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Walk With God Ministries

10 2月

益々強くなる主の臨在 フランシス・フランジペン      2013年2月10日


益々強くなる主の臨在

 

フランシス・フランジペン

 

悔い改めようとしない世界が大艱難を受ける運命にある事を私たちは知っています。しかし、いのちがあり真に祈っている教会は、もし人々がキリストに似る者にされていくならば、 真のクリスチャンには携挙が起こる前に地上で大いなる栄光のシーズンが訪れるのです。

この聖なる目的をご理解いただくために、私が1973年に主と出会った時のことをお話させてください。 私はハワイで小さな教会の牧師をしていたのですが、それは神に近づくための激しい祈りと長い断食をした月のことでした。この期間が終るとき、夜中に主が来られ、私は起されました。主の姿を目に見える形で見たというのではありません。私は主の栄光を見、主の臨在の強烈な炎で圧倒されたのです。直ぐに私は死んだようになり、指一本動かすこともできませんでした。しかし霊においては、私の意識・感覚はそれ以来経験しなかったように高揚しシャープになっていました。私は黙示録にある「その回りも内側も目で満ちている生き物(4:8)」になったようでした。

私は「内側の目」で、自分自身の義の真の姿を見ました。私がその時まで祈りと断食をしていたことを思い出してください。私は自分は満更でもないと感じていました。しかし突然私の人生の中の欠点が耐えられないほどに鮮明になり、途方もなく罪深いことがわかりました。私の罪は「時々犯してしまうもの」ではなく、私は絶えず罪深いことがわかりました。もっと愛情深く、もっと親切で、もっと人の気持ちが分かるべきであった時のことを沢山私は見せられました。又、私のほとんどすべての行動がいかに自己中心であったかも見ました。

しかし私のうちの大いなる闇にも拘わらず、主からの叱責や断罪を全く感じませんでした。私の罪を告発する天からの声もありませんでした。 断罪する唯一の声は私自身の声だけでした。主の臨在の光の中で私は自分をさげすみました。(ヨブ42:6参照)

自己義認や欺瞞もない全くの裸の状態で、私は自分がいかに主の栄光にはほど遠い者であるかを見ました。人類がどうしてキリストの血潮を必要としているのか 、又いかなる努力をしても私がキリストのようになることは絶対に不可能であることが分かりました。心の奥底からキリストのように生きることが出来るのはキリストだけだということを理解しました。神のご計画は私を改善することではなく、私はとり除かれ、主イエスご自身が私を通して実際に生きてくださることであったのです。(ガラテヤ2:20)主の内住 にのみ、私が主のようになる希望はあるのです。

そして外側の「回りの目」で、 寝室のビリビリと電気が走っているような空気は、本当は非常に遠くにあるものから発っせられていることが分かりました。しかし、遠くからではあってもキリストの臨在から発せられるものは、私の意識では、燃える火のように強烈に感じられました。天の生きものの行進が夜空から下りてきました。私は天が地上に下りて来ているのをかいま見ているのであることが分かりました。

 

列の先頭にはあらゆる種類、階級の天使がいましたが、それぞれが特別の輝きを放っていました。先頭から三分の一ほど後ろに主がおられ、主の後ろには数えきれないほどの聖徒がいました。しかし私は主の栄光を奥深くまで見ることができませんでした。というのは、主に従っている者たちが主のからだの一部となっていたからです。

主は地球を裁くためだけに来られたのではなく、この世を主の栄光で満たすために来られたのです。繰り返しますが、主は遠く離れておられましたが、主の臨在の輝きは私の意識上で生きて燃えている火となっていました。そのエネルギーは痛いほどでした。

 

すると、何の前ぶれもなく行列が近づいてきました。私に近づいたというだけではなく私たちの次元に近づいたのです。それはあたかも一つの時の線が越えられたようでした。直ぐに私は主の臨在の激しさに全く圧倒されてしまいました。もう一瞬たりともこれ以上主の栄光が激しくなるのを耐えることはできないと感じました。私の存在そのものが主の輝きの熱風で燃え尽くされてしまうようでした。私は今までに口に出したこともない深い祈りで、主に私を私の身体にもどしてくださりと懇願しました。すると直ちに、憐れみによって、私は再び私の感覚が慣れた世界に、私の寝室にいました。

 

これが意味するもの

 

夜が過ぎ明け方になりました。私は早く起きて服を来て外に出ました。一歩一歩、私はヴィジョンのことを思い巡らしながら歩きました。太陽が東の空に上った時、それに目を止めるようにと主が促されました。太陽を見たとき私は、太陽の光と主の栄光との共通点がわかりました。詩編19:1の「天は神の栄光を語り告げる」という言葉を今までとは違う意味で悟りました。

太陽は地球から9300万マイルも離れているにも拘わらず、私たちはその熱を感じその光の中で生きています。考えられないほど遠いけれど、そのエネルギーはここにも届いています。それは私たちを暖め、その光のなかでこそ私たちのいのちは存在しています。天にある主の栄光のからだから発せられる主の臨在も、それと同じようなのです。物理的には主は遠くにおられるのですが、時として私たちは主の臨在の光線をここで感じるのです。私たちは実に主の愛によって暖められているのです。太陽の光のように、キリストの栄光は、主が天にいて私たちから離れておられるならば「安全」です。

でも想像してみてください。もし何十年かの間に太陽が徐々に地球に近づいてきたらどうでしょうか。ラディエーション(放射エネルギー)、熱、光は劇的に増加します。近づくにつれて、今の世界は激しく変化するでしょう!

 

それと同じように、主イエスご自身と主の千年王国が近づくならば、この世界は霊的に劇的に変化するでしょう。主の臨在の輝きは私たちの世界をつつむ霊的領域にどんどん増し加わって注がれるでしょう。そして「天の万象が揺り動かされる(マタイ24:29、ヘブル12)」だけでなく、今までの世界そのものも劇的な変化を経験するでしょう。

もし太陽が近づくならば、熱と光が増し加わり、私たちはもうそのことばかり考えるでしょう。義人は主の臨在により「栄光と誉れと平和(ローマ2:10)」を経験しますが、その栄光は悔い改めのない世界には恐ろしい「艱難と苦悩(9節)」をもたらします。邪悪な者達は山や岩にむかって「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りから、私たちをかくまってくれ。(黙示録6:16)」と叫ぶのです。

 

罪の中でかたくなになった者たちは、恵みによって悔い改めるか、もしくはパロのようにもっとかたくなになるでしょう。しかし粘土をかたくする太陽は、バターを溶かすこともできます。ですから主が近づかれるとき、義人の祈りは「私たちを小羊の臨在で満たしてください!」というものとなるでしょう。キリストの臨在だけがこころを満たすものとなるのです。主を愛する者は主の喜びをもっと味わい、天の蜜を味わうでしょう。主を喜ぶ者も主に敵対する者も、すべての人の心は神への思いで一杯になるでしょう。

 

マラキ4:1−3にある通りです。

「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。—万軍の主は仰せられる。—しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。—万軍の主は仰せられる。—」

 

同時に二つの出来事が地上で現実となるでしょう。その二つともが「永遠の源」による結果です。ますます増加する臨在が悪者の上に怒りをもたらし、義人の上には神の栄光を顕すのです。私たち主を恐れる者のためには「義の太陽」が上り、その光には癒しがあるのです。(終り)


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