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Walk With God Ministries

04 10月

大いなる霊の大波  リック・ジョイナー       2011年10月5日


大いなる霊の大波

 

リック・ジョイナー

 

1987年に私は二日半に及ぶ預言的体験をし、これから起こる出来事のパノラマを主から見せられました。私はそこで見たことを「The Harvest」という本に著しました。私がその時見たことの多くはすでに現実となっておりますが、最も大いなる出来事であるこの時代の終りに起こる魂の収穫は、まだ起こっていません。しかしそれが今近づいています。

 

イエスは「収穫とはこの世の終りのことです。(マタイ13:39 )」と言われました。これは歴史上最大の魂の収穫であり、これまでのすべての収穫を合わせたものよりも大きなものとなるでしょう。私が見たヴィジョンの中で、収穫は2つの大波として現れました。第一の波は今まででは一番大きなものでしたが、それは来るべき最大の収穫のための働き人として神に召された人たちが刈り取られたに過ぎません。

 

この第一の波は、私がヴィジョンを見た直後から始まり、20年近く続きました。その20年間で、それまでの時代に救われたすべての人よりももっと多くの人たちがキリストを信じるようになりました。ピーク時には一日平均40万人もの人がキリストの下に来たという概算もあります。赤ちゃんが生まれる数よりもボーンアゲインする人の方が多かった国々もありました。アフリカや中南米、アジアで何千万人という人たちが救われました。

 

この波は北アメリカやヨーロッパにはほとんど達しなかったように見えますが、しかし、そこから多くの伝道者や働き人が世界中の大きなリバイバルのために遣わされました。そして、今、北アメリカやヨーロッパにも波が来ようとしています。一番目の波の後、神の最大の動きが始まる前に、しばしの 穏やかな期間があるのを私はヴィジョンの中で見ました。私たちは今穏やかな期間の最後に近づいていて、今まで地上でなかったようなリバイバルの波をまさに迎えようとしているのです。

巨大な収穫

 

津波が大海原の上を渡っているときは、さざ波のようにしか見えません。しかし陸に近づくと急激に高くなり、時として百メートルを越える高さに達します。数分のうちに穏やかだった海が高くうねり、行く手にあるものをすべて押し流していきます。 今は霊的に何も起こっていないように見えますが、霊の津波が来ようとしているのです。ですから私たちはそのために備えをせねばなりません。

 

ほとんどの教会が直面するであろう一番大きな問題は、爆発的な教会成長にどのように対処するかということです。ヴィジョンの中で、私は100人以下の小さな教会に時には一週間に千人もの新しいメンバーが加わるのを見ました。勿論、同じことがペンテコステの日に起こりましたし、他にも一日に何千人もが救われる事がありました。主から個人的に訓練を受けた12人の使徒にとっても、これはストレスとなりました。そのプレッシャーが最大になったとき、ディーコン(長老、監督)という新たなミニストリーが誕生しました。ここで生み出された教会生活の基礎組織は今もよいモデルであり、来るべきリバイバルを扱うために私たちはその機能的なシンプルさに戻る必要があります。

 

ヴィジョンの中で私は、教会が非常に大きくなり、フットボールやサッカー競技場を借りて礼拝をするようになるのを見ました。時には何千人、何万人という人たちが公園や大きな野外集会所に集り、聖書の教えを聞き、祈り、ワーシップをするようになります。全市をあげて、又、国全体がキリストに来るということが多く起こり、その国全体が一つの巨大な教会のようになります。

 

数年前、私は一週間 、一日に数時間ニュースを見ることに決め、良いニュースがどのくらいの割合であるかを調べました。そして一週間、私は一つも良いニュースを見なかったのです。ニュースはすべて難問 、危機、災害、苦難についてでした。それはまだ経済的にかなり繁栄していた頃のことです。今はもっと悪化しています。しかし変化がやってきます。次の波が来るときには世界中で良いニュースがほとんどになるのです。

 

何千、何万という人たちが、 祈りとワーシップのために計画もないのに自然に集まるというような出来事が起こり、それがその日一番のニュースになるでしょう。マスコミは、今は政治家や実業家たちを追っていますが、その時は使徒グループや伝道者たちを追うようになります。 主が「突然主の宮に来られるとき」には一番のニュースとなり、世界中の人がそれを知ることになるでしょう。

