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10 4月

霊的成熟について        坂  達 也    2013年4月10日


霊的成熟について

 

                       坂  達 也

 

 

私は前回の「坂 達也の今月のメッセージ」(2月22日)の中で次のように申し上げました。

 

「母親役の教会の最終目標は、エペソ4:13でパウロがこう言います。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」これはすごい御ことばではありませんか。私たちは最終的に完全に育てられ、成熟して、キリストが100%満ちている、キリストと同じ背の高さにまで成長する、と聖書が言うのです。先程も言いましたように、聖書に書かれていることは必ず実現可能であることをお忘れにならないで下さい。すなわち、教会がこのような主の身丈まで達した信仰を持つ完全な霊的成熟者を生むと言うのです。」

 

私がこのように書きましたことは、間違ってはいないと信じますが、今回はその意味を更に深く掘り下げ、より明確にしてみたいと思います。

 

先ず、この文章はパウロが「キリストのからだ」教会 を建て上げることについて述べたものであることです。その意味を完全に把握するためには、この節のみならず11節から少なくとも24節までを通して理解する必要があると思います。しかし今回ここでは引用しませんので、ぜひ皆様各自でお読みいただくことをお勧めします。

 

さてそこで、私たちが最初に見直してみる必要があるのは、私たちが「信仰によって救われた」と言う事実についてです。

 

信仰とは何か

 

私たちはイエス・キリストを心で信じ、洗礼を受けて、信仰告白をすることによって、その時点から古い罪だらけの自分に死に、キリストと共に復活して新しく生まれ変った「霊の人間」になりました。そのことがロマ書6:4とかコロサイ2:12等で、まるで既成事実のように過去形で書かれております。そして、私たちは常にその「既成事実」を現在形で生きている――それが私たちの持つ「信仰」の特質であるように思います。R.J.Utley師は、注釈書の中で「信仰者は、御国においては『既になされた』と『未だなされていない』の間の緊張tensionの中で生きるべきです」と言い、その意味を「御国での恩典benefitsのフル・ペイメントの支払いは未来ですが、御国に入る市民権とそのステイタスstatusは既に現在形として獲得しているのです」と説明しています。又、信仰と言うものは、まだ起っていないことを必ずそうなると信じて行動する、つまり将来起こることを先取りすること、とも言われます。

実は、時間とは被造物の一つであって、本来神は時間を超越した空間に(それは一定に流れる時間に拘束されない、まるで時間がないような世界に)住んでおられると言われます。そうであれば、ご自分で決められたことは、即その瞬間にそれが実現しているのです。まるで手品師のようですが、これはとても重要なことであると思います。なぜなら、私たちが最初にキリストに信仰を持った時から、私たちは(自分では全くそんな気がしないのに)キリストご自身に堅く結び付けられ、何物もこの「神の愛から私たちを切り離すことができない」永遠の家族の関係、すなわち「キリストの花嫁」になっていることが、あたかも既成事実として成立しているからです。

 

そのことを説明してくれるよい例がイスラエルにおける古い時代の結婚の習慣です。イスラエルでは結婚の約束を交わした(婚約)時点で、「夫と妻になった」と公表されます。そしてその後一年ぐらいは別々に住んで性的結合に入らないのですが、時が来たら、夫が妻を迎えに来て、初めて二人で住み始め、名実共に夫婦生活に入ります。もしこの待っている一年の間に他人と性的交渉があれば姦淫の罪に問われ、結婚解消をしようとすれば離婚の手続きが必要とされました。(イエスの肉の両親であるマリヤとヨセフのことを思い出して下さい。)それと同じで、私たちは信仰告白をしたらキリストと正式に夫婦の関係に入ったことを意味します。少なくとも神はそう見ます。しかし、本当にキリストと住み始めるのは、キリストが私たちを迎えに来る再臨の時からです。

 

又同じように、神と私たちクリスチャンの関係は、キリストを信じると告白した時から、正式に養子縁組が成立して「神のむすこ、むすめ」となり(入籍)、遺産相続を受けられる親子関係に入ります。又、キリストと「一つのからだ」になることにおいても同様で、信仰告白した時点から霊的にキリストに結び付いた「一身同体の関係」に入ることに変わりはありません。この霊的に結び付けられた状態statusを英語ではunion with Christと言います。私たちクリスチャンはもう既に完全にキリストに所属し、キリスト(神)のものなのです。

 

