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Walk With God Ministries

10 8月

消えない光 ロバート・リカーデリ 2012年8月10日


消えない光

ロバート・リカーデリ

 

多くのキリストに従う者にとって、 常に問題となるのはクリスチャン生活が二つの顔をもってしまうことです。そのような人たちは自分の生活を区分化して、 すべての瞬間、すべての呼吸、人生のすべての場に神の光が射しこむことを逸してしまっています。

光に関する聖書箇所をいくつかここに挙げてみます。

マタイ5:14「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。」

箴言4:18「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」

ヨハネ8:12「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 

「ミニストリー」の定義:クリスチャン、又はクリスチャン・グループによる霊的働き又は奉仕

 

私たちが心から信奉できる最高の啓示の一つは、「私たちが人生で行うことはすべてミニストリーである」ということです。なぜならば 神の光は私たちの内にあり、私たちを通して輝くのであって、それは決して暗くなったりしないからです。すべての仕事、任務、家族、娯楽、そして何であっても聖霊が私たちを導くところは私たちの「ミニストリー」です。

 

コロサイ3:23−24「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」

あなたが受け取るのは主からの報酬であることを忘れないでください。主はあなたが受け取るべきものを必ずくださいます。あなたは主イエス・キリストのために働いているのです。私たちがすることはすべて王なる主と御国のために仕えることです。

 

あなたが何をしていても、すべて主のためにしているのであり、主と主の御国に仕えているのです。すべてのクリスチャンが「自分が行くところすべてに主の臨在を私は持ち運んでいるのだ」という啓示をしっかりと握りしめるならば、それはまず彼らを変革し、そして周りの多くの人を変革することでしょう。彼らは主の性質、主の愛、主の目的の中に歩むことを願い、 この地に神の御国を今日確立していくでしょう。

 

私が神を以前よりもっと深く 愛するようになったとき、次のステップとして当然私がとるベき道は四方を壁に囲まれた組織的なミニストリーの中でフルタイムの聖職者になることだと私は考えました。そう考えたのは「それが一番神を愛することである」という間違った思いからきたものでした。けれども聖職者としての働きの型に自分をはめようとすればするほど、私はそわそわと落ちつかなくなっていきました。とうとう主は私の頭をゴツンと叩いて「行く方向が間違っているよ。」と言わねばなりませんでした。私はやっと神は私のために違うご計画を持っておられるということが分かったのです。

 

そして私は、「私は主の中にいる。主は私の中におられる。主に従って私がするすべてのことは、法王や牧師、預言者、その他宗教が 与える様々なタイトルを持つ者と同じように霊的なことである。」ということをやっと理解しました。御父は私に「あなたがわたしの声を常に聞き、わたしのことばに従うならば、わたしとともにあるあなたの人生のすべてにおいて 、わたしはつねにあなたを喜ぶでしょう。」

 

主が私たちを主の似姿に変えていってくださるとき、人生のすべての面において主が私たちを通して働いておられるのを、この世は見始めるのです。私たちは自分の家族、ビジネス、自分が住む地域社会の中で、主の聖なる管理人となるのです。 主が与えてくださっているすべてのものの管理人となることが、各自のフルタイムのミニストリーとなります。なぜならば私たちは常に主の代理人だからです。私たちは何をするにしてもフルタイムのミニスターとして召されているのです。バスの運転手はキリストの光であり、説教壇から主の光を輝かせるものと全く変らない主のミニスターです。お母さんたち、あなたは外で働いたことがなくても家族や地域社会のミニスターです。私たちのすることはすべての主の栄光のためです。

 

私たちが行うすべてのことは御父を礼拝する行為となります。イエスの御名において、私たちは誠実で信頼できる者となり、周りの世界に塩と光をもたらすのです。聖職者としてのミニストリーではマーケットプレイス(実社会)にいる人たちには適応するのが難しくいろんな面で接触できなかったり、理解できなかったりするかもしれません。しかしマーケットプレイスにいる者が神の愛と力で歩むならば、主の目的のための革新的な道具となることができます。

 

第二コリント4:6−7「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」

 

どこにでも神の臨在を持ち運ぶ

 

私たちが人生のすべての状況の中に神の栄光を持ち運ぶことができることを知るのは何という特権であり喜びでしょうか。主の臨在がそこにあるだけで、人々は解放されます。神の臨在によって簡単な会話やちょっとした関わりを通して人々が革新されるのを私は見てきました。

 

人々は「これは誰にも言ったことはないのですが、あなたにはどこか違うところがあります。私はあなたを信頼できるのです。」とよくいうようになるでしょう。私たちはその違いが何なのか、又何でないのかを知っていますね。勿論それは神を除外した私やあなたのことではありません。それは私たちの内におられる神であり、私たちを通して神の臨在が盲人を癒し、迷った人が神に戻る道を遂に見つけることができるようにしているのです。

 

自分が毎日絶えず主のミニストリーを活性化していうのだということを理解すると、私たちは常に、出会うすべての人のための 「恵みと憐れみを伝える生きた書簡」であらねばなりません。これは必ずしも彼らに説教をするという意味ではありません。 主の御声を聞く用意がいつも出来ていて、主が伝えるようにと言われることを伝えるのです。主の臨在の故に私たちの人生そのものが言葉以上に雄弁に語ることができます。自分の霊的な衣装をまとおうとすると、その行為は実を結びません。主は私たちに聖書の何章何節とかではなく、ただ一つの言葉を伝えるように言われるかもしれません。また、人々に愛や理解や励ましを与えることを望まれるかもしれません。私たちは聞く耳をもたねばなりません。その能力は御父とその御ことばであるイエスと共に時をすごし親密になることでしか得ることはできません。この親密さにより、 よい適切な機会に主からその人のための言葉を受け取る敏感さを私たちは得ることができるのです。

 

私たちは神の光を閉ざすことはできません。それは常に私たちの内に、私たちの上に、又私たちを通して輝いています。 神を毎日経験し、いのちの流れの中で生きていくためには、うわべだけの宗教になってしまう傾向を抹殺していかねばなりません。神の御国をパワフルに来らすために超自然的な愛で私たちは愛さねばならないのです。

祈り:父よ。私たちが生活の場で人々に仕え、あなたの栄光を世界に分け与えることが出来るように知恵と啓示をお与え下さい。

イエスの御名によって祈ります。アーメン(終り)

 

Robert Ricciardelli
Converging Zone Network & Visionary Advancement Strategies
Email: Agaperoad@gmail.com


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