 

キリスト教の放送が今までに キリストに導いた人よりも、一般の放送局の人がもっと多くの人々を導くようになるでしょう。これはキリスト教の放送局の今までの働きを否定するということではなく、このリバイバルの 影響力のすごさを表しているのです。神がしておられる偉大な出来事のニュースのために、他のほとんどすべてのニュースは取り上げられないという期間が世界中で起こるでしょう。

 

ウェールズ地方やアズサ・ストリートでのリバイバルは、起こってから2年近く 世界中で繰り返し一面記事となりました。けれどもそれは来るべきリバイバルの前味であり、蒔かれた種であったに過ぎません。来るべき神のムーブはある面では過去に起こった沢山の神の偉大なムーブを一つにしたようなものと言えますが、しかし基本的に一つのことが異なっています。これは「神のムーブ a move of God」であるばかりではなく、「神が動いておられる God moving」ということになるからです。

 

これは単なる言葉のあやではありません。すべて真の神のムーブは 神が始められることだけは確かですが、神がその中におられない事が多く起こっても神は祝福してくださいます。しかし、これから起こることの中には神の顕在と臨在が非常に顕著であるので、人々は個々の真理とか神の業とかを追いかけるのではなく、主ご自身を追いかけるようになります。神のなされる業だけではなく、神ご自身のことを人々が話すようになります。このムーブはイエスを高く上げるものとなります。イエスが高く上げられるとき、すべての者が主に惹き付けられます。教義やプロジェクト、ミッションにではなく、主ご自身にです。

 

教義は勿論必要です。健全な聖書的教義を新しい信者に教えることは非常に必要とされていますし、すべてのクリスチャンが神の真理に堅く基礎を置くためにも教義は必要です。神の御心のプロジェクトやミッションの必要もあります。しかし、「最も大事なことを大事にしておくのが大事なこと the main thing is to keep the main thing the main thing」であり、「最も大事なこと」とはイエスです。真の使徒が伝えた福音はイエスでした。「彼らはイエスと死人のよみがえりを説いた。」のです。イエスが再びメッセージとなるでしょう。そして人々は主ご自身がしておられることに注意を向けるでしょう。

 

来るべきものは、使徒的福音の再来です。「道 The Way」とは一人のお方です。真理も一人のお方であり、もしそのお方を自分の命として知ることがなかったならば、実際のところ私たちは道も真理も知らないのです。主はご自分の教会の中で当然着かれるべき地位に着かれる(主個人が教会の中心となる)ために来られます。主がそうされるとき、教会は根底から変えられます。 「乞い願うものはただ主イエスです」と私たちが言うようになるとき(本来そうあるべきなのです)、教会は地上で究極の集団社会となり、大勢の人たちが流れ込んでくるでしょう。真のクリスチャン人生ほど偉大な冒険はなく、宗教ほど退屈なものはありません。宗教は真のクリスチャン人生によって取って代わられ、制度化した宗教は偉大な冒険によって押しやられるでしょう。

 

波を捉えよ キャッチ・ザ・ウエーブ

 

私たちは歴史上最もわくわくする時代に入ってきています。しかしこれは又警告でもあります。来るべきものに対する備えが出来ていないと、その犠牲になってしまいます。この世界的リバイバルは今までで最もチャレンジの多い出来事の一つとなるでしょう。神のムーブはこれまでもよく波に喩えられてきました。それは波が的確な喩えだからです。サーファーにとって大波に乗ることほどすばらしいことはあまりありません。しかし、あなたが波にただ漂っているときに大波が急に襲って来たら、砂を食み海水を沢山飲むはめになるでしょう。備えのない教会やミニストリーに対して、大リバイバルはそれと同じことをするのです。

 

波に乗るためには、波を捉えることの出来る正しいポジションで待っていなければなりません。波を捉えるためには、波がどこで砕けるかを見極めねばなりません。そして正しい位置で待機するのです。そして波が来たら正しい方向にむかって動き始めねばなりません。今はすべてのことが穏やかのように見えても、私たちは来るべきもののために、位置について波が来たときに正しい方向に動ける準備を整えておく必要があるのです。

 

