」とあるように、すべてのものは目に見えない領域で先ず造られることを理解しなければならないのです。あなたの召しも、目的も、デスティニーも含む、あなたの人生のすべてのものが先ず見えない領域で造られます。そこでは、他の人には見えないものがあなたには見えるのです。

 

これが信仰の始まりです。信仰とは基本的に創造的であるのです。それは創造者の神の最も重要な創造の一つです。信仰は(創造者と共に)創造することですから、信仰を持つクリスチャンこそこの世で最も創造的な人たちであるはずです。神を知って神に親しく従いながら神について行く人たちよりも創造的な人はいません。

 

11:4では「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」と書かれています。ここで気が付くのは、アベルは何かを「見た」ことです。神はカインの捧げ物を退けざるを得ませんでした。そのことがお分かりですか。カインの捧げ物を神は受け取ることが出来ない、それは永遠に出来ないのです。なぜでしょうか。アダムの罪によって地が呪われ、その呪われた地から出来た産物をカインは神に捧げたからです。神は罪で呪われたものを受け取ることは出来ないからです。しかもカインはその呪われた地から(神と関係なく)自分の働きと自分の努力で出来上がったものを神に捧げました。(信仰から出たものではなかった)

一方アベルは何かを見たのです。彼はいけにえを見たのです。血を見たのです。アベルは心の目で見たものを信仰で信じて生きたのです。信仰の父と言われるアブラハムもその一人でした。イエスが「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日が来るのを楽しみにしていて、それを見て大いに喜んだ。」(ヨハネ8:56)と言われたように、アブラハムはイエスの十字架のあがないの御業を二千年前に霊の目で見てはっきりと信じ(理解し)ました。それは多くの人が二千年後の今の時代にイエスの御業を信じた以上の信仰で信じたのです。

 

あなたは時間を超越して霊の目で何かを見ることが出来ますか。あなたはそれを見る霊の目を持っていますか。私たちが信仰を持つ時、主がご自身を最も優れた「義のいけにえ」として捧げられたことによって、私たちも、神の永遠の目的のためならば、一時的なこの世での犠牲を惜しむことなく、より簡単により速く捧げることが出来るようになるのです。真の信仰は、私たちがもう一つの「真の目的」のために生きるようにしてくれます。

 

ヘブル11:5には「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」と書かれています。この聖句のどこに、エノクのしたことで私たちには出来ないことが書かれていますか。私はエノクがしたことを私たちもしなければならないと思います。エノクが死ぬことなく天に上げられたのは目的があってのことでした。エリヤが死ぬことなく天に上げられたのもそうです。

「この二人はこの終末の時代に多くの影響を与える」と私が言うことを信じてください。二人とも今の私たちの時代がどうあるべきかを啓示しています。私たちは今移されていなければならないのです。英語のtranslateと言う言葉には「移す」と言う意味がありますが、「生きたままで天に移される」あるいは「形を変えて表す」と言う意味もあり、それを別の英語で言えば transformです。それは私たちが今「天の領域に移される」時であると言う意味です。それは私たち(の霊的成熟)が天の領域と同じレベルにまで追いつくと言うことです。私たちは常に主と共に歩いているはずです。そして主と共に生きているはずです。

 

私は人々が「私は、自分が減少decreaseするように努力している。それによって主が増大increaseすることが出来るように。」と言うのをよく耳にします。しかしヨハネはそうは言っていません。ヨハネが言っていることは前後が逆なのです。英訳で言えば”He must increase, but I must decrease.“と言ったのです。(訳者注:これはヨハネ 3:30の聖句、日本語訳で「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」の英語訳を引用して言ったものです。)すなわち「主が増大しなければならない。それによって私たちが減少し、最終的に『自分』が空になることが目標である。」と言う意味です。

「エノクは神と共に歩いた。そしていなくなった。」と言う意味を私たちに当てはめれば、キリストが私たちに代わって生きているので、私たちの「自分」の存在が徐々に空になり、いなくなることです。これが私たちのビジョンであり、クリスチャンの目標でなければなりません。私たちは、パウロがガラテヤ2:20で言ったように「・・・生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と言えるようになることです。

私たちが主と歩いているうちに、私たちの中に今までしっかり構えていた(自分中心の)自分(自我)が次第に消滅して、ついにはキリストが私たちと置き換わって私たちのアイデンティテーになることです。もし私たちがエノクのように常に主と歩けば、私たちはいなくなるのです。それは天におられる主のもとに挙げられた状態であるのです。それはよいことであって決して悪いことではありません。それは自分で自分をなくそうと努力することではありません。常に主と共に歩くことです。(続く)

 


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