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05 5月

最も偉大なる希望    リック・ジョイナー     2012年5月5日


最も偉大なる希望    リック・ジョイナー

私たちはイエスの復活をお祝いしたところです。ですから今、この真理に基づいて生きることを決意しようではありませんか。スポルジョン師は「復活を信じるクリスチャンは極めて少ない」と書いています。これを読んだ時、これは印刷間違いだと思ったのですが、すぐにこれが事実であるという内なる聖霊のあかしがありました。ロ—マ10:10に、私たちが義と認められるのは、ただ頭だけではなく心で信じたときであると書かれています。私たちは復活の教義は信じています。しかし、もし本当に心で復活を信じているならば、私たちの人生は劇的に違ってくるはずです。

どのように違ってくるのでしょうか? まず第一に、私たちは一時的なものに心を奪われるのではなく、永遠のものに目を向けるでしょう。「あまりに天国のことばかり考えていて、この世では役に立たない」という言葉があります。しかし 実際は、「 クリスチャンの多くは地上のことばかり考えていているので、天でも地でもあまり役に立っていない」というのが本当のところです。歴史的に見ても、一番天のことを思っていた人たちがこの世においても一番良い業を行ったというのが事実です。

天のことを思う人たち、即ち「天の御国をまず求めなさい」という勧告に従っている人たちは、地上で最も解放された自由な人たちであり、これからの時代にはそれがますます明らかになってくるでしょう。コロサイ3:1−4にこのように書かれています。

「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」

ある看護婦が「クリスチャンはどうしてもっとうまく死ねないのか」という質問をしてきたことがあります。彼女は「もし彼らがキリストを信じていて永遠のいのちを持っているとしたら、どうしてあんなに死を恐れる必要があるのか」という疑問を持っていたのです。これはもっともな質問です。すべてのクリスチャンは大いなる喜びと期待をもって死んでいくべきです。そして究極的な束縛である「死の恐れ」から解放されているのですから、私たちは地上で生きるときも同じように最も自由な者として生きるべきです。

復活は「起り得る最低最悪の事でさえ、すべて勝利に変えられる」という最も偉大な希望です。第二コリント2:14で「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」と言っている通りです。ですから主に従う者にとっては「勝利するかどうか」ではなく、「どのように勝利するか」というのがポイントです。キリストに従うならば絶対に敗れることはないからです。

戦争やスポーツにおいて一番人々に称賛される勝利は、最も困難な状況の中で勝ち取られた勝利です。キリストにおいてもそれと同じです。私たちは 超自然的な神の力を見たいと思います。しかしその力を必要とする状況におかれるのは嫌なのです。偉大なる勝利を見たいのですが、それを必要とする立場に立たされるのは嫌なのです。しかし、今私たちはそれらを必要とする時にいるのですから、その機会をしっかりと捕らえようではありませんか。

聖書の中の偉大な英雄たちでさえ、主に用いられるまでには信仰において成長せねばなりませんでした。ダビデはゴリアテと直面する前に、獅子や熊と戦いました。私たちも同じです。主はいつの日か私たちを 偉大なる歴史的な戦いへ、そして勝利へと導かれるかもしれません。しかし、その日に備えるために、私たちは今日与えられている小さな戦いを見逃してはならないのです。

勝利がいかに大きくても、又小さくても、すべての勝利を喜んでください。試煉がいかに大きくても、又小さくても、しっかりと受け取ってください。キリストに従っているならば、私たちがそのすべてに勝利しないことなどあり得ません。主が私たちを勝利以外に導かれることはあり得ないからです。けれども先ほどの聖書箇所にあるように、それは「キリストによる勝利」であり、私たちだけの勝利ではありません。それでは、主の勝利とはどのようなものでしょうか?

最も偉大な勝利

この世で起りうるもっとも偉大な勝利は十字架上で起こりました。しかしそれは勝利のようには見えませんでした。イエスが十字架の上に釘づけされたとき、地上で生きた最も偉大な善であるお方に対して悪が勝利したかのように見えました。しかし、最大の敗北と見えたものが、実は最も偉大な勝利だったのです。ですから、偉大な勝利というものは、初めは偉大な勝利のようには見えないかもしれません。ですから、 あたかも悪が勝利したかに見えるときでも、私たちは希望を失ってはならないのです。しばしの間は悪が勝っているように見えても、それは決して長くは続かないのです。究極的なキリストの勝利は確実であり、それは永遠に続くものです。

心で復活を信じている人たちは、究極の恐れから解放されていますし、又それ故に地上で最も自由で幸福な人たちです。キリストは常に私たちを主の勝利へと導いてくださることを知り、すべてのことにおいて究極的に勝利があることを心で信じるならば、 私たちがすべての戦いに勇気をもって臨めないことなどあるでしょうか?