しかも神は、その(霊的な結婚証明書とも言うべき)保証として、聖霊を信仰告白した時から私たちの霊の中に送り込み、事実上霊的な神との住み込み生活が始まっているのです。と言うことは、もう二度と聖霊は私たちを離れないと保証しておられるのですから安心してよいのです。(2コリント5:5)ですから私たちは、既に内住されている夫、キリストの霊である聖霊にすべてを委ね、聖霊に従って生きるのは当然であるのです。そのステイタスの生き方をパウロがガラテヤ2:20で「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」と言っています。この状態をヨハネは「わたしたちが神におり、神がわたしたちにいる」(1ヨハネ4:13、口語訳)とも言いました。

 

私たちはこの信仰の原点を忘れてしまい、つい古い自分でものを考え、古い自分で行動しがちです。いや、少なくとも私がそうです。恥ずかしい話ですが、私が先回のメッセージを書いた時は「つい、古い自分で書いてしまった」部分がありました。その文章とは「・・・しかし、今の教会の状態からすれば、後三年の間にキリストと同じ身丈にまで霊的成熟する人が多く出るとは、正直なところ、とても考えられないと言う気がします。そう考える方は恐らく私だけではないと思います。」と書いたことです。不可能はない万能の神が最初から計画していることに不履行は絶対にありません。少なくとも私はそれを疑ったことはありません。信仰とはそんなものではないはずです。ですからほんの一瞬でもこんな不信仰なことを書くなら、それは私の古い自分が書かせたことであって、信仰から出た言葉であるはずがないのです。しかし、すばらしい愛とめぐみの主は、その後で、私の不信仰に直ぐ気が付かせて下さいました。それで今、これを書いている次第です。

 

キリストのからだ」になるとはどう言うことか

 

それは繰り返しになりますが、私たちが既に「キリストの花嫁」であるのと同じように、夫であり頭であるキリストの意思に完全に従い、神と共にこれからすべての苦しみと喜びを分かち合う一心同体の「キリストのからだ」として行動することを意味します。しかも頭(夫)であるキリストが、先ず聖霊を送って、私たち(妻)を夫にふさわしい妻、からだになるように教育し、そこまで霊的成熟させると言う「手はず」が有史以前の初めから創造者の神のご計画であるのです。神はご自分の立てた計画と約束は必ず守られます。(神は約束した時に既にそれが実現することが仕組まれていると言った方がよいかもわかりません。)

そして、待ちに待ったキリストの再臨を迎えて夫と同じような「よみがえりの霊のからだ」が与えられ、それ以降は未来永劫にキリストと共に住むのです。

 

その意味では、たとえ今の教会が、現時点でどのようにキリストに似ても似つかない状態であっても、万能の主にとっては「当初の計画通り」で、全く問題ないのです。今は終末の時代と言われ、これから大きな艱難の時代に入ろうとしていますが、それを通って必要な花嫁訓練を終えて後、夫であるキリストが妻のところに帰って来られるのです。

従ってそのようなキリストにふさわしい子ども、あるいは花嫁になるために、今こそ「わたしたち(キリストのからだの)すべての者が、(頭である)神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至る」ことが必要であると同時に、それは必ず聖霊によって実現されるのです。それがエペソ4:13の意味するところであると信じます。

 

私たちは目下キリストにかくまわれて修行中

 

ここで改めて強調させていただきたいことは、私たちクリスチャンは個人的にキリストを信じて救われても、私たち個人が勝手ばらばらに生きるのではないと言うことです。重要なことは、父なる神は私たちを見ても、私たちがキリストの内部にかくまわれ、今は隠れた形で入っている限り、あくまでキリストご自身として私たちを見ておられるのです。すなわち、私たちが救われるのは、キリストの中に入れていただきキリストと一体となるしかないと言うことです。そうであるからこそ、成長過程で多少の間違いとか罪を犯しても、私たちの罪の身代わりとなられたキリストの中に私たちが入って守られていますから、父は私たちの非は見えないとおっしゃるのです。それゆえに、父なる神は文句なしに私たちをキリストと同じ我が子として心から愛して下さいます。それがコロサイ3:3に書かれている「あなたがたは既に死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」と言う御言葉の意味であると思います。

 

これで気が付くことは、私を含めほとんどの信仰者が、私たちの主にあっての兄弟姉妹を父なる神の見方と同じ見方で見てはいないと言うことです。私たちは、今は全員が信仰における霊的成熟の途上にあり、未完成で修行のプロセス中にいるのクリスチャンなのですから、その間の罪はキリストによって既に赦され、かばわれていることを忘れてはならないと思います。従って今は未熟なクリスチャン同士が、お互いのあら捜しをしたり、批判し、攻撃するとすれば、そうする人の信仰が問われます。それでなくとも未熟な私たちはこの世の未信者から常に批判の目で見られ、攻撃の的となっているのですから、少なくとも一心同体で共にキリストにあって修行中の私たちの間では、その人を批判したいことは聖霊にお任せして、安心してお互いが愛し合い、赦し合い、励まし合うことこそお互いに一番必要なことではないでしょうか。

