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Walk With God Ministries

22 2月

2013年―2015年の3年間への預言              坂  達 也        2013年2月22日


2013年―2015年の3年間への預言

                      坂  達 也



今回のモーニングスター「ニューイヤーズ・コンファレンス」においてリック・ジョイナー師を中心に、特にカマル・サリーム師とポール・キース・デイビス師が、今年から始まる三年間に関する非常に重要な預言的メッセージをされました。サリーム師とデイビス師のメッセージは私たちWWGMの1月20日、27日、2月1日に掲載しましたのでご覧下さい。そこで私は下記にて、この二師のメッセージの要点を私なりにコメントさせていただきたいと思います。

抜き身の剣を持つ主の前に立つ

サリーム師は、2011年に主が「教会をこの世から切り離し、その間に距離を置く」そして2012年には「教会を教会から切り離す」と主が語られた言われました。そして今年2013年から始まる三年間で、切り離される真の教会が徹底的にきよめられ、しわもしみもない状態に主がされると言われます。彼はヨシュアに引き入れられて契約の箱を先頭にヨルダン川を渡ったイスラエルの民の話をし、私たちも今最後の時に来ていて、約束の地へ渡ろうとしていること、主はあなたの十字架を毎日担いで歩きなさいと主が語っておられると言います。そこで私にはイエスが語られた次の御言葉が思い浮かびました。

「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」
(マタイ10:34-39)この聖句ば非常に厳しいものです。しかし今こそ私たちは、この御ことばを本当によく噛みしめて自分のものとすべき時であると信じます。

剣と言えば、フランシス・フランジペン師は、ヨシュアの前に剣を持って現れた聖なる戦士の姿が、終末に来られる主の姿ではないかと言われ(ヨシュア記5:13)、私もそれに賛同します。「ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。『あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。』」

終末に来られる主はこの世を最終的にさばくために来られます。それはこの世を支配して来た悪魔とそれに従う人間の集団を一括してさばき、切り離すと共にし、主を信じる人たちを主の御国に集める作業です。これを聖書は「地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」(黙示録14:5口語訳)と説明します。この最後のハーベストの時に実るものは、よい麦ばかりではありません。毒麦も実ります。刈り取りを実際に行なうのは「真のキリスト者」の精鋭からなる軍隊です。特に毒麦の刈り取りは、主の指揮の下で、天の御使いに助けられながら行なわれる壮絶な戦いとなります。又、よい麦の刈り取りは終末の大リバイバルですが、これをするにも抵抗する悪魔軍と戦いながら行なう訳ですからやはり闘いが伴います。しかしその前にその収穫のための働き人が選ばれ訓練されます。それがこれからの三年間に行なわれると言うのです。

ところで「抜き身の剣」は私たちの戦いの武器の一つですが、それは肉のものではなく「御霊の与える剣である神のことば」であるとパウロがエペソ6:17で述べています。神のことば生きていて力があります。ですから、私たちクリスチャンが霊的に成熟すればするほど、霊的な剣がどれだけ必要であるかがわかって来ます。
そして主が、終末に生きる私たちを用いて「平和の神は、すみやかに、あなたがたの(私たちの)足でサタンの頭を踏み砕いてくださる」(ロマ書16:20)ご計画をお持ちなのですから、私たちはこの世の王である悪魔に完全に勝利するまでは、主と共に戦わねばならないことをこの際改めて認識していただきたいと思います。

そこで、前に立っておられる主を見た時、ヨシュアは主に向かって「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」と聞きました。「剣」は衝突する者同士の闘いを表し、又、その間を分けて切り離すための武器を象徴しますから、まさに今の時代は剣を持たれた主が、先ず働き人の精鋭を選ぶために「教会の中から教会を分けて切り離す」ことにも当て嵌められると思います。
又、聖書には次のようにも書かれています。「かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。しかし、聖書は何と言っていますか。『奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。』こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」(ガラテヤ4:29-31)これはアブラハムの子を産んだ奴隷の女ハガルの子イシュマエルと、自由の女サラから産まれた約束の子イサクのことを指しており、同じアブラハムの家に二人の子どもを相続人として共存させてはならないと言われているのです。つまり、同じ教会の中に肉の子どもと霊の子どもが共存してはならない、肉の子どもを追い出せ」と命令されているのですから「教会」から肉的クリスチャンの「教会」(員)を切り離すことは聖書的であるのです。

従って「切り離して分ける」基準は、私たちが100%肉の人間から、先ず肉のクリスチャンになり、更に100%霊的なクリスチャンに変えられねばならないと言うことになります。それが上記のマタイ10章に書かれている「どんな近親の者(肉の者)より主をより愛し、それどころか、肉の自分自身を完全に捨てて、毎日を主のためにのみ生きる者になっているかどうか」の一点にかかっています。それゆえに、主は「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」と言われます。
これで明らかなことは、私たちが地上のクリスチャン生活の最後に、この一点だけが問われるとしても全く不思議はありません。しかし完全な霊的クリスチャンにならなければ地獄に落とされると言うことではありません。
考えてみれば、私たちクリスチャンはそれが最終目標であることを承知し、覚悟の上で洗礼を受けたはずです。パウロは「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」と言いました。(コロサイ2:12.新共同訳)

