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18 2月

宗教の霊に打ち勝つ  リック・ジョイナー     2013年2月18日


宗教の霊に打ち勝つ

 

リック・ジョイナー

 

 

パート1.宗教の霊を識別する

 

神の第一の命令は神を愛することであり、それが私たちに与えられた最高の賜物です。第二の命令は隣人を愛することです。律法全体はこの二つの命令を守ることにより成就されると主は言われました。即ち、この二つの命令を守るならば、すべての律法を全うできます。(マタイ22:34−40、ローマ13:8参照)

 

もし私たちが主を愛するならば偶像を拝みはしないでしょうし、もし隣人を愛するならば、妬んだり、盗んだり、殺したりはしないでしょう。ですから、この二つの「愛しなさい」というポジティブな命令を守ることによって、 すべての「〜するな」というネガティブな律法を成就することができます。

 

もし神への愛があるならば、それだけで私たちの心の中の殆どの悪を克服することができるでしょう。そしてそれこそが世の中の悪に対する最もパワフルな武器です。神を愛することが私たちの最も崇高なゴールであり、それが人生の第一の焦点であるべきです。サタンの教会に対する最大の偽り、致命的な打撃の一つが、この究極的な追求の道から私たちをそらすことである理由は、実にそこにあるのです。敵の策略は、私たちが人生の「悪」にばかり目を留めるように仕向けることであり、それによって私たちは、自分が見つめるものに似ていくことを敵は 知っているからです。(第二コリント3:18参照)私たちが「悪」だけを見ている限り、敵は私たちを自分の支配下においておくことが出来ます。私たちが主を見つめ主の栄光を見るならば、私たちは主の似姿へと変えられていきます。

 

これは私たちが人生の罪や間違いを無視するということでは決してありません。実際に聖書では、私たちは自分自身をよく吟味して、いつも信仰に立っているかどうかを吟味するようにと命じています。問題は罪が見出されたときに私たちがどう対処するかというところにあります。善悪の知識の木に答えを求めるのか、それともいのちの木に行くのか、です。即ち、自分を改善することによって神に近づこうとするのか、それとも、イエスの十字架のもとに行き、赦しと罪に打ち勝つ力をそこに見出すのか、ということです。

敵の一番の策略は、私たちが(人の)悪にばかり眼が行くように仕向け、それが善いとか悪いとか言う知識の木から食べるようにすることであり、そうすることによって、私たちが主の栄光と十字架から目を離れさせることにあります。この敵の策略が「宗教の霊」という形でやって来ます。これは、私たちが神への真の愛と礼拝をしているかのように見せかけ、そう思わせる偽りの悪霊です。この悪霊は恐らく、 ニューエージやすべてのカルトが今まで教会に与えてきた打撃を全部合わせたよりも大きな打撃を、教会に与えて来ました。

 

宗教の霊の特質

 

宗教の霊とは、私たちが宗教的な活動を多くすればするほど、それが私たちの人生を通しての聖霊の働き(そのもの)であると思わせる「代替え、すり替え」の悪霊であり、その一番の目標は「見えるところは敬虔であってもその実(power)を否定する者(第二テモテ3:5)」と教会を貶めることです。使徒パウロはこの箇所を「こういう人々を避けなさい」という言葉で結んでいます。宗教の霊は「パリサイ人とサドカイ人のパン種(マタイ16:6)」であり、主が弟子たちに警告されたものです。

 

主は喩えを用いて教えられることがよくありました。宗教の霊はパンの中のパン種のように作用します。パン種はパンに栄養を増し加えることはなく、ただ膨らますだけです。宗教の霊もそれと同じことをします。教会にいのちや力を増し加えることは全くなく、ただ単に人のプライド(これは最初の罪の堕落やそれ以来のすべての堕落のもとになっているものです)を膨らますだけです。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる(ヤコブ4:6)」という真理を、サタンは教会よりもよく理解しているように思われます。神はプライドによって膨れ上がった人の業の中には住まわれないこと、神ご自身がそのような業を退けられることを、サタンはよく理解しています。ですからサタンの策略は私たちに(自分で事を行なうことに)プライドを持たせることであり、それが良いことに関してのプライドであっても、例えば聖書を自分はどれだけよく読むとか、証しをするとか、飢えた人に食物を与えるとかということに対するプライドであってもプライドであることに変わりありません。もし私たちが神のみ心をプライドを持って行うならば、その業はかえって神の御国を阻むものとなり、ついには堕落への道になりえることをサタンは知っています。

 

サタンは又、一旦パン種がパンの中に入ってしまうと、それを取り除くのは非常に困難であることも知っています。プライドはそれが持つ性質により、取り除いたり矯正したりするのが最も難しい要塞となります。宗教の霊は、「神の御心や今神が言われておられる事、又何が神を喜ばせるかという事を自分はすでに知っている」と私たちに思わせることによって、私たちが神の御声を聞くことを妨げます。この惑わしは「神は私たち人間と同じような方である」と私たちが思うことに由来します。宗教の霊は又、「聖書の中にあるすべての励まし、叱責、矯正の言葉は、自分のためではなく他の人々のためである」と聖書を理解させるように働きます。

 

もし、宗教の霊があなたの問題であるならば、この本をここまで読んで来て「このメッセージは誰それにとってとても大切だ」と多分すでに考え始めておられることでしょう。この本はあなたに必要であるからこそ、神はあなたに渡されたのだ、ということなど思いもつかないのです。しかし実際は私たちすべてにとってこのメッセージは必要であり、宗教の霊という敵は私たち全員が程度の差こそあれ 戦わねばならない相手です。この破壊的な力を持つ偽りの霊から解放され自由になることは私たちにとって不可欠であり、そうなるまでは私たちが主を霊とまことで礼拝することは出来ません。

 

この悪霊の非常に強力な惑わしから私たちがどれだけ解放されているかという度合いが、 私たちがどれほど力強く真の福音を語れるかどうかを直接左右します。教会が宗教の霊に立ち向かう戦いは、終末の時代における大きな戦いの一つとなることでしょう。すべての人がこの戦いの中に突入し、一人ひとりがどちらの側に属しているのかがこれから決められていきます。自分が暗闇から解放されていなければ、人々を解放する権威を持つことは出来ません。この膨大な敵を克服し始めるためには、主が私たちの上に光を照らしてくださるように願い、宗教の霊がどのように自分と関わっているかを示していただかねばなりません。主がパリサイ人たちと常に戦わねばならなかったことから明らかなように、教会が始めから最も戦ってきたのは実はこの霊であるのです。パリサイ人の性質の中で最も顕著なものは、自分自身の欠点には盲目であるのに、他人の対しては悪いところばかりを見ることですが、宗教の霊は私たちをそのようにしむけます。(続く)

 


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