 

ひとりの「キリストのからだ」と言う共同体は、私たちの肉の親子とか、夫婦、兄弟姉妹の関係が、この世だけの一時的な関係であるのと違って、決して離れることのない永遠に共に生きる関係にあります。

ところが残念なことに、今ほとんどのクリスチャンは個人的に信仰が成熟することに重点を置き、他のクリスチャンは、極端に言えば、二の次扱いの「他人」と言う感覚を持っているように思えます。この際、先ずそれを捨てて、前述の通り、クリスチャン同士が真剣にお互いをいたわり、助け合い、励ましあい、導き合うべき時であると思います。そのために今一番必要なものは愛であると思います。私たちがキリストの愛を受け、主を愛し、その愛で互いに愛し合うこと、これに尽きます。

 

私たちは又、既に自分に死んでいるはずですが、その古い自分でものを考えたり、判断しながら生きようとしていないでしょうか。これが現実に差し迫っている最も重要な課題であると思っております。

 

主にすべてを聞く

 

私たちが死んでいるはずの古い自分とかかわりを持たない方法は一つしかないと思います。それは自分で考えて行動する前に、先ず私たちに内在する主キリスト(主の御霊)にどうするかを聞くことです。例えてみれば、私たちの霊の中には、主(の霊)が常駐されている部屋があり、その部屋は常に私たちのためにドアが開かれています。私たちはその部屋(事務所と言ってもよいですし、あるいは社長室と言へば尚分り易いかもしれません)に入り浸り、足しげく出入りするようにドアが常に開けられているのです。ですからそこにおられる主の御霊と親しい関係になり、何事も気安く親しく相談し、すべての指示を仰ぐ間柄になれば、古い自分が介入する余地を締め出すことが出来ると思います。それしかありません。

それに私たちの霊的成熟を達成させて下さるのもすべて主の御霊であることを忘れてはならないと思います。(コロサイ2:19)

 

エペソ4:21に「ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。」と言う御言葉がありますが、この御言葉に上記で私が申し上げたことが書かれていると思います。「キリストから直接お話を聞き」=「キリストに聞き」、「キリストの内(部屋)に入って、いつも直接教えられているべきであると言う意味です。」=「キリストにあって教えられているのならばです。」、「なぜなら、すべてのことの正しい答えはキリストにあるのだからです。」=「まさしく真理はイエスにあるのですから。」 

 

それでは最後に一昨日与えられた御言葉をお分ちして終りにしたいと思います。それは1ヨハネ3:2-3です。

「3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。3:3 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」(新共同訳)

 

上記の聖句は、私たちの最終目標である「キリストに似た者になる」ことについて書かれています。ヨハネはこの目標が達成されることを強く望んでおりました。彼は現在の私たちと同じように信仰によって既に神の子になっていることを知っておりますが(この世はそれが分らず認めておりません)、それが具体的にこれからどう言う形で神の子としての特質があらわれるか(特にその栄光が)それは分らないと言います。しかし一つだけ分っていることは、キリストが帰って来られる時に、私たち全員がキリストのすべてをありのままを見ることが出来ると言うのです。

この「ありのままに見る」と言う原語は、その人を、ものが見えるように見えると言う以上に、その人の心の状態(内面)が見える、分ると言う意味だそうです。余談ですが、天国に行った経験のある人は、天国で人と出会う時は、その人に聞かなくてもその人の考えとか思いが分かる(見える、感知する)そうです。

 

恐らく私たちは再臨のキリストと個人的に向かい合う時、イエスの人となりに心打たれ圧倒されると信じます。この瞬間こそクリスチャンとしての最高のクライマックスの時となることを疑いません。この時に、主キリストがいかに愛に富んだ方であるか、その愛の大きさが分ると信じます。同時に、自分に対して主がどれ程の思いを持って来られたか、又、自分自身がどれ程主を愛し、どれ程個人的に知って来たかも、主ご自身によって明らかにされると思います。

主キリストの人となりを見る時に、自分も同じようにキリストに似た「よみがえりの霊のからだ」に変えられるのです。こうして私たちの心からの望みである「キリストに似る」ことが最高の形で成就します。次の節では、その望みを持つ人はキリストの聖(清)さが分り、自分も聖くなりたいと強く思うことによって自らが聖くなると言われています。これがキリストに似ることの最大の成果であり、それ以降は私たちは決して罪を犯さなくなると信じます。「心のきよい人は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)

 

主は創世記1:26で「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(新共同訳)と言われました。この神に似せて人間を造る当初のご計画が、キリストの再臨において完全に回復し、最終的に成就されるのです。その日が本当に待ちどうしいですね。(終り)


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