勿論よちよち歩きの信仰の弱いクリスチャンがこれを本当に自分のものとするまでには時間が掛かることを、主も充分承知しておられます。しかし、キリスト者たる者、最終的にはそうならねばならないことに変わりはありません。もし、いつまでもそうならない者が出て来るとすれば、そうである者とそうでない者とがはっきり区別される時が来ることを、私たちは当然覚悟しなければならないと思います。言ってみれば、いつか決算の「つけ」が廻ってくるのです。そのことを、残念ながら、多くのクリスチャンは安易に忘れ去り、見逃して時を過ごしていないでしょうか。主は、いつまでたってもそのような「主にふさわしい者にならない者」をこの世的で自分が生きている「なまぬるいクリスチャン」と言われました。(黙示録3:16)主はそのようなクリスチャンを口から吐き出す程にお嫌いであるとおっしゃるのですから、私はその御言葉に身震いを感じます。

よく考えてみれば、「自分の十字架を常に背負って主の後について来る」姿こそ、真に夫に尽くす「キリストの花嫁」の姿です。歌を忘れたカナリヤではありませんが、自分の十字架を忘れたクリスチャンは真のクリスチャンではないと主がはっきり言われているのです。その大きな原因は、クリスチャンになれば誰でも「花嫁である」と言う安易な御言葉の解釈が一般的に通っていることにあるように私は思います。
つまり、キリストの花嫁とは肉のクリスチャンから霊的成熟が実り切って「キリストに完全に似た者、まるでキリストそのものになっているような人たち」であり、それでこそ真の「キリストのからだ」あるいは「キリストの弟子」であると言えないでしょうか。

教会からより分けられる「教会」は勝利を得る者

この世の終りに、剣を持って立っておられる主と出会いその後に従う者とは、教会の中から選ばれた「真の教会」の一団であることが今回、二人の講師によって強調されました。その人たちは背に自分の十字架を負い、手に抜き身の剣を携えている人たちであると私は認識します。その人たちが最終的に悪魔に打ち勝って御国を闘い取る「主に似た」者であり、デイビス師が強調する「勝利を得る者」の姿です。聖書は言います。「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」(黙示録17:14 新共同訳)又、主は「勝利を得る者」について、黙示録2:7,11,17,26、3:5,12,21と7回も語っており、特に3:21では「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」と言われていますから、真の教会、キリストのからだ、花嫁、それに加えてパウロがロマ書8:19で言う、単なる神の子どもたちではなく「成熟した神の息子たちhuios」が、主と共に「勝利を得る者」であることに間違いありません。そうであれば、私たちクリスチャンの全員が「勝利を得る者」になることを目指さねばならないと思います。なぜなら、この霊的戦いを通して、神が私たちを霊的に成熟させ、キリストにおいて私たちを完成させるための訓練であるからです。

さて、そこでサリーム師は10人の花嫁の話(マタイ25:1-13)とギデオンの軍隊の話(士師記7章)をして、これからの三年間に教会の中から「真の教会」が選出されることを示峻しました。
デイビス師は、黙示1:13-17から、今は「天の領域」を実際に経験する人たちを生み出すシーズンであると語り、ヘブル書11:32-34に書かれている大きな信仰の人たちが行なったのと同じような奇跡を行なう人たちで、既に存在するその人たちが、これからの三年間にそのような信仰の成熟に達するための訓練を受けた結果、終末の時代に主と共に働く「勝利者」の一団として選ばれると語りました。
又、ジョイナー師は、次の津波のようなリバイバルの最後の大波が来る直前に潮が引く際に、高いところに上がる人たちの話をし、それは天の御座に主と共に着く人たちであると言いました。
とどのつまり、この三師は皆同じことを言っています。

そこで、10人の花嫁の例では、5人が選ばれ5人が失格します。ギデオンの軍隊召集の場合は、初め三万二千人から最終的に三百人に絞られたことの意味をよく考えてみたいと思います。その合格率は決して多くはありません。ご存知のように、キリストはそのことを厳しく警告しています。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)この御ことばを本当に真剣に考えねばならない時がついにやって来たと私は思います。皆さんはどう思われますか。

聖書の話の中に出て来る例話とか、あるいはたとえ話にしても、意味のないお話は一つもありません。極論を言えば、旧約と新約を通じて聖書の預言と例話は、多くのことが終末に起こることへの預言、あるいは教訓として受け取るべきであると信じます。(1コリント10:11)
又、聖書に書かれてあることはすべて実現する、特にイエス・キリストご自身が言われた厳しいお話はすべていつか必ず起ると考えなければならないと思います。私たちはこの世的になって「奇跡が起こらないことにあまりにも慣れ過ぎた」せいか、多くの聖句を頭の知識としては知っていても、それが実際に起ると言う信仰につながっていないと言う気がします。私たちは先ずそのことに気が付き、心から悔い改めることから始めなければならないと思います。

