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Walk With God Ministries

28 8月

神とアライン(一致)する グラハム・クック 2011年 8月29日


神とアライン(一致)するヴィジョン

 

グラハム・クック

 

私たちは勝手に自分でヴィジョンを持ち、神に「この上に息を吹きかけてください」と頼むのではありません。ワーシップし、祈り、黙想することにより、神の御思いに耳を傾けるのです。理性的なものや論理的なもの、又、 自分の能力や資源で十分達成できるようなヴィジョンは、その 企画に関わる人たちを最終的には引き上げることはできません。

 

御父は私たち一人ひとりのために、またグル—プのためにヴィジョンを用意されています。御父が見ておられるのは何でしょうか? 夢、幻、聖書、預言は、別次元から与えられるヴィジョンのための苗床になります。私たちのライフスタイルや思考過程が超自然的にならなければ、 キリストの啓示へ私たちが開かれることはありません。

 

人間が作ったヴィジョンは、あがき、苦労、骨折りを生じます。それは私たちから御霊のエネルギーを奪い去ってしまいます。 私たちから畏敬、驚嘆の念を無くしてしまいます。超自然的な財源、資源は人間が作ったヴィジョンには与えられません。ヴィジョンは神によって所有されねばならず、私たちはそれを従順に、又知恵を用いて管理せねばなりません。啓示は常に責任を生み出します。主ご自身がヴィジョンを所有しておられるならば、そのための資源は天から必ず送られてきます。

私たちが経済的に苦労しているときには、自分が神とアラインしているかを問うてみる必要があります。神が注文されたものは、神が現実的な形で必ず支払われます。資源が欠乏しているのは、私たちが神の目的にアラインしていないしるしです。

 

ある人たちは、自分が欠乏しているのは敵の所為だと言いますが、それは貧困の霊がそう言っているのです。私たちが何かを敵の所為にするのは、「敵が自分の上に力を持っていて、自分はそれと戦うことができない」と告白しているのです。またある人たちは、自分の欠乏を 回りの状況(例えば不景気とか)の所為にします。それは貧困のメンタリティーです。貧困とは経済的なことではなく、小さく乏しい可能性の中で生きることを学んでしまうことです。

 

神は破産したのでしょうか? ぎりぎりの予算でやりくりされているのでしょうか? 神の御国はこの世のシステムに依存しているのでしょうか? 豊かに溢れるばかりに所有しているのは誰でしょうか? もし御父が溢れるばかりの物の所有者であり、且つ悪者の富をも持つお方であるとすれば、、、私たちは自分が欠乏している理由をはっきりと見極めねばなりません。

 

何が神とアラインしていないのでしょうか? キリストの姿にもっと似なければならないのは私たちのどの部分でしょうか? もし私たちがもともとは神ご自身からヴィジョンを受けたのならば、それに忠実に歩んでいるでしょうか? 神が求めておられる方法で管理をしているでしょうか? 御霊で始めたものをどうにかして自分で達成しようとしているのでしょうか? パウロが持っていた根本的な視点は、「私は天からのヴィジョンに最後まで従い続けねばならない」というものでした。(使徒行伝26:19)

 

「ヴィジョンを管理する」ということは、必要な資金、能力、資源は一番のサポーターである神にすべて依存するということを意味します。神はすべてのことに関して私たちを真に成就させてくださる方です。私たちは「 自分が何者であり何が出来るのか」を、人々や状況によって支配されては断じてなりません。

 

御父の御思いと御こころを奉じるヴィジョンであれば、その必要は必ず備えられます。御父のめぐみにより私たちは、神ご自身が私たちの尽きる事のない命の源であるという確信を得ることができます。ヴィジョンは信仰を生じさせます。即ち自分は神のパートナーとして共に歩み働いているという確信が与えられるのです。ヴィジョンは力を生み出し、 神の力溢れる臨在によって生きるために必要な勇気を私たちに与えます。

 

神のヴィジョンはエネルギーを与えます。毎日私たちは私たちに対する神の喜びと情熱という重荷を背負って歩いています。主のくびきは負いやすく荷は軽いのです(マタイ11:28−30)もし私たちのヴィジョンが正しくアラインされていないと、物事を達成するための責任の重圧に私たちは押しつぶされるのです。

 

神のヴィジョンは洞察力を与えます。神はご自分が私たちの内に、又私たちのために見ておられるものを、私たちにも見せてくださいます。私たちは神の視点を学び、私たちが自由に使える資源を見ることを学びます。私は自分に与えられたヴィジョンが神のものであることを常に忘れないようにしています。それによって私の人生を神の視点で見続けることができるからです。(終わり)


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