WWGM

Walk With God Ministries

21 4月

「どうすれば神は私にもっと語ってくださるのか」― その2 ジャック・ディーヤ Jack Deere 2013年4月21日


「どうすれば神は私にもっと語ってくださるのか」― その2

 

ジャック・ディーヤ Jack Deere

 

 

「喜んでする気持ちがあるか willingness」

 

イエスの教えを聞いた当時の人たちは、特に彼を敵視する人たちですら、その知識の深さに驚き、その教えがどこから来たのかといぶかりました。そこでイエスは「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行おうと(喜んでしたいと)願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」 (ヨハネ7:16-17)と言われたのです。

この御言葉から神の御声を聞くために欠かすことの出来ない第二の必要条件が分ります。それは私たちが、どれ程神の御心に従いたいと思っているかに掛かっていると言うことです。つまり神は本心から御言葉を聞いてそれに従う気持ちのある人に語られるのです。イエスご自身は父の御心に従うことだけを常に願いました。それがヨハネ 5:30でよく分ります。イエスは「 わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」と言われました。(ここで使われている「さばく」という言葉は「決めてそれを尊重する」と言う意味です。訳者注)私たちの心の奥底から御言葉に従う気持ちのない人に神が語られないのは、むしろあわれみの心からであると思います。なぜなら初めから従う気持ちのない人に語って、その人が行なわないのであればその人自身がさばきを招くからです。

 

短いこの世の人生であなたが誰を喜ばすかについて、既にあなた自身の結論を出しておられますか。「わたしはあなたのみこころを行なうために来ました」と言われたイエス(ヘブル10:7,8)と同じゴールをお持ちでしょうか。父を喜ばすことを最高のゴールとされ、父の御心をなすことをこの世に来られた最大の目的とされた故に、イエスはいつも父の言われることが聞けただけでなく、たとえ親しい人たちに裏切られ、ご自身の国民から拒否されてもそれを恨まずにすんだのであると思います。彼は親しい弟子たちを愛し、ご自分の国を心から愛しました。しかし、それ以上に父の御心を行うことを第一としたのです。しかもそれが最終的にどれ程の苦痛を経験せねばならず、又ご自分の愛する国民から拒絶を招くという最も惨めな結果になることが分っていてもです。それに対する報いが、彼の最も愛する方の御声をいつも聞くことが出来、それに従うことよってその方に喜んでいただける結果となったのです。

皆さんと私は、それぞれに神の御国でのすばらしいデスティニーを持っています。それを否むことの出来るものは何もありません。ゴシップとか、中傷、裏切り、どのような悲劇も、又悪魔ですら私たちのデスティニーを盗むことは出来ません。ただ私だけが私の王冠を投げ捨てることが出来、あなただけが、あなたの王冠を他人に譲り渡すことが出来るのです。但し私たちの人生のゴールが何であるのかが私たちの心の中の心ではっきりと決まっているのであれば、それは決して起きません。神は、私たちが従うことが分っておられる時に、私たちに語られます。なぜなら、神は私たちにとってそれが一番必要であることをご存知だからです。たとえ御声を聞いたときに、それが私たちに納得行かなくてもです。

 

ピリポはサマリヤで、しるしと奇跡の伴うリバイバルの真っ最中におりました。その時、主の使いがピリポに「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」と命じました。(使徒8:26)これは一見つじつまの合わないような命令でした。リバイバルが起っている真っ最中に、そのリーダーにそこを出て荒れ果てた寂しい道に下れと言われるのですから納得がいきません。しかし驚くべきことに、次の節でピリポはそれに従ってそこを離れて行ったと書かれています。結果として神が言われたことの理由が分ったのですが、もし彼が主が語られたその御声に喜んで聞き従わなかったら、それは起きなかったでしょう。

 

大分前の話になりますが、主がどうも私の趣味の一つを諦めなさいと言われているように感じ始めたことがありました。その趣味と言うのは何も悪いものではなかったのです。そこで私は主に、その趣味を諦めるのは喜んでしますが、その前に主が私に、はっきりとそうしなさいと言って欲しいとお願いしました。と言うのは、私は禁欲主義とか苦行生活に入るつもりはなかったからです。私の経験では、今まで単に主に気に入られるために、特に悪いことではないことで自分を否定する行為に出ることは決して霊的に得にはならないと思って来ました。今まで主が示されないで自分で何かを諦めた時は、結果として律法主義に陥り、独善的になるか、あるいは最終的に苦々しい思いで終わっていたからです。ですからその時私は、主に「私はこの趣味を大変好んでいます。でも主からの命令であれば私は(喜んで)諦めます。」と申し上げました。

