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Walk With God Ministries

15 11月

クリスチャン人生の第一の目標 フランシス・フランジペン 2012年11月15日


クリスチャン人生の第一の目標

フランシス・フランジペン

 

私たちのこの教会には3つの基本的な土台があります。

一つは、ここは祈りの場所であることであり、二つ目は、祈りの心を持つことです。祈りとは神の裁きと神の憐れみの裂け目に立つことです。神の憐れみが神の裁きに勝利することが私たちのゴールであり、祈りの目的です。そして三つ目は、イエスの柔和さ、謙遜さに達することです。これは到達したかどうかが分かりにくいものです。というのは「私はイエスと同じように謙遜になった。」と思った途端に謙遜ではなくなるからです。(笑) 「神は私が予定していたよりももっと私をへりくだらせた。」と言った人がいました。私たちがへりくだりのある地点まで到達した時、神はもっと私たちをへりくだらせる出来事を用意されるのです。これが真理であることを皆さんはお分かりでしょう。

 

そしてこの教会の一番のヴィジョンは、私たちがキリストに似た者になるということです。私たちがキリストに似ていなければ、教会の目的は失われます。神は私たちの古い性質を制御する「宗教」をくださったのではなく、「新しい性質」をくださったのです。イエスのいのちそのもの、新しいいのちをくださったのです。パウロは「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」と言いました。キリストがあなたのうちに生きておられるかどうかは、あなたの信仰のテストです。私たちの教会のすべてのプログラム、活動、ヴィジョン、訓練、教育等の目的は、私たちの中にキリストを解き放つことです。すべてのことはキリストが私たちを通して生きてくださるようになるためです。キリストの霊を解放して、私たちの人生の思い、考え、愛、信仰、そのすべてを支配していただくことです。それだけが私たちの教会がどれだけ成功しているかの計りなのです。何人の人がキリストに似た者になるかが成功の計りです。何人が教会に来ているかではなく、何人がキリストのようになっているかです。

 

真のリバイバルの証拠とは、私たちがどのように倒れるか、飛び跳ねるか、床を転げ回るかではないのです。そのようなことはあまり意味がありません。大切なのは、教会の建物を出た時にあなたがどれほどキリストに似た者になっているか、です。その時、あなたが真にリバイブされたかどうかが分かるのです。リバイブされたのはイエスのいのちだからです。それこそが私たちのいのちです。私たちのうちのイエスをリバイブさせ、主にすべてを明け渡すのです。これこそが私たちが持つべき唯一の目標であり、そのゴールにむかって焦点を合わせるとき、それによって私たちの人生の他のすべてのゴールは達成されます。

 

パウロはピリピ3章の中で、人生のゴールについて述べています。彼にとってそれは「私の主であるキリスト・イエスを知る事」であり、「キリストのようにされる事」でした。パウロは多くの書簡を書いたり教会をつくったりしましたが、そのような活動が彼のプライオリティーではありませんでした。彼の唯一の情熱はキリストを知る事に注がれたのです。

 

彼は「犬に気をつけてください。」と言っています。即ち「悪い働き人、肉体だけの割礼の者」を警戒せよと言っています。犬好きの方もおられると思いますが、一世紀の犬というのは、今のような可愛いペットではなく、ゴミをあさっている動物でした。エルサレムにあった12の門のうちの一つはゴミの門でその外ではあらゆるゴミが燃やされていました。犬はそのようなゴミをあさって生きていたのです。あるクリスチャンたちは、ただゴミくずだけを食べて生きています。臭いをかぎ回って悪くなっているか、腐っているかどうか調べまわり、不完全なものをかぎ回ります。誰かの失敗、何かの失敗を捜し回ります。そしてそれを食べて生きているのです。パウロはそのような「犬」に警戒せよと言っているのです。そのようなクリスチャンになってはなりません。

 

神様はもっと良い物をあなたのために用意していてくださいます。神は「宗教」をくださったのではなく、イエス・キリストとの真の交わりをくださったのです。パウロはそれを情熱をもって追い求めていたのです。彼はパリサイ人の中のパリサイ人、ベニヤミンの家系、律法に関しては熱心で落ち度がありませんでした。しかし、彼はこのようなことはキリストを知ることの素晴らしさにくらべれば損であると言っています。キリストを知りたいというパウロの情熱は、パウロを神の約束を成就させることへと駆り立てました。

 

キリストを知りキリストのようになることなしに神からの約束を成就できると思うならば、それは間違いです。私たちの人生の第一のプライオリティーが「キリストに似た者となること」になるまでは、神からの私たちへの約束の成就は引き延ばされます。教会のゴールはただ人数ではありません。キリストの弟子を作るのがゴールです。イエスは「弟子は師にまさるものではないが、良く訓練されれば師(即ちイエス)のようになれる」と言われました。キリストを知り、キリストに似た者となること、これこそがこの教会のゴールです。私たちはイエスを顕すために造られたのであり、そのために教会に集っているのです。

 

もしあなたが今日これを本気で願うならば、もしあなたが今日神にむかって「私はイエスのようになりたいです!」と叫ぶならば、イエスのご性質があなたの人生にあらわれるようになるのです。あなたが若くても年老いていても、男性でも女性でも、あなたの人生のすべての面において主イエスはあなたを通して顕れ出てくださるのです。そしてイエスご自身の本質を顕してくださいます。

 

あなたが真剣にこのことを求める時、主にむかって「主よ、求めます。そうなりたいです。」と祈るならば、神はあなたが主イエスのようにならねばならない状況の中にあなたをおかれます。私たちは言うのです、「主よ、私はあなたが嵐の中におられた時のように強くなりたいです....でも嵐ぬきでお願いします。」「 あなたのように人々を愛したいのです....でもあなたのように愛する事をすでに学んだ人たちの中でにしてください」「あなたのように水の上を歩きたいです....アイオア州で一月に。(これは誰でもできるのです、寒くて水は氷になっていますから。もし7月に歩けたら大したものですが)」(笑)

 

私たちの目標はイエスのようになることです。このことを真心から真剣に願うことです。そちらにむかって歩き始めることです。イエスのようでない部分を自分でそぎ落としていくのです。そのようにしていくときに(これは前もって警告しておきますが)いろいろな戦いが起こってきます。神はあなたをもっと高いレベルに引き上げるために、いろいろな戦いを用意されます。そしてあなたに油を注ぎその戦いに勝利できるようにしてくださいます。それはあなたがイエスのようになるのを阻んでいるものとの戦いであり、神によってあなたのために戦略的に用意されるのです。その戦いの中で私たちは正しい道をえらびとって行かねばなりません。私たちはまず教会という安全な場所で正しい決断をすることを学び、次には厳しい社会の中でも正しい決断ができるようにされていくのです。それによって私たちの人格は形成されていき、キリストに似た者へと変えられていくのです。(説教からの抜粋)(終り)


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