私たちが正しい位置に付くために最も大切なことは、私たちの初めの愛—イエスへの愛―を回復し強めることです。私たちは皆、よい教えとかより良い生き方とかのためだけにではなく(これらも受け取りはしますが)、主のためにクリスチャンになったのです。 主のそば近くにいる人よりも 影響力の強い人は地上にありません。「主と共にいた」人たちは、今まで以上に人々の間で顕著になってきます。私たちは王なる主のうちに宿った分だけ真の霊的権威を持つことができます。来るべき大リバイバルに於いてリーダーとなるのは、主に最も近かった者たちでしょう。

 

来るべきものは、人間的なリーダーシップとか戦略でコントロールするには、あまりにも大きすぎるものです。万軍の将だけが率いることがお出来になり、そうされるのです。それはただ主の御ことば(書かれた御言葉から)聞くというだけではなく、御ことばなる主ご自身を聞くことなのです。来たるべきものに対する主な戦略は、主の御声を知り主に従うということです。主は御自分の民には個人的に指示を与えられるでしょう。これが使徒2:17−18の「終りの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」と言われている理由であり、 すべての人がこの中に含まれているのは明らかです。それは来るべきもののためには、このような導きが必要になる故であり、主を求める者にはこれまでもしてくださったように,私たちにもそのような導きを与えてくださるのです。

 

来るべき神のムーブは私たちが面する最大のチャレンジとなるでしょう。しかしそれはまた私たちの人生の最高の時ともなるでしょう。古き時代の預言者たちでさえ見たいと望んだものなのです。主は最高のぶどう酒を最後までとって置かれました。今これを読んで下さっている人の多くが、歴史上最大の神のムーブをその目で見ることになるでしょう。

 

私たちはそういう時代に生かされていることを感謝するべきですが、それと共にそれを大きな責任として受け取るべきでもあります。多く与えられた者からは多くが求められます。そしてこれからは多くの働きが必要とされるでしょう。しかし、マタイ11:28—30にあるように、くびきを主と共に負うとき、私たちは働きの中にも休息と安らぎを見出すことができるのです。

 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 

くびきは寝るときにつけるのではなく働くためにつけます。しかし、私たちが主の働きの中で主と共にくびきを負うときには最高の休息と安らぎを得ることができます。主がこの世が始まる前から私たちのために備えていてくださった業をすること以上に、私たちを満ち足らせる職業はありません。それは人がほとんど経験したことがないようなレベルのエキサイティングで充実した人生となるでしょう。そして主にある安息を知り、そのなかに留まることがすべての人にとって最も重要なこととなります。大勢の人が新しく信仰に入ると、多くの働きが必要になります。その際、人間的に奮起し努力することに陥らないように気をつけねばなりません。御国の真の働きの中では、人間(肉)的な奮闘や努力はかえって働きを妨げることになるからです。

 

主は超自然なお方

 

私たちは霊なる神と交わりをもつように創造されました。ですから、霊的なもの、超自然的なものを深く慕う思いがすべての人の内にあるのです。多くの人はそれを抑え隠そうとしますが、神との霊的交わり無しに私たちが真に満たされ平安であることは決してありません。イエスはヨハネ4:23−25で次のように言われました。

 

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 

使徒パウロは「私たちが肉体にいる間は(肉のからだを居心地の良い住みかとしているかぎり)主から離れている(第二コリント5:6−9参照)」と言っています。私たちは霊によって生まれた新しい創造なのですから、肉よりももっと霊的領域を住みかとするべきです。このことも来るべきものにおいては現実となるでしょう。また、山にむかって移れと言い、山が動くような「もっと大きな業」さえ起こり、神の御ことばが真実であることを証明することとなるでしょう。

 

真のクリスチャン生活は超自然的な生活であり、来るべきものにおいてはそれが現実となります。しかし、そのような奇跡を見るということは、そのような奇跡が必要な時代に生きるということです。人々は、主がなされる偉大な業への絶え間ない畏敬と驚嘆の中に生きるか、それとも世界の出来事に絶え間ない恐怖を抱いて生きるかのどちらかになるでしょう。使徒パウロは使徒行伝14:22で「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言っています。これは個人的にも、又世界にも当てはまる真理です。すべての試煉には御国への入口があり、全世界の究極的試煉の中には全世界が御国に入る入口があるのです。

