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01 6月

弟子の人生はその人のものではない     リック・ジョイナー        2013年6月1日


弟子の人生はその人のものではない

 

リック・ジョイナー

 

 

使徒パウロは、終りの時代には多くの人が自分の耳をくすぐるようなことだけしか聞かないようになって惑わされると警告しております。 それは自分が責められるような厳しいことばを聞くに堪えなくなるからです。私はこれからの数週間、弟子になるための最も厳しい課題を先に取り上げたいと思います。そのよい例の一つが次のルカ14:33で主が言われた言葉です。

「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」

この御言葉は文字通りの意味なのでしょうか。その通りです。と言うことは、主が一人の(金持ちの若い)役人に要求したように(ルカ18:22)、私たちは持ち物を全部売ってそのお金を貧しい人に与えなければならないのでしょうか。必ずしもそうではありません。その意味は、私たちが自分の人生を主にお渡しした時から、私たちの持ち物はすべて主のものとなったと言うことです。私たちは、代価を払われた主に買われて、既に私たち自身のものではなく、主のものであるからです。

 

私たちが主の弟子になった時から、私たちは自分で自分を支配する権利を捨てて主の権威の下に入りました。私たちはもはや自分と言う一人の人間と関り合うのではなく、すべてにおいて宇宙を支配される主と関り合う立場になったのです。人間に関するあらゆる問題は、人が神に従わず神を無視して自分の好きなように生きることが出来ると考えるようになった結果として生じたのです。ですからすべての問題の解決は、神に立ち返り、すべてのことにおいて神に従い求めることにあります。それを徹底すれば、すべてのことがもはや自分のものではなく神のものであり、私たちは神の財産管理者であると言うことです。ですから財産のすべてを人にあげてしまうか、あるいは神の指示に従って管理するかは主が決めることであり、そうすることによってのみ、私たちは究極の自由を得ることが出来ます。

それには私たちにとって最も貴重なものである「(自分の)時間」も含まれます。と言うことは、私たちはもはやすべての面において、自分のために生きるのではなく、主のために生きるのです。それは自分のしたいことをするのではなく、すべてのことにおいて、主がなさりたいこと、主の御心が何であるかを主に求め聞くことです。

 

私たちが成熟してより忠実に主に仕える者となれば、私たちはもっと多くの自由と権威が与えられるようになります。忠実に仕える者は主の友となり、主はすべてのことを語り分かち合ってくれます。忠実な友は主がすべてのものを与えてくださる神の息子・娘となることが出来るのです。その分かち合って下さるものの中には、この世の人間の王でもとても考えられないような自由と権威が含まれます。しかし、その基本として徹底した従順がなければなりません。

 

真の弟子として生きることは、ある点では私たちにとって最も難しい人生であると言えましょうが、しかしそのと同時に最も自由で解放された、満足のいく、しかもエキサイティングな人生です。私たちにとって最高の自由が得られるのはキリストの奴隷になることです。それは簡単なことではないかもしれませんが、どのような面から見てもこの世の人生で最も価値のある生き方です。それにも増して、この世だけでなく、はるかによい人生を永遠に生きることが出来ると言う究極の恩典がいただけるのです。

このような生き方をするのは一体誰なのでしょうか。真の弟子は皆そのように生きるのです。多くはありませんが、ある人たちはそのように生きています。本当にそのように生きているか、見せ掛けだけであるのかは時が経てば分ります。主を信じることで地獄に行くのを免れるには足りるほどの、いわば保険を掛ける程度の信仰は持ちたいけれども、真に主が言われることを行なうことはしたくない、つまり主の御心を知るために主を求めることには興味を持たない人たちは、聖書の御言葉によれば、非常に悲劇的な結末を迎えるのです。

 

人間関係において最も礼を欠くことは、相手の人に対して無関心な態度を取ることです。黙示録3:16で、主は、信仰のなまぬるい人に対して「わたしの口からあなたを吐き出す」と言われました。神は恵み深く、忍耐強い方ですが、その忍耐には限度があることをいい加減に考えてはいけないことを明確に語っておられます。神の御名を用いて神を呼んだり呼ばれたりすることだけで安易に自分を神に従う者であると称するとすれば、それは最もゆゆしいことであるのです。主はそのことをマタイ7:21-23で次のように厳しく警告しています。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」

 

この御言葉によって私たちは、多くの人が主の御名を用いて多くの普通以上の業とか奇跡を行なったにもかかわらず天の御国に入れないことが分ります。その理由を主は「わたしはあなたがたを全然知らない」からであると言われます。ここで言う「知る」と言う言葉は、単に知っているのではなく、ちょうど親密な夫婦のように「深い親密な関係にある」と言う意味です。神はこのような深い愛の関係を人間と持つように人間を造られたのです。そしてこのような関係を持つことによってのみ、私たちは真に最もよい結果を生む人生を送ることが出来るのです。それはその人がどんなよい業や行いをしたかと言うこととは無関係なのです。

主とこのような関係を持つための時間は未だあります。すべての被造物にとって、今こそ神と親密な関係に入る最大のチャンスなのですから、このチャンスを無駄にしないで下さい。

(終り)

 


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