ローマ8:28で、すべては私たちの益になるという神の御ことばの約束をいただいています。もし主の御ことばが真実であると信じるならば、すべての戦いにおいて喜びながら勝利を期待するべきです。そのことがヤコブ1:2−4に書かれています。

「私の兄弟たち。さまざまな試煉に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者」とヤコブが言っているのは「キリストに似た者」になるということです。人生のあらゆる出来事は、私たちの内にキリストの御性質を生み出すためのものです。これにより私たちはすべてを受け取り理解することができるのです。これは又、すべての事が私たちの益になると言っているローマ8:28のすぐ後にも書かれています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」ローマ8:28、29

私たちはキリストにあって神の相続人となるように召されています。これ以上崇高な召しは全創造を見てもありません。私たちの人生に起こる事はすべて、私たちの内にキリストの御性質を形つくることによって、より高い召しへと私たちを整えることを目的としています。キリストは人間のすべての問題に対する答えであり、今私たちが直面しているすべての問題の答えです。私たちがお仕えしている方がすべての規則、権威、支配を越えた方であるという知識をもって生活しているならば、どうして私たちは恐れることができるでしょうか?すべてのチャレンジは信仰が成長する機会ですから、勝利の人生への鍵は、私たちに与えられている試煉を一つも無駄にしないことです。

聖徒の特徴

ローマ14:17で神の御国は「聖霊による義と平和と喜び」であると私たちは告げられています。もし 主の目に正しいことを行っているならば、私たちは他の何によっても得られない平安と喜びを与えられるのです。困難、恐れ、暗やみが世界に増していくとき、御国に住む者たちはその平安と喜びによって更にはっきりと現されていくのです。これからの時、平安と喜びが御国の真の民であることを示す最大のしるしとなるでしょう。すべての規則、権威、支配を越えて治めておられる方を知り、その御国が必ず来ることを知って従っていくとき、私たちが平安と喜びを持てないことなどあり得ません。

「その主権は増し加わり、その平和は限りなく(イザヤ9:7)」と書かれています。価値が決して下がらず、常に上昇していく株に投資したいですか? では御国に投資してください。そうすればあなたの投資は限りなく増加していきます。

神の御国をまず第一に求める者には、御国の平安と喜びが増し加わるでしょう。箴言4:18に「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」とある通りです。クリスチャンの人生の本来の姿は輝きがどんどんと増し加わるものです。世界がどのように暗くなったとしても、私たちには更に明るさが増していく別のリアリティーがあるのです。

世界はますます暗くなるでしょう。しかしこの世界は私たちのリアリティーではありません。イザヤ60:2に「やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」とあるように、「義の道」にとどまる人には光が増し加わります。

世の中が最も暗やみとなる時は、 私たちの上に主の栄光を見るときでありましょう。次のイザヤ60:3には、国々はあなたの輝きにやってくると書かれています。光が勝利し、国々がその光にやってくるのです。夜明け前はもっとも闇が深い時です。しばらくは暗さが増していきますが、それは神の民の上に現れる栄光をもっと明るく輝かせることになるのです。

今の私たちの目的

死への恐怖は究極の恐れですが、復活への保証によってそれが克服されたならば、他のどの恐れであれ、そのくびきを打ち破るのは容易くなるでしょう。復活を覚えて祝うことがどれほどクリスチャン生活にとって重要であるかという理由はここにあります。この真理の知識のうちにとどまるならば、私たちは他のどのような恐れも容易く克服することができるはずです。

私たちを圧迫し支配するためにサタンは恐れを用います。キリストにあって、私たちは恐れによるのではなく信仰によって歩むのです。恐れは本質的にサタンの武器であり、恐れによって支配されることを許してしまう者は、彼らがどのように弁明しようとも、キリストよりもサタンに仕えているのです。黙示録21:8にそれが明らかです。

「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄とに燃える池の中にある。これが、第二の死である。」

この箇所でおくびょう者 は、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを言う者より先に挙げられています。恐れによって支配されるおくびょう者はキリストのものではないというのが真実であるからです。なぜならば、黙示録20:14−15で言われているように、火の池に投げ込まれる者とは、いのちの書に名がしるされていない者たちだからです。真に信じる者は勇敢であり、恐れによってコントロールされません。キリスト教の中におくびょう者がいる場所などありません。このように真に主を信じる者はやがてはっきりと見分けられるようになります。決して恐れによって支配されないで、よみがえられた神の御子を信じる信仰によって生きることを、今、決意しようではありませんか。私たちはこの世に対しては死ぬように召されています。死んだ者に対して何ができるでしょうか? 死んだ者は失敗や拒絶、その他どのようなことに対しても恐れを持っていません。もし私たちがキリストと共に死んだのであれば、今主の復活の力によって歩くことができ、恐れなどないはずです。

いにしえの預言者や義人たちは、 私たちが生きる特権を与えられている今の時代を見ることを願いました。それらの偉大な信仰の英雄たちに会って話が出来るときを夢に描いている人たちは、彼らが今の時代に生きた聖徒たちと話をすることをもっと願っていたことを知ってショックを受けることでしょう。一番偉大な信仰と一番偉大な業は、試煉を無駄にせず、神と歩む最も偉大な機会を無駄にしない人たちによって、ほどなく現されていくでしょう。

2012年には多くの物事が揺さぶられるでしょう。しかし、私たちは揺るぐ事のない御国を持っており、揺さぶられているものはすべて御国が現れるためにそうされているのです。あなたの人生を、決して揺るがされないもの、そして決して失望させられない希望の上に築き上げてください。復活の信仰で生きることを決意してください。(終り)


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