 

ここで良いことは、艱難はいつかは終るものであり、それに反して御国は永遠に続くということです。主のおそば近くに留まる人たちは、艱難を通っているということさえほとんど気が付かないでしょう。預言的体験の中で、私はある時霊で上げられ、自分が戦艦のレーダースクリーンの前に立ち、主ご自身が横にいるのを発見しました。スクリーン上にこちらに向かって 真正面からブリップ(反射波信号)がきたので、私は船に90度方向転換するよう指示しました。船は方向転換しましたが、相変わらずブリップは正面から来て、それがだんだん近づいてきました。私は船にもう一度方向転換をするように伝えましたが、 結果は同じでした。私は衝突すると思い身構えましたが、突然ブリップ消え、何事も起こりませんでした。私は 一体何が起こったのかと主に尋ねました。主は、レイダースクリーン上のブリップは大きな災いの時を表すと言われました。それは必ずやってきて、それを避けることはできない、しかし私たちが主の近くに留まれば、それを感じることすらないのだ、と言われました。

 

自分の真の目的の中を歩んでいる者にとっては、大艱難さえも小さな出来事となるでしょう。反キリストがしていることよりもキリストがしておられることにもっと関心が寄せられるでしょう。イザヤ60にあるように「やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおう」まさにその時、主の栄光が御民に現れます。そして3節にあるように、国々も又栄光の中を歩むのです。光が勝利するのです!私たちはサタンの策略を知る必要があります。しかし真の保証はキリストが何をしておられるかを知り、主の目的において主と一つになることから与えられます。

 

ダニエル書2章にあるように、人間のすべての国々はことごとく砕かれて塵のように滅びますが、神の御国は大きくなり、全土に満ちるまでになるのです。「神の国をまず第一に求めよ(マタイ6:33)」という主の命令に従う者は終りのない発展を経験します。しかし、この世のものを第一に求める者は困難が増し加わるでしょう。そして年ごとに両者の差ははっきりしてくるのです。今は私たちの追い求めるすべてのものを越えて、御国を第一とする時です。

 

来るべき波を捉えるための最も重要な準備の一つは、私たちのために備えられている聖霊の賜物とその働きを知り、実際にその中を歩み始めることです。エペソ4章に書かれている新約時代の真のミニストリーへの指令 は、自分でミニストリーをするだけではなく、他の人々をミニストリーのために整えることです。この指令に従わない者は教会のリーダーシップからやがて姿を消すことになるでしょうし、人々を訓練し整える者はキリストのからだの将来のリーダーとなるでしょう。彼らは自分に委ねられた人々の能力を埋もれさせないで、それを育て大きく成長させていくのです。キリストのからだのすべての部分が各自の任務を果たすことなしに、 この時代にするべき私たちの任務を達成することはできません。

 

まとめ

 

私は過去5年間に渡り、 多くの困難、苦難が来ようとしていることをお話してきました。そして今までのところ、それらが正確であったことが証明されています。 私たちがお伝えせねばならなかったことを聞き信じた人は多くはありませんでしたし、正直なところ多くの厳しい言葉を言うのは私にとって楽しいことではありませんでした。ですが、これらすべての困難、試煉は御国に入る入口であり、私たちはそこを今通って行かねばならないのです。警告を聞いてそれに応じて備えた人たちはよい対処ができました。備えのある者はどんなときでも繁栄します。今の時のために私たちができる最も大切な準備の一つは、生活の簡素化です。

 

その日には、物を手に入れたり失ったりという事柄は、私たちが真の目的のために整えられて正しい位置についている事に較べれば重要なことではありません。持っているものを全部失ったとしても、来るべき最大の霊的機会を見過ごすことに較べれば、大したことではありません。私たちが人生で達成できる最も価値あることは、裁きの日に「よくやった。良い忠実なしもべだ。(マタイ25:23)」という最高の言葉を主から聞くことです。その日にこの言葉を聞くことを、自分がした すべてのことと喜んで交換しない人はないでしょう。今から私たちはその言葉を聞けるように生きるべきです。そのようにする人は最も幸せな人であり、その喜びは永遠に無くなることはないのです。(終わり)

 


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