又、信仰とは自分の肉の力で大きくなるものでは決してないと思います。あくまで主にいつも飢え乾き、熱烈に願って、主からいただくものであると信じます。そのように熱心に願う人に対して、主は、主のタイミングと方法で、そのような人の願いを聞き届けて下さいます。
又、「主のようになりたい」とか「主の御言葉を常に聞いて主の御心だけで生きたい」と願うことも同じで、自分の力で出来るものではありません。しかし本当にへりくだって、それを毎日執拗に願い求めれば、主がそうなるための訓練をして下さり、願いは必ず聞かれると信じます。

再臨の前に主は先ず、私たち主の宮-仮庵-に入られる

掲題について、デイビス師は非常に興味深いことを言われました。「神が人々のからだと言う仮庵に入られること、すなわち、神はご自分の選んだ人々をこれから完全に占有され、その人たちの中に完全に住まわれる・・・聖霊は既に手付金として、先ず私たちの中にお入りになられていますが、これから主ご自身が私たち(選ばれた人)の中に入って私たちを完全占拠されるのです。そうすることによって私たちが『祭司』となり、『地上を治める』にふさわしい者『成熟したキリストのからだ=キリストそのもののように』なる」と言われました。

私はこのことを2コリント5:4-9に見ることが出来ます。「確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」

パウロが書いたこの文章そのものがすばらしいですね。この文章の前後をぜひお読み下さい。そこで、上記で下線を引いた「その保証として御霊を下さいました。」の「保証」とは英語で言うアーネスト・マネーつまり不動産売買の時に使われる「手付金」のことです。私はそれで思ったのですが、もし私たちが主を信じた時に、神から聖霊を「手付け金」としてもらったのであるなら、早く残りの全額を払って下さる様に主にたってお願いしたらどうでしょうか。
しかし考えてみれば、もし主が初めから私たちの中に100%お入りになるとしたら、肉で罪だらけ、霊的には全くのベイビークリスチャンである私たちは、主の栄光と聖さに一瞬なりとも耐えられないのではないかと思うのです。従って神は、私たち自身が少しずつ聖められて行くに従って「キリストが私たちの中に形造られる」のを待っておられるのではないかと思います。それは女性の懐妊で幼児が母親のお腹の中で育って行くのに似ています。
これと同じプロセスのために、私たちは教会に所属して、教会とその指導者によって霊的に育てられる―「弟子訓練」を受ける必要があるのです。となれば、私たちにとって「教会」が母親であると言えます。そのことをパウロはガラテヤ4:19で「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」と丸で自分が妊婦であるかのように形容して言いました。
そして母親役の教会の最終目標は、エペソ4:13でパウロがこう言います。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」これはすごい御ことばではありませんか。私たちは最終的に完全に育てられ、成熟して、キリストが100%満ちている、キリストと同じ背の高さにまで成長する、と聖書が言うのです。先程も言いましたように、聖書に書かれていることは必ず実現可能であることをお忘れにならないで下さい。すなわち、教会がこのような主の身丈まで達した信仰を持つ完全な霊的成熟者を生むと言うのです。

しかし、今の教会の状態からすれば、後三年の間にキリストと同じ身丈にまで霊的成熟する人が多く出るとは、正直なところ、とても考えられないと言う気がします。そう考える方は恐らく私だけではないと思います。そうなると、これからの三年間で急成長して「かなり良い線に達している」霊的クリスチャンを、神が何か超自然な方法で、最後に引き上げることが必要と思うのです。そのために主は、今まで一度も地上を訪れたことのない優れた特別の御使いを用意されていて、その御使いたちを地上に送ることによって、選ばれた人たちの信仰を強めるご計画であると、デイビス師とサリーム師は言われました。
その結果、その人たちは「わたし(キリスト)の行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行なう」(ヨハネ14:12)ことが実現すると言われるのです。
しかし主は、それ以上のことをされると言う気がします。それがデイビス師が言うように、終りの時に主ご自身が来られて選ばれた「ほとんど完成に近い人たち」のからだ(仮庵)の中にお入りになると言うことではないでしょうか。私はマラキ書3:1に書かれている「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所(宮、神殿)に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者(キリスト)/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(新共同訳)と言う御ことばがそれを預言していると信じます。私たちが待望している主が、突然、主の宮である「私たちのからだ」に入られると言うのです。
そうであれば、私たちがキリストと同じ身丈にまで成熟することは可能ではないでしょうか。と言うよりも、パウロが、ガラテヤ2:20で言っていることが実現することになると信じます。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

2015年秋に何が起るのか            (以降は次回に続く)


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