それから約六ヶ月後のある日曜日の朝早くでしたが、半分目が覚め半分寝ているような状態の時に、その夜中に見た一つの夢を思い出していました。その夢の中で、私は友人のポール・ケーンと話していたのですが、最後の辺りでポールが「主があなたの趣味を諦めるように願っている。」と言ったのです。(夢の中で彼は私の趣味の名をはっきり言いました。)私はかすかに見た夢をやっとのことで思い出したのはよいのですが、それが本当に主からのものなのかどうかがはっきりしなかったものですから、私は主に改めて「もし本当にあの夢が主からのものでしたら、どうぞ今日ポール・ケーン自身からその夢について私に話をするようにして下さい。」と祈りました。ところがその週末は、たまたまポールが私のいる町に来ていましたのて、私が日曜日の礼拝で話をした後、ポールと昼食に出かけました。その後私が彼を空港まで送って行く車の中で、ポールが「昨夜驚くべきほどはっきりとした三つの夢を見たことを今でも明瞭に憶えている。」と言ったのです。

私には信じられませんでした。私はすかさず彼に「実は私も昨夜夢を見た。しかもその夢の中で私があなたと話している夢です。」と答えました。その後でポールが見た夢を色々と話してくれたのですが、結局私の趣味については何も触れませんでした。そこで私は運転しながら隣席の彼に、念のために、私の趣味の話を主はされなかったのかと聞き返すと、ポールはすかさず「実はあなたがその趣味をどんなに愛しているかを私は知っているので言わないで置こうかと思っていたところですが、それを聞かれたので言います。主はあなたがその趣味を止めることを願っています...」と言ってその趣味の名前を言い当てました。

 

最初は信じられないような気持ちでした。もうこれで止めない理由はなくなった――諦めざるを得ない――と言う落胆の思いもありました。しかし、主がどれほど私に気遣われて、超自然の方法でやさしく私にそれを伝えられたかということに気が付いた時、一瞬にして私の思いは喜びに変わりました。私は、主が趣味の代わりにもっと主の臨在を私に増し与えて下さることが分っていました。私はこれによってむしろ大きな得をすること、その上、私がこんなに早く主の御心を喜んでする気持ちになった(主がして下さった)ことを、少し誇りたい気持ちにさえなったのでした。

そこで私はポールに「他に何か私が諦めるべきことがあると主はおっしゃらなかったですか?」と訊ねると、ポールは私の質問に直接答えるのではなく、逆に私に聖書(マタイ19:16)に出てくる「富める若者」の話を知っているかと聞きました。そこで私は、その若者とイエスの会話について話すと、彼は「この若者は『何かまだ欠けているのでしょうか』という質問をしないで、はじめの質問だけで止めておいた方がよかったとは思いませんか?」と私に聞きました。

 

このポールの質問の意味を私が充分に理解するには少し時間が掛かりました。主はもっと後になって私に他のことを諦めるように言われるかも分りませんが、その時の私では、未だその他のことを諦めなさいと言われても、私が「はい」と答えて出来るまでに(霊的に)成熟していなかったことを意味していたのです。すなわち主はその時、私が喜んで諦めることが出来ることだけを私に要求されたのです。それは私がその時に反抗的であったからではなく、ただ未熟であったからでした。それは六歳の子どもに「しなさい」と言うことを三歳の子どもにやらせるのは無理であるように、十八歳の青年に「やりなさい」と言えることが、六歳の子どもにやらせようとは夢にも思わないのと同じです。

時に主は、私たちが主に対して反抗的であると言う理由でその人に語らないこともありますが、多くの場合は、反抗的であるがために主が語られないのではなくて、むしろ私たちが未熟なせいで語られないのです。私たちが主にあって霊的に成長するにつれて、もっと主の御心をしたいと言う気持ちに成熟する時に、主は私たちの生活の中でより大きな部分について話されるようになるでしょう。(続く